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濁点(6)

 余計なものは入れられていないようだ。かつて、私が娘の食事に洗剤やつぶした虫の死骸を混ぜ入れていたこともあったせいか、同じことをされるのではないかとつい警戒してしまう。けれども料理の味は、いつだって上出来だった。

 食事を終えてテレビをつけると、芸能人の不倫騒動を話題にしているらしかった。私はパズルゲームを続けることにした。

「熱いよ」

 大しておいしくもない甘々のインスタントコーヒー。こぼして火傷させるタイミングを狙っているのだろうが、そうはいかない。私はちゃんとお前の手元を見ているよ。

 こんなコーヒーでも心はほっと安らぐ。娘がそばにいると常に気を張ってしまって、それだけで肩も凝るし、病気にだってなりそうだ。現に、心臓の拍動は狂いを見せる時がある。普段の動悸は隠せても、寝入りの間際に大太鼓をどんと打ったかのような強い心臓の衝撃で「うっ」と叫んで目を覚ましてしまい、そこからずっと怖くて眠れないなんてことは何度も経験している。私はきっと頭か心臓の不調で死ぬに違いない。いや、死んでたまるものか。

 娘は風呂場の掃除を始めたようだ。いつもは私もやっている家事なのだから、感謝など微塵もなかった。それに、ゲームとテレビだけの老後なんて望んではいない。私は家事をやりたいのだ。

 せめて、友人でもいれば私も気晴らしくらいはできただろうに。児童文学や絵本には友だちの作り方を説いたような小説も多かったように思う。何度か娘にも読んでやった記憶がある。けれども、大人はどうやって友人を作ればいいのだろう。子供時代にできた親友は一生の付き合いとなると聞いたこともあった。私には一人もいない。なら仕方がないか。娘もあんな出来損ないでは友人には成り得ない。

 なぜ、まともに育ってくれなかったのか。なぜ働かない。なぜ出て行かない。私はパートもずっとしてきたし、家事もこなしてきた。自転車だってたくさん乗りつぶした。お前とは違う。お前のためじゃない。お前のためには働かない。あの人のためだ。あの人の心を奪いやがって。あの人はずっと私のものだったのに。

 ああ、一人になりたい。一人でいられる間はずっと一人でいたい。一人でいられなくなったときに帰ってきてくれればそれでいい。だから今は消えてくれ。

 やった、五日以上やってもだめだったステージをようやくクリアできた。束の間の達成感が私を満たしてくれる。そこでやめればいいのにやめられない。ストレスと喜びと、感情は揺さぶられ続ける。ユーザーをつなぎとめるためにも新しいステージは増え続けるばかりで、今では一万を軽く超えていた。私はまだ二千五百を過ぎたところでうろうろしている。先はあまりに長い。なるべく無心でやり続けることが、精神面で健康的にクリアすることの秘訣でもあるのだが、雑念はだいたいいつも一方向から決まってやって来る。あいつのいるところから。

 とは言え、どうやら娘は掃除を終えて自分の部屋に戻ったらしかった。昔から読書だけは好きだったから、きっと本を読むのだろう。本を読んでいれば多少は出来のいい子になると信じていた。でもこのとおり、娘は出来損ないだ。いったい、なんの本を読ませればよかったのだろうか。童話か、歴史小説か、哲学か、それとも自己啓発かマンガ本か。なにを読んでも駄目なのなら、せめて静かなままでいてほしい。

 あいつが次に部屋を出てくれば、夕飯のメニューを聞いてくるだろう。お決まりのパターンだったから、馬鹿な娘に少しでも頭を使わせるため、なるべく「なんでもいい」と答えることにしていた。私はこれまで、ほとんど自分でメニューを考えてきた。旬の食材を使ってあの人に喜んでもらうために。

 まったくお前は料理の意味を知っているのか。

 何度もそう叱ってやりたくなったものの、私が娘に対してそうであったように、あいつも私に対して同じなのだろうから、料理の意味などは最初から無いに等しかったのだ。けれども、そう。いくら娘が疎ましくても、料理の腕前だけは認めないわけにはいかない。

 私は二杯目のコーヒーを飲みたく、残っていたケトルのお湯で粉末を溶かした。砂糖は要らなかったし、ミルクも同様だ。これが私の本来のコーヒーの好みだった。

 ソファに腰かけ、そこで一口飲む。体が安息を返事した。スマホをテーブルに置き、テレビを眺めながらチャンネルを変えていく。大きな数字からだんだんと減らしていくのが私の中で癖のようになっていた。最後は一だ。番組は、ダイエット企画だとかで体操の話題を取り扱っていた。私は体操なんかもう何十年もしていない。しっかりと体を動かしたいなら掃除をするのがいちばんだ。窓を拭くのも、床を拭くのも、そして拭いた雑巾を洗って絞るのも、ぜんぶ運動になる。腰の痛みが出るまでは私はどんな掃除だってやってきた。玄関のドアは脚立を使って拭き上げたし、フローリングの板の一枚一枚、その隙間も爪楊枝や針でほじくり返した。日ごろからやっていればそれほどカスも溜まらない。針――。そういえばずいぶんと昔、娘の落とした金色の画鋲は、床が傷つかないように針を上向けに設置しなおしていた。踏んで泣いていたが、落としたお前が悪い。

 考えるとまた腹が立ってくる。あと腐れなく追い出す方法は未だにわからなかった。けれども、帰ってこさせる方法だけは知っている。普段から優しくしてあげればいいのだ。

 表向きだけでもそうすれば縁は切れない。縁さえ、縁さえつないでおけば、私は老後を生きられる。

 私が養護老人ホームに入りたがらないのは金銭的な事情からではなかった。私はそもそも人と打ち解けられない性質の人間だ。だから老人ホームに許嫁を求めたり、そこで生涯をやり直す振りをしたり、死と解放を感じ、生き返ろうなどということは思うはずもない。この家こそが私の居場所なのだ。

 と、またミスをしてしまった。新しいステージはちっともクリアできない。コーヒーの、最後の一口を飲み干してため息をついた。娘の気配が近づく。夕飯をたずねてきた。そろそろかと思うと億劫で仕方がなかった。


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