見出し画像

濁点(7)

「ううん、なんでもいいわよ。まだお腹すいてないし」

 娘は引き下がらなかった。だからパズルゲームから連想された豆と魚をリクエストしておいた。

 いったい娘はどれほど万引きを繰り返しているのだろう。何百、何千とやってきているに違いなかった。なぜ店から、警察から、一度も連絡がこないのか。不思議だったが、それ以上考えないようにしている。娘を突き詰めるのは恐ろしかったし、店に聞くわけにもいかないからだ。

 浮き浮きして買い物へ向かう姿を、感情を殺しながら見送ったあと、私はこの時を待っていたとばかりに娘の掃除の確認をする。

 今回もカメラや盗聴器などを仕掛けられた形跡はない。掃除も完璧だ。これでまた少しのあいだ、安心して暮らすことができる。安心? いや、じきにあいつが帰ってきてしまう。繰り返される激情に安心なんてあるのだろうか。あの瞬間だけは命の危険すら感じずにはいられなかった。

 これまでどおりテレビの裏に、見えないよう包丁を忍ばせる。初めてそうした時は、刺す姿や、刺される姿、刺さる包丁の感触が想像されて握る手が震え、自分自身を恐ろしく思いもした。けれども次第に感覚は慣れ、麻痺してゆく。今ではこの時間帯の、自分の身を守るための作業として続けているに過ぎない。

 表で自転車のブレーキ音がした。娘だ。

 私はテレビを消し、ソファとローテーブルが障害物となるようテレビの前に位置取り、リビングへ入ってくる娘をじっと待つ。

 娘の目は見開かれていた。

「お帰り」

「黙れ!」

 いつもどおりだった。間違いなく商品を盗ってきたのだ。私は平静を保つために深く息を吐いた。

 娘は買い物袋とかばんをテーブルの上に乱雑に放り投げたあと、息を荒げたまま自分の部屋へと逃げ込んだ。包丁の出番がなかったことにほっとして、すぐに台所へ直す。こんなものが見つかってしまえば、いったいどうなるか分かったものではない。

 テレビをつけ、音で娘の声が聞こえてこないようにし、テーブルに置かれたかばんの中身も確認する。盗ったものはいつもと代わり映えのない、百円程度の小さな菓子が一点だけだった。憐れでしかなかった。こんなもののために――。

 私は、片付けのできない子を世話してやるような気持で冷蔵庫に買ってきたもののいくつかをしまった。これこそが私の仕事のはずだった。

 ソファに腰を下ろしても、パズルゲームをする気にはなれず、ぼんやりとテレビを眺め続ける。見放題の映画だとか動画配信だとか無料マンガだとか、今どきは娯楽がたくさんあって羨ましい。私にはどうもついていけない。簡単なパズルゲームがせいぜいだ。とは言え、昔は読書が私の娯楽でもあった。いくら読書をしても結果は人それぞれ。望んだようにはいかないようだ。

 なんとなくもどかしいこんな時にふと、好きだった小説を読み返してみたくなる。本はすべて娘にやってしまったし、いくつかは売って小遣いの足しにもしていたようだから、書棚に残っているのかはわからなかった。でも、どうせまたすぐパズルゲームに夢中になる。それでももう、かまわない。

 娘が静かにリビングへ戻ってきた。

「もう大丈夫なの?」

 落ち着いている顔からは余計な警戒も必要ないと読み取れる。

「うん、大丈夫。ごめんね、ご飯の支度するね」

「そう。よかった」

 これまで以上に壊れてなくて。

 天気予報の時間らしかった。なにが嬉しくてこの予報士はそんなに笑顔なのだろう。こっちはついさっきまで修羅場だったというのに。

「明日、金沢はどうなの?」と娘が聞いてきた。

「ううん、全国的に晴れみたいよ」

「そう、よかった」

 よかった? よかっただって? なにがよかったんだ。お前さえいなければ雨が降ろうとかまいやしないんだよ。言葉を真似やがって。含みを持たせやがって。こいつ、いったいどんな意味を込めて言ったんだ。ふざけるな、どういうつもりだ!

 瞬間に沸き起こった怒りは、私自身のためにも顔に出してはいけない。だから、娘からは見えない方の耳をかくふりをして、耳たぶを引っ張ったりつねったり。ここ数年で身につけた、私なりの怒りの制御方法だった。

「そうだ。ねえ母さん、キッチンスツールがあったら楽だと思わない?」

「キッチン、なに?」

 耳慣れない言葉につられ、興味を示してしまった。

「えっと、座りながら料理できるイスみたいなやつ」

「ふうん、良さそうね。最近は腰も痛くなってきてるから、あると助かるかも」

「じゃあこんど母さん用に買っとくね」

 そう言われて疑わずにいられるはずがない。

「あなた、座らないの?」

「疲れたらもちろん座るわよ」

「そう、そうよね」

 頷いて見せたところで疑念が払拭されたわけではない。なにか目的があるのなら、それが達成される前に見極めなければ――。かきすぎたのか、耳から流れ出た血が指先を染めた。

 料理があらかた進んだころ、私はキッチンスツールとやらの件を調べるために手伝うふりをしてキッチンへ行った。そういえば食器を取るときにいつも背伸びしていた。なるほどと思った。イスの上に立たせるつもりなのかもしれない。そしてバランスを崩させるつもりなのだ。打ちどころ次第では大怪我をしてしまう。それが狙いに違いなかった。

 私がそうしてきたように、日常の些細なことに罠を仕込むつもりだ。魂胆は読めたぞ。だったら使わなければいい。座るだけでいい。

 そこまで理解したつもりになっても、私は仕返しすることは考えなかった。

「いつもありがとうね」

 当たり前のことだよ。さあ、食べましょう。


      3


 食事のあと洗い物まで終えた私は、母のコーヒーを入れて自分の部屋に戻る。母は相変わらずテレビとパズルゲームだけだ。朽ちゆくだけの人生。枝葉が全て落ちるのは、いったいいつになるんだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?