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濁点(8)
仕事を休んだ時にやっている家事は、もはや私の領分となりつつあるものだから、そう簡単に譲るつもりもない。でも娯楽は違う。母からは奪えない。例えばテレビやスマホになんらかの不具合が生じたところで、新しいものを買えば済むだけの話なのだから、私が作為したところで無意味となるだけ。
家事は一日の流れの中にあるもので、それぞれの回数だってほぼ決まっている。人は四六時中食事しているわけでもないし、きれいな衣類をわざわざ意味なく洗ったりもしない。必要に応じて行うのが家事だ。
数字を追うだけの事務よりも、日々をつくるこの仕事のほうがどれほど重要か。お金さえあれば、ほとんどの人は、やりたくもない仕事なんてさっさとやめて家事を選ぶに違いない。お金さえあれば。
いったいあとどれほど、余裕を持った生活を続けられるんだろう。数年か、数十年か。母には具体的な金額も聞いていなかった。でも、働けと強く言ってこないということはまだまだ安泰なのかもしれない。私自身の預金も減っていく一方だけれど、できればもう働かず、ここで家事だけをしていたい。母をちゃんと見てあげたかった。
優しい母は好きだ。恩も感じている。だからできる限りのことは私がやる。
腰高のキッチンスツールをネットショッピングした。木製の、温かみのあるスツールだ。
赦されるなら、切っ掛けをこれとしたい。
「注文したんだけど、どうかな」
リビングへ行って母に画像を見せる。
「へえ、なかなか好さそうじゃない」と母は喜んでくれた。
「これで料理も楽になると思う」
「時代は変わってゆくのねえ」
昔は座って料理なんてしなかったと言いたいのかもしれなくて、でも、昔の話をしたらきりがない。洗濯機、掃除機、炊飯器、そんなもの、無かった時代もあるじゃないか。
「明日には届くから」
「あら、ずいぶん早いのね」
「暇なんじゃない?」
そう言いながらキッチンで麦茶を飲んだ。
「暇なら家事のひとつでもすればいいのに」と母は無茶なことを言う。
「ところで明日の用意、しなくていいの?」
のんびりしている母を気に掛けてやる。
「あ、そうだった。ついついゲームに夢中になっちゃって」
「日帰り?」
「一泊することになったから」
「そっか、要るものがあったら言ってね」
そう言い残し、寝る準備を済ませて部屋へ戻った。
明日、母は何時に出るんだろう。私が欠勤の連絡を入れる前に出て行ってくれていれば、こんなに気が楽なこともない。
なんにしても、母のいないあいだは、目いっぱい羽を伸ばしてやろう。好きなご飯をつくって、好きに掃除して、ソファもクッションを外してキレイにしてやるんだ。久しぶりにリビングで映画も見れる。
早く明日にならないかな。母が旅行に行く前日の夜は、いつもそんなふうに思っていた。
ベッドの上、枕にもたれかかり、左腕の絆創膏を外す。でこぼこしたいくつもの瘢痕の近くに新しいかさぶたができていた。めくればまた血が出る。私はめくらない。血を流すなら、ちゃんとした痛みも必要だと思っていたから。
体を転がし、ベッドの下に手を伸ばした。そこには鍵付きのメモ帳が隠されていて、それを日記帳代わりにしている。
ダイヤルを四二九に合わせる。四、二、九で滴。私の名前だ。でも、しずくではなく「死肉」や「死に」「苦」と考えてみると途端に不穏になってしまう。私はきっと、そういった暗いものを孕んでいるに違いない。
滴は、落ちるイメージがあるからあまりよくない名前のようにも思える。でも母は、滴露だったか、そんな言葉を用いて「花とかから滴る露のことよ」ときれいなイメージを持たせてくれたし、雫という漢字にしなかったのは、単に使えなかったから、ということらしい。なんとなく雫がよかったなと思う。あのアニメの主人公みたくなれたかもしれないから。
日記はほとんど毎日書いている。怒り、疑い、不満、恨み、おもてに出せない感情の、そのすべてを高校時代から記してきた。書き終えた日記帳は、今はまだあまり読み返す気にはなれなくて、でも捨てるつもりなんてもちろんなくて、だからパスワードを変更し、引き出しや箪笥の奥に重ねてある。読めばきっと、私は自分のことが嫌いになってしまうだろう。見てくれだけは繕われた、吐瀉物まみれの、「人間」のような日記帳。
普通に生きているだけなら、人は忘れていってしまう。苦しいことだって薄らいでゆく。だから誰もが幸福を手に入れられる。私は母を許さない。忘れないためには積み重ねていかなければならない。そのために書き続けてきた、隠し続けた積年の恨み。
八月二日 今日も仕事を休んだ。やることのない人間がやるのが仕事だ。私は家事をする。職場には私以上の欠陥品どもが集められている。そこで無駄に仕事をつくり、その無駄のために時間を費やしている。なにもかも無駄だらけ。母も同じだ。もういいだろう。待ってるんだよ。私はずっと待ってるんだよ。なるべく良い子のまま。待ってるよ。ずっと待ってるよ。スツールを買った。どっちが先だろう。母がふらついていた。病気だろうか。倒れてもいいよ。倒れてよ。そしたら私が看てあげるよ。ずっと寝たきりだったら最高だ。これまでのことをぜんぶ思い出させてあげるからね。
日記帳を閉じ、鍵をかけた。気持ちはこれでひとまずすっきりする。よこしまな心は、夢の世界へは持っていきたくない。でも、毎日繰り返しだ。明日もきっと、似たようなことを思い続け、似たようなことを書く。私自身のために。
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