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濁点(9)
私はどうしてこんなに陰気なのか。母のように旅行に行ったりせず、外の世界を見ず、花の形も知らず、色も知らず、香りも知らない。外とはいったいなんだろう。なぜ人は外を選ぶんだろう。世界なら、私もずっと見てきた。洗濯物も、陳列された商品類も、捨てられる生ゴミも。すべて私の世界だ。口元を緩めるのは母ばかり。空も、雲の形も、風の音も、たとえ様々な詩歌が私の心を色づけようとしたとしても、私の世界はなに色にも染まらない。喜びなんてずっとなかった。この生活の一切に幸福を見出せずにいる。きっと、喜という感情はすべて記憶の中の船とともに沈んでしまったのだと思う。なぜ二十歳になる前に死ななかったのだろう。なぜみんな生きてしまうのだろう。私にはやりたいことなんて何もない。家事は私の居場所というだけ。満足ではなく、それが日常――。
あいつのせいだ。
詩集を手に取り、無為にページを開く。愛がどうのと言っている。愛、愛、愛、また愛だ。でもそんなものはどうだっていい。それより家事をしてみせろ、溺れた詩人ども。
目を覚ましたのは、七時半に設定していたスマホの目覚まし時計が鳴る直前だった。アラームを解除し、そのまま五分ほどベッドの上でころころして頭の中の霞が晴れるのを待つ。
もちろん仕事になんて行くつもりはない。今日も休みだ。ずっとずっと休み。でも、いつかは行くかもしれない。だから派遣会社が愛想をつかさない限りは厄介になるつもりだった。
「母が行方不明なので――」
派遣先にはそう伝えた。ほとんど事実だった。金沢のどこへ行くかなんて聞いていないんだから。
むしろ、馬鹿みたいな欠勤理由を、社内のみんなで悪意なく楽しむくらいの余裕は持ってもらいたい。理由を考え出すのもそれなりに苦労するんだよ。
母はリビングにいた。残念で仕方がなかった。
どうやら旅行の準備は終えているようで、手抜きのコーヒーを飲みながらテレビを眺めている。
「おはよう」
「おはよう」
機嫌は悪くなさそうだ。
自分のコーヒーを入れるためにキッチンでケトルのスイッチを入れ、洗面所へ行く。顔を洗う時も、歯を磨くときも鏡から目を背けた。私は私を見たくない。
高校時代、教室に貼られてあった集合写真の、私の顔に画鋲が刺さっていて、それが大きな問題となったことがある。私は慰められ、同情されもしたけれど、違う。刺したのは、私だ。なんの取り柄もないこの顔が嫌いだった。写真で張り出されることを、他の人たちへ、ではなく、私自身への見せしめのように感じていた。だから刺した。それだけだ。人の視線に怯えるほど、私は軟弱していない。
鏡を見ないのだから、化粧なんてものは、まったく別世界の話として感じていた。口紅すらまともに塗ったこともなかったし、眉毛を整えたこともない。そもそも四六時中家の中に居続けるような人間には、化粧なんてまったく不必要な話だった。ついでに言えば、私の顔は私の看板じゃない。
「コーヒーだけ? 朝ごはんは?」と聞く。
「電車の中で食べるつもり」
「ふうん。なんだか忙しそう」
「あら、みんなで食べると楽しいのよ」
「それ、私に言う?」
「ご、ごめんなさい……」
なぜ、少し怯えた顔で目を伏せがちに謝ったんだろう。普段通りに会話していただけなのに。不機嫌になんて、なってもいないのに。私は全身が凍えるような寂しさを覚えずにはいられなかった。
「そろそろ行かなくちゃ」と私に対する言葉も残さず、慌てるように母は出て行く。私は呆然としたままリビングに取り残されていた。
そんなに、私が怖いのか。
私はずっと自分を押し殺している。変わってしまうのは、万引きをしてしまった時だけだ。あの時だけは自分が抑えられなくなる。母のあの態度は、私の豹変するそんな予兆を感じたということなのか。臆病者、臆病者!
一日の初めから不機嫌になってしまった。あまりに腹立たしくて、鬱憤、憤懣は収まりそうにない。もしこれが外出の直前だったなら、私は衝動的に万引きをしに行っていたことだろう。それも自暴自棄ぎみに。量も、袋の大きさも問わずに盗り続け、そうして、私はきっと初めて捕まってしまう。これまで、小心と思われようとも慎重に、小さなものをひとつ、それだけを盗り続けてきた。
私は破滅なんて望んでいない。これまでどおり、静かに、家事だけをこなして生きていきたいんだ。余計なリスクを背負おうとするな。憎むのは母だけでいい。自分に向けるのはやめろ。
そう言い聞かせ、心を落ち着かせる。
つけられたままのテレビを消した。ソファに身体を預け、しばらくぼんやりとして、それからようやくコーヒーを入れる気になった。苛立たしさがコーヒーの甘さで柔らかくなったらいいのにと思った。
冷蔵庫から玉子とハムを取り出し、コーヒーを一口二口飲みながらハムエッグをつくる。行儀はあまり良くなかったけれど、一人きりを満喫するにはこれくらいのことはしなくちゃね、と機嫌を少しずつ直してゆく。そう、私は一人になりたかった。
テーブルにはクロワッサンをプラスした。喫茶店のモーニングには負けていたとしても、お腹はしっかり満たされる。
テレビも音楽もない無音の世界で、一人、喜びも感じずに朝を過ごしている。締め切った窓は、自然の音にも、光にも、影を纏わせる。私は外を歓迎しない。
お皿を眺めながらゆっくりと咀嚼し続けていると、視線は自由を求めて飛び立とうとする。私はそれを捕まえ、またお皿に戻す。また飛ぶ。また戻す。また飛ぶ。また戻す――。
そうするうちに無粋な悲しみが降りてきて、なんだか泣きたくなった。だからそのまま静かに涙を流す。これが私の自由だ。私は食べ続けた。
4
娘との静かな夕食を終え、食器類を流しへ戻すと、私はソファを占領する。ローテーブルにはミルクと砂糖たっぷりのコーヒー。テレビでは動物番組が放送されていて、小さな犬が私を癒してくれた。
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