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(5-2)混乱の始まり【 45歳の自叙伝 2016 】

◆ Information
 【 45歳の自叙伝 】と題しておりますが「 自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅 」が本来のタイトルです。この自叙伝は下記マガジンにまとめています。あわせてお読み頂けましたら幸いです。and profile も…

◆(5-2)混乱の始まり 登場人物、その他

 … 父自身が治療目的で通っていた「触れずに痛みを取る会」の解散後、父はその会員たちの要請でヒーリングの先生( 気功師・真理を学ぶ会旧サトルの会 講師 )となっていた。宇都宮で「新 波動性科学入門」をテキストにヒーリングの講義をしていたが、講義を終えたその夜に脳内出血で倒れてしまった。

サトルの会 … 父の講師活動が広がっていくなか、各地の会員たちは「サトルの会」と言う名称を会全体の冠としてヒーリングの勉強会を行なっていった。このサトルは「 subtle ( = 微妙な、とらえがたい、微細な ) 」の意味で、いわゆる「 悟 ( さとる ) 」のことではなかったが、一般の方には分かりにくかったようだ。

 … ヨガと瞑想の講師。僧籍にあるが寺持ちではなく、むしろ独立独歩の行者の様相である。パドマヨーガ会(パドマワールド)の代表。母の瞑想体験「 とき子のインナートリップ ~ 直江幸法の瞑想体験(2001年) ~

中野さん … 父の勉強会に、栃木から東京まで通っていた勉強熱心な女性。明るく元気で、その場に華を咲かさせるような雰囲気を持っていた。

松村さん … 「触れずに痛みを取る会」にも参加されており、後に、父の勉強会にも熱心に通ってくれていた。高野山参詣もご一緒させて頂き、私が講師になるときに父がサポート役に任命してくれた女性。控えめで落ち着いた雰囲気、経験豊富なしっかりした方。

内野さん … 足を患って、父のヒーリングを受けに来ていた埼玉の女性。持ち前の柔らかい雰囲気で、通す側(ヒーラー)になってから頭角を現し、他の会員からも人気があった。一緒に高野山を参詣した一人。以前、私の「理趣経の勉強会」にも通ってくれていた。

岡松くん …  以前、父のヒーリングを受けに来ていた医学生。目黒の勉強会では講師役だった。この時の勉強は、後々、私自身のヒーリングに大いに役に立つものとなった。学生ときは父の勉強会にも参加してくれていたが、宇都宮で父が倒れたときには医師になっていた。

渡辺さん … 父とは「触れずに痛みを取る会」から長い付き合いだったよう。「 サトルの会 」のお世話役だったお局的な存在の女性。いつも父と勉強会をサポートしてくれていた。

ヒーリング … 念と氣を流すこと・「通す」という行為・氣の実践

否定できない証拠たち

 年が明けて、新たな問題が矢継ぎ早に起こった。
 それは父の身の回りを整理していた母からの「お父さん、大人二人でペンションを予約していたようなんだけど、その日どこで仕事してたの?」と、知らない相手先からの請求書について尋ねられたことで始まった。ついで、父の携帯にあった中野さんに好意を寄せるメールのやり取りを見せたうえで「この請求書、中野さんとの予約だったんじゃないの?馬鹿にすんじゃないよね、あの女!」と、父が倒れた翌日の中野さんを思い出してか、ひどく憤っていた。メールには、私も知らない他の女性たちとのやり取りや、金銭がらみのトラブルめいた文面もあり、母の憤りはさらにヒートアップしていった。

 父と中野さんの否定出来ない事実を前に、それまでの過去を振り返ると、父のおかしな行動や言動が腑に落ちることがいくつもあった。そして、母がチェックした父の財布にあった、中野さんへの入金票や有害サイトと思われる利用料(いずれも決して少額ではない)と、携帯メールにあったそのサイトのサービスを利用できないことへの苦情メールを見たとき「(我が家と会社が困っているときに)いったい何やってんだよ!このお金があれば支払もどれだけ助かっていたことか!」と、父の軽薄さに母とは違う怒りが込み上げてきたのだった。

 その後、母の意向で父のパソコンを開けてみると、デスクトップにある一つのフォルダがすぐ目に留まった。案の定、中身は中野さんの写真だった。決定的な証拠だった。母は呆れ顔で冷静を装っていたが、「こういう事を(目に見えない世界を人に)指導をする者が、一番やってはいけない事を、あの人はやったんだ…」と、込み上げる怒りを噛み締めるように言った。


◇  ◇  ◇

許せない思い

 しかし、恐らく母は一人になったときに、父への怒りと許せない思いに震えながら「真理を学ぶ会」の総てを悪者にしてしまったのだろう。数日して唐突に「あんたたちの会は本当にひどい会だよ、こんな会は解散したほうが良い!あんな奴、治ったって外には出させないよ!今後、パドマワールドからの講師派遣は中止するから、そう連絡しといて!」と、一方的に捲くし立てて言った。「あんたたち」って… この言葉に、父のことだけなら共感できるものを、他の人まで一緒にして、今までしてきたこと総てを否定するような言い草に私は我に返った。次の瞬間、会員たちの顔が浮かび、費やしてきた時間や、積み上げてきた思いが頭をよぎって「何だよそれ!黙っていれば言いたいこと言ってさ、こっちだって一生懸命やってんだ!」と、人生で初めて母に喰ってかかってしまった。そしてつい高ぶって泣けてきてしまったが、母もすぐ謝ってきて、結局は二人で泣いたのだった。

 父自身のやりたい放題の結果、勝手に倒れ、その暴かれた事実によって、家族がこんな苦しい思いをするなんて… 父は何と言う心の持ち主なんだ、これが実の父親なのか!と、まるで 粘りっけの強いマグマが力強く噴き出るように、私の心は激しい怒りに震えていった。


◇  ◇  ◇

とある企て

 その後、母と私は父の宇都宮からの転院を期に、父と中野さんの関係を問い質し、白黒ハッキリさせることを画策した。中野さんには問い質した後で適当なことを言いふらされ、他の会員への悪影響がでないよう、岡松くんと松村さん、内野さんにその場に立ち会ってもらうように要請した。家族は全員立ち会わせることも考えたが、婿と嫁、孫たちは先々のことも考え妥当ではないと判断した。
 
 人に嘘を付くのは本当に嫌なものだが、中野さんには「宇都宮を去る前にお礼も言いたいし、直江家の家族も集まるので、父の退院前に病院へ来てもらえませんか?…」と、連絡を入れてみた。中野さんは特に予定が無かったのか、それとも、しばらく父と会えなくなるからか定かではないが、とにかくも予定を合わせてくれた。これで段取りは周到に進み、当日を迎えることとなった。


◇  ◇  ◇

嫌な時間

 その日の午後、病院のロビーの片隅で我々家族と岡松くん、松村さん、内野さんは先に集まっていた。そして、今日起きることの次第を、みんなに伝えた後、母が父を病室から連れてきた。その後、中野さんが言われた通りの時間に現れた。

 全員揃ったところで、母は集めた証拠物を一つ一つみんなに見せていった。父と中野さんは固まっていた。母は二人を問い質し始めた。みんな押し黙って重たい空気が広がった。いろんなことが暴かれていった。なんとも嫌な時間だった。

 は「私のことは一体何なの!」と言って怒りを顕わにした。( ※妹の経緯は「 中学校卒業まで - 妹のこと 」をお読み頂けましたら幸いです )。弟は「お父さんの血が自分に流れているのが本当に嫌だよ!」…と。私もあまりの情けなさに父に怒りをぶつけた。

 岡松くんはこの状況をどう思っているのか父に尋ねた。父は自身のことを粗大生ごみと呼び、真っ先に「身体を治して、早く仕事をして、迷惑の掛からないよう生かさせてもらいます…」と言った主旨の話をした。岡松くんは怪訝な顔だった。開口一番に「嫌な思いをさせて申し訳なかった…」という言葉を期待したからだろう。岡松くんは「だから、その為にはまずどうするんですか?」とその言葉を促すような問いかけをしたが、父は先の文句を繰り返すのみだった。

 岡松くんが父に求めたかったものは、その時のほぼ全員が理解していたと私は思っている。病人ゆえに致し方ないとしても、それでも、父自身がどうするかより先に相手のことをどう思っているのか。父には相手の思いを大事する人であって欲しかったのだ。私もそう思いたかった。

 しかし、いつもの父の前向き姿勢は全くもって裏目に出た。つまり、身勝手で極端な前向き思考は、謙虚に自らを知ることに難しく、周囲の好意を引き出すことなどほど遠く、むしろ縁者を不幸にすると言うことだ。また、このやり取りを通じて垣間見たのは、悲しむべきことに、父自身が我々の思いに殆んど気づいていないと思われたことだった。このことがわかったとき、みんな心から落胆したのだった。この期に及んでも、父は相手の気持ちを汲むこと出来ず、心から謝ることが下手な…というか出来ない人だった。

 この集まりをもって、中野さんは真理を学ぶ会を出入り禁止となった。岡松くんと松村さんと内野さんはその証人となった。一区切りを向かえたようで、どっと疲れが出た。長い一日が終わった。


◇  ◇  ◇

解散勧告

 母は先のことを踏まえ、しかもその内容を秘しながら、パドマワールドからの父の講師派遣中止という形をとって、真理を学ぶ会の解散を勧告することにした。この案内は取り急ぎメールで行ったのだが、母の意を汲んだその文章に、各会場においては改めて説明をする必要が出ていた。当然それは私の役目であった

 解散のお知らせは各地で大きな騒ぎとなっていた。父の容態がよほど悪いのでは…と心配をしてくれる人や、この後、どうしたら良いのか、どこへ行ったらまたヒーリングを受けることが出来るのか…と尋ねる人も数多くいた。中には、どうしてとき子さんが解散させることが出来るの?とか、そもそも 直江とき子 って誰よ!と怒り心頭な女性もいた

 この解散話は母とパドマワールドの名前でお知らせしたのだが、母を知る会員や高野山を一緒に参詣したことがある人には問題が無くても、直江とき子もパドマワールドも知らずに聞かされた一般の方も多く、そうなると、母とパドマワールドの歴史も説明しなければならなかった。勢い、母が父を派遣させない真の理由に踏み込んだ質問も数多くあって、急激な解散騒動を収拾するには、それなりにエネルギーを必要とした

 それ以前に、父自身の倒れた理由を話すにあたっても「本人の不摂生、不養生」と言わざるを得ず、その不摂生・不養生の主原因は父のその性格と女性問題や金銭問題に象徴されるように、世間と父自身に対する傲慢な思考に原因があるように思えてならなかった。

 何人かはこれらに気づいていたようで「直江さんは悪い女に引っ掛かったのよ、それで最近おかしかったのよ…」などと言う人も現れた。このような言葉に端を発し、会員はそれぞれに言いたいことを言い始めていた。もちろん、父を心配する人や、応援してくれる人もいたが、私にだけ父の悪口を言う人、父がいないことでハッキリと中野さんを悪く言う人もいて、父というタガが外れた会場は、まるでフセインのいなくなったイラクのように無法地帯の様相を呈していった

 真偽のほどは分からないが、渡辺さんは私も知らない父の女性問題や金銭問題の幾つかを聞かせてくれた。それでも父との付き合いが長い渡辺さんは昔からずっと見て来ただけに、会と勉強のことを思ってか、父を立てながら「直江さんの後半の指導のあり方は、結果的に取り巻きを多く作って、純粋に勉強が出来なかったわね」と、父が倒れるまでの最近の雰囲気に閉口していたようで、一連の顛末にとても残念な様子だった。このように、後になって聞かされる更なる父の問題たちは、いつ終えるとも分からない底なし感で迫って、私には末恐ろしく映った

 このようなやり取りを、私は約一ヶ月に渡って各会場で行った。良い悪いは別として、どこでもみんな父には言いにくく、私には言い易いようだった。恐らく、父は知らないであろう多くの人の思いを、私は聞いたのだと思えた。父が元気な間、封印された会員個々の想いは、堰を切った濁流ように流れ出し、私は胸が苦しくなった。せめてもの救いは、想いの対象が父であって、私ではなかったということであった。考えてみれば、あのボーダーレスな想いは、実際は常日頃から父自身を蝕んでいたはずであり、あの脳内出血の主原因であるように思えた。父は強引な前向き思考で突き進むしか術が無かったのだろうが、命を取り留めた今、残りの人生、その代償を背負っていくであろう父の姿が自然と私には思い浮かんだ。その後、宇都宮の病院に見舞いに行った際、父に「裸の王様だったね…」と嫌味を言ったことがあったが、そんなことぐらいで、この疲弊した思いが晴れる訳などあるはずがなかった。

宇都宮の帰途、赤い月に先々の不安を覚えた
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この記事につきまして

 45歳の平成二十八年十月、私はそれまでの半生を一冊の自叙伝にまとめました。タイトルは「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」としました。この「自然に生きて、自然に死ぬ」は 戦前の首相・広田弘毅が、東京裁判の際、教誨帥(きょうかいし)である仏教学者・花山信勝に対し発したとされる言葉です。私は 20代前半、城山三郎の歴史小説の数々に読み耽っておりました。特に 広田弘毅 を主人公にした「落日燃ゆ」に心を打たれ、その始終自己弁護をせず、有罪になることでつとめを果たそうとした広田弘毅の姿に、人間としての本当の強さを見たように思いました。自叙伝のタイトルは、広田弘毅への思慕そのものでありますが、私がこれから鬼籍に入るまでの指針にするつもりで自らに掲げてみました。

 記事のタイトル頭のカッコ内数字「 例(1-1)」は「自然に生きて、自然に死ぬ~ある凡夫の一燈照隅」における整理番号です。ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。またお付き合い頂けましたら嬉しく思います。皆さまのご多幸を心よりお祈り申し上げます。


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