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思想・哲学・宗教・人物(My favorite notes)

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思想・哲学・宗教など心や意識をテーマにしたお気に入り記事をまとめています。スキさせて頂いただけでは物足りない、感銘を受けた記事、とても為になった記事、何度も読み返したいような記事…
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2022年11月の記事一覧

【哲学沼】人間は考える葦である。|「人間らしく生きる」を哲学で問う。

哲学者パスカルに言わせると 人生は「暇つぶし」で そのための「気晴らし」が必要なのです。 どうも 安全・安心と絆でつながる キャリアコンサルタントのタルイです。 いきなりですが 人間は考える葦である。 この言葉をご存知でしたか? これはフランスの有名な哲学者 パスカルの言葉です。 葦というのは水辺に育つ、 か弱く細い草のような植物のことで パスカルは著書「パンセ」の中で 人間は自然の中では 葦のように弱い存在である。 しかし、 人間は頭を使って 考えることが

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「時」について②(「有時」という世界)

 前回、スクリーン上の世界(現象界)を照らしている光が、本当の時間すなわち「時」であり、この世界(現象界)とは実在(光明)の影であるということを書いた。  しかし、このように言葉にすると、どうしても照らすもの(=実在)と照らされるもの(=世界)とが分かれて存在しているかのような錯覚が起きる。そうではなく両者は一如である。言葉は性質上、二元的な構造を持っているので仕方がないものの、気をつけなければならない。  道元禅師はそうした言葉のもつ二元性を避けるためか、「有時」という言

「時」について①(光としての自己)

 昔から時間のことを「時光」や「光陰」と呼ぶ。時間の過ぎ去る速さを光の速さに例えたものだろうが、「時光のなはだしく速やかなる」とか「光陰虚しく渡ることなかれ」と言われたりもする。  しかし、「時」が光であるとは、かなり深い意味があるのではないだろうか。  周知のとおり、われわれ凡夫の世界は「生老病死」という直線的な時間が支配する世界である。それに対し、仏道の世界は「発心・修行・菩提・涅槃」という垂直的な運動であるというようなことを以前、書いた。人は、生老病死する自我としての

「身心一如」について

 常識的には、人間は心と体という二つの構造を併せ持っていることになっている。心とは思考や理性、感情などの精神的構造のことであり、体とは骨や筋肉、内臓などの物質的構造のことを言うが、二つの構造は全く別のものであり、それらが結びついて人間という構造が成立している。こうした考え方を心身二元論という。  それに対して仏教では、心と体を別のものとは考えない。禅などで言われるのは、心と体とは分かれて存在しているのではなく密接につながって存在している、いわゆる「身心一如」である、と。つまり

「菩提心」について②(自未得度先度他の心)

 前回、菩提心を発(おこ)すとは無常を観ずることだという道元禅師の言葉(『学道用心集』)について書いた。  一方、道元禅師は『正法眼蔵』の中で以下のように言っている。  「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり」「『発心』とは、はじめて『自未得度先度他』の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ」(「発菩提心の巻」)  菩提心をおこすとは、自らが完全に救われる(彼岸に渡る)前に、一切衆生を救おうと発願し実践していくことで

「菩提心」について①(無常を観ずる心)

 道元禅師は『学道用心集』の中で、まず仏道に入るには菩提心を発(おこ)すこと(=発心)が大事だと言っている。そもそも菩提心とは何か。   道元禅師は菩提心の説明として「ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心と名づく」という龍樹尊者の言葉を引用している。つまり無常を観ずる心が菩提心そのものであるという。  無常を観ずる心が菩提心であるのだから、菩提心を発すには無常を観じなければならない。「無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起らず、時光のはなはだ速かなるを恐怖す」。だから

ツォンカパ大師の「功徳全ての元」 意訳

功徳全ての元(チベット語でユンデン・シルギュルマ)はゲルク派のゲシェである恩師からブッダガヤで授かりました。道次第の「恩師に仕える」から「密教修行」までを短くまとめてますので、覚えやすかったからです。 ちなみにその先生はインドの大学の助教授だったそうで、国からの年金が貰えるからとある南インドの僧院の電気代を支払っておられました。 途中から先生のお弟子方(もゲシェ)が合流され、インドの仏教聖地は危ない所があるからと人気のない朝早くは移動しない事など教わりました。 功徳全て

ターラナータ尊者の自空・他空の分別 3 意訳

ジョナン派の他空説中観の教えがどういったものなのか、今は海外で活躍されているジョナン派の恩師に尋ねた時に授かったのがこの教えでした。 「本当にあるから、煩悩をなくしていくと仏の性質が現れる」と、分かりやすく教えて頂いたので、私の中では普通の空の見解が 「煩悩に抗う為に錯覚・誤解を減らすための教え」、他空の見解が 「本来の良い性質が人にはそもそも具わっている、人の本質は善という教え」になりました。 また密教の教えで海外で活躍されておられるゲルク派の恩師は、 「第二転法輪では空は

ターラナータ尊者の自空・他空の分別 2 意訳

ジョナン派のターラナータ尊者が著した論書は、他空の教え、自空の教え、密教と多岐に渡っております。 お釈迦様の3度の転法輪は日本ではおおよそ否定されていますが、内容としては大乗の教えがアビダルマ仏教の延長線上にあると思いますので、その当時、お釈迦様ほどの方ならそんな教えを説かれたというのはあり得る、と想像しています。 写真は、ジョナン派を確立された一切智者・ドルポパの僧帽の仏教聖遺物です。御覧になった皆様にお加持力がありますように。 以下、前回の続きになります。 自空・

瞑想などの精神的諸技法の分類・図式化

「世界の瞑想法」に書いた文章を元に、大きく加筆した投稿です。 瞑想法、夢見の技術、心理療法、魔術など、様々な精神技術に関して、それぞれの本質と全体像を分かりやすく理解するために、私なりに、ざっくりと、分類して図示してみます。 ただ、実際には、一つの言葉でくくられる精神技術、瞑想法にも、その過程にともなって、いくつかの側面があったりしますが。 また、今回は、図示がテーマなので、各技術の背景にある思想の異同には焦点を当てません。 2つの軸 分類、チャート化するに当たって

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第692回「心を師とせざれ」

「心の師となるとも心を師とせざれ」という言葉が『涅槃経』にあります。 自らの心を仏の教えに従って制御し律すべきであって、心のままに振り回されてはならないということを表わしています。 心は制御すべきものだと、もともとお釈迦さまは説かれていました。 『法句経』には、 三十三番に 「心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。 英知ある人はこれを直くする。 弓師が矢の弦を直くするように。」 とあります。 また三十四番には 「水の中の住処から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。」 三十五番に 「心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。 心をおさめたならば、安楽をもたらす。」 三十六番に 「心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。 心を守ったならば、安楽をもたらす。」 とある通りなのです。 心というものは、制御すべきものであり、決してよいものと説かれていたわけではありません。 それが禅の教えになると、その心が仏であると説いたので、初めて説かれた頃には驚きであったろうと察します。 そこで、反発も多かったのでした。 『涅槃経』には「一切衆生悉く仏性有り」という言葉があります。 この「仏性」というのは、もともとは「仏となる因」であり、仏となる可能性であります。 すべての生き物は仏となる可能性を持つというのがもともとの意味でありました。 それが後に「如来蔵」という表現がなされるように、「如来を内に宿すもの」と解釈されるようになってゆきました。 『大乗起信論』においては、自性清浄なる真如の側面と、外から来る煩悩に染汚された側面との二つの側面から捉えるようになったのでした。 本来清らかな心が、煩悩によって覆われているという教えであります。 そこで信を起こして真如に目覚める道筋を示して「本覚」「始覚」という言葉が使われるようになったのでした。 本覚というのは、本来は仏であるということです。 それが現実には煩悩によって染汚されて、今は不覚の状態にあるというのであります。 その不覚の状態の中から覚の活動が自覚さ、そこに菩提心が生じてきます。 このはたらきが「始覚」であります。 もともとの仏教では、諸法無我でありますから、「仏性」なるものは説かれてはいませんでした。 我なるものは存在しないと説いていました 見たり聞いたり感じたりすることをもとにして、ありもしない自我を想定し作り出しているのだというのです。 そこから更に見たり聞いたり感じたりする心の奥深くに、変わることのない仏心があると説くようになってゆきました。 『華厳経』では、三界は唯心のみだと説いたのでした。 この心というのは、大宇宙に遍満している心であり、それが箇々の人やものすべてに内在しているというのであります。 仏身はこの世界に充満していると説いたのでした。 道元禅師は涅槃経の「一切衆生悉有仏性」を「一切の衆生は悉く仏性を有す」と読まずに、「悉有は仏性なり」と読まれました。 宇宙に遍在するありとあらゆるものが仏性だというのです。 お互いはその中の一部に過ぎないというのです。 その一部にもまた仏性はあるのです。 法燈国師は、大空と雲で喩えています。 仏心は晴れわたった大空のようなものです。 そこに雲が浮かんでいるのが、様々な感情や煩悩などであります。 この様々な感情や煩悩を主だと思ったら間違いであります。 そのもとには広い大空が広がっているのであります。 本体は大空なのだと気がつくことが大事なのです。 その大空に喩えた本体が仏心なのであります。 そうしますと、浮かんだ雲も全部ひっくるめて仏心だと説いたのが馬祖禅師の教えになってくるのであります。 まずは、浮かんでいる雲に振り回されないように、そのもとにある大空に気がつくことが大事なのです。 そこで東嶺和尚は、『入道要訣』の中で、心を外に向けて外のものを追いかけるのが迷いであり、心を内に向けて本体に気がつくのが悟りだと説かれました。 私たちは、外の世界に振り回されているのであります。 外の世界を見ると、得た、失った、損した得したということで迷い苦しみます。 その欲望を充足させることが問題の解決ではありません。 その見たり聞いたり感じたりしている主は何かと求めよと説かれました。 物を見た時には見ている者は何者か、聞く時には聞いている者は何者かと追及してゆくのであります。 そのように心の向きを百八十度転換させるのです。 転換させればまず少なくとも外の世界に振り回されることが無くなります。 東嶺和尚は、この心の向きを変えるだけでも修行の道の半ばを達成したようなものだと説かれています。 そうして工夫してゆけば、浮かんでいる雲のもとに広い空のあることに気がつくのです。 そうすれば、少々の雲が浮かんでもみな大自然の景色だとみることができます。 雲の浮かんで消えるという姿に一喜一憂することがなくなるのです。 単に心を師とすると、様々な感情に振り回されてしまいます。 そうではなく、その心のおおもとに向かって参究することを説いたのが禅の教えであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第690回「仮の宿」

東嶺和尚の『入道要訣』には、この世に生まれてきたのは仮の宿に泊まっているようなものだという喩えがあります。 一夜の宿に泊まって、気の合った者同士で仲よくなったとしても、一夜明ければ、別れ別れになってしまいます。 また宿に泊まると、今度はまた新しい友ができたりします。 この世の人間関係などはそのようなものだというのです。 ずっと親しいという場合もないわけではないでしょうが、いつどこで、どのようになるかは分からないものです。 昨日の友は今日の怨讐。昨日の花は今日の塵埃という言葉もございます。 杜甫は『貧交行』という詩のなかで、 「手を翻せば雲となり手を覆せば雨となる」と詠いました。 手のひらを上に向けると雲がわき、手のひらを下に向けると雨が降るということから、人情が変わりやすく、頼みがたいことをたとえたものです。 世間の人情などというのは、所詮そのようなもの、ただ頼りとすべきは、仏の教え、真実の悟りのみだと東嶺和尚は説かれました。 そしてこの身は、十二因縁で出来た業の皮袋だと説かれています。 古来この世に生まれることを仮の宿と喩えたものが多くございます。 古くは中国の古典である『淮南子』という書物に、有名な「生は寄なり死は帰なり」.という言葉がございます。 生は寄なりとはどういうことかというと、「寄」というのはは寄付、寄進、寄宿舎という「寄」で寄るという字です。 この世に生まれたということは、少し身を寄せて生きさせてもらうだけのこと、寄宿舎に住まうような仮の宿だと言う意味です。 死は帰なりの「帰」は帰依する、帰るという「帰」です。 死ぬと言うことは帰ることだというのです。 仮にこの世に身を寄せて生きて、死ぬことは本来の場所に帰ることであるというのです。 伊達政宗の家訓と伝えられるものの中にも、 「この世に客に来たと思えば何の苦もなし。 朝夕の食事うまからずともほめて食うべし。 元来客の身なれば好き嫌いは申されまじ。 今日の行をおくり、子孫兄弟によく挨拶をして、娑婆のお暇申すがよし。」 という言葉があります。 江戸期の高僧沢庵禅師には 「たらちねに よばれて仮の客に来て こころのこさず かえる古里」という和歌がございます。 父母に呼ばれて、この世に仮の客として来たが、寿命も尽きたので何も心残さず、ふるさとへ帰りますという意味です。 お互いこの世に生まれたということは「父母に呼ばれて、この世に仮の客として来た」というのです。 父と母が結ばれ、その父母に呼ばれて、この世に生まれてきたのです。 そして生まれてきたことは、この世に「客人」として来たのだというので、かりそめに来た客人なのだから、生命が尽きるときは心を残さず、ふるさとであるあの世へ帰ろうという和歌です。 沢庵和尚はこの歌を詠む前にこう述べていらっしゃいます。 「人間この世に客としてやってきたと思えば苦労はない。 満足する食事が出されたら、ご馳走と思っていただき、満足できない食事が出されたときでも、自分は客であるのだから、褒めて食べなければならない。 夏の暑さ、冬の寒さも、客であるのだから、耐えなければならない。 子や孫、兄弟も、自分と一緒にやってきた相客と思って、仲良く暮らし、あとに心を残さず、さらりと辞去せねばならない」 というのであります。 松尾寺の松尾心空和尚は、「人生往来手形」ということを仰っていました。 松尾和尚には、一度お目にかかったことがあります。 その人生往来手形には次のように書かれています。 「右のもの、あの世より縁あってこの世に生を受けました者ゆえ つまりはこの世の間借り人であります。 されば三度の食べものにも文句を言わず、美味しいと褒め、人と気まずいことがあっても我が身のいたらぬせいと思いなし、愚痴なく、怒らず、貪らずほどよくこの世に暇乞いして元のあの世に帰るものゆえ、親切大事に願います。」 というのです。 「世の中は乗合船の仮住まい 善し悪しともに名所旧跡」 という歌もございます。 みな寄り合い船の仮住まいなのです。 縁あってそれぞれのお家にいのちをいただきました。 大きく言えばこの日本という国にいのちをいただきました。 この頃の言い方ではもっと大きく言って、この地球にといっても良いかもしれません。 いずれにしても、私たちはこの世にかりそめに来た旅行者と思えば、口に合おうが合うまいが食事の贅沢は言えないし、暑さ寒さも我慢しなければなりません。 子や孫、兄弟も、この世に来た同じ旅行者、乗合船に乗り合わせたのです。 そう思えばお互いに仲良く暮らし、やがて立ち去るときが来たら、あとに心残りを作らずにさようならをするのがよいということでしょう。 そんな風に思えば、わがままが減ると思います。 『法句経』の六十二番に 「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。 しかしすでに自己が自分のものではない。  ましてどうして子が自分のものであろうか。 どうして財が自分のものであろうか。」 とあります。 みんな借り物と思えば、執着は減るものでしょう。 そうして理想は、 『法句経』の二百番の 「われわれは一物をも所有していない。 大いに楽しく生きて行こう。 光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。 」 という風に生きたいものであります。 坂村真民先生に「生き方」という詩があります。 「どんなに立派な信仰をもっていても  貧乏のどん底に落ちたり  難病になって苦しんだり  ガンで死ぬこともある  それはどうにもならぬことだ  信仰とは関係のないことだ  大切なのは  その人の生き方である  どう生きたかを 神仏に見てもらうことである」(『坂村真民全詩集第五巻』より) この仮の宿に来て、お互いどう生きるかが大切なのです。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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第688回「四つの場面を切り替える」

人と境との関わり合いを臨済禅師は四通りに説かれています。 四料揀といいます。 人は主観、境は客観であります。 互いの生活はこの人と境との入り組みにすぎません。 我と世界との入り組みしか、ありはしないのです。 自分と会社、自分と組織、自分と家族などなど、自分と外の世界との関わり合いが、いろいろ問題となるのです。 その我と世界との関係を臨済禅師は四つに分けられました。 奪人不奪境とは主体が無くなって客体になり切ることです。 自分を否定して相手になりきることです。 奪境不奪人とは客体が無くなって主体だけになることであります。 人境両倶奪とは主体も客体も倶に奪います。 我もまわりも共に無くなる世界です。 人境倶不奪とは主体と客体それぞれが自分の思い通りに振舞いつつ平和であることです。 我も人も共に活かす世界です。 僧堂の修行にも当てはめることができます。 僧堂に掛搭しますと、まず第一には奪人不奪境を経験します。 まず自己を完全に否定します。 最初の庭詰がそうなのです。 玄関に頭を下げ続けて、今まで学んだもの、積み上げてきたものをすべて奪います。 そして更に毎日毎日叱られ続けて、自己を完全に否定します。 これが僧堂の修行の大事な処です。 教育でも同じことかとおもいます。 はじめから好きにどうぞと言うと、わがままになるだけです。 まずは徹底して自己を否定します。 それだけでは、主体性の無い人間になってしまいます。 更に奪境不奪人です。 私自身僧堂に掛搭した頃老師から言われたことがあります。 「今は新到で、堂内の末単で、毎日毎日叱られ通しであろうが、いいか、禅堂の単布団に坐ったら、たとえ禅堂の隅っこで坐っていても、天下の主になったと思って坐れ、隅っこで小さくなって坐ったらいけない」と教えられて、大いに感動したことがございます。 たしかに、どんな新到であろうが、単布団にどん坐ったら天下の主です。 居眠りしたら警策で打たれますが、しっかり坐ってさえいれば、誰も指一本触れられはしません。 僧堂も無ければ、高単さんも役位もありません。天上天下唯我独尊の世界です。 しかしながら、そんなところにとどまっていては、鼻持ちならぬ禅僧になってしまいます。自由が効きません。 更に臘八の大摂心を通して、もう外の世界も我も無くなったところを体験するのです。 臘八の大摂心をやっていると、禅堂も外の世界もありはしない、坐っている自分すらいなくなってしまう、人境倶奪の世界です。 「我も無く人もなければ大虚空ただ一枚の姿なりけり」という和歌の通りです。 無字三昧の世界です。 これがあるから、禅堂は尊いのです。 そして、それで終わるのではありません。 最後には、人も境もともに生かす世界です。 僧堂でいえば、臘八もすませると、人も生かし我も楽しむ世界がございます。 何も否定しない、我も人も大いに生かし合うのです。 僧堂の修行にはこの四料揀がちゃんと具わっています。 僧堂を出てお寺に入っても、四料揀が大事であります。 まず新命で寺に入ったならば、第一には奪人不奪境であります。 我を殺し尽くさなければなりません。 お寺第一、住職がいらっしゃれば、和尚第一にして、我を微塵も出さずにゆく世界です。 しかし、人を奪うだけでは、主体性が無くなります。 時には和尚の代わりに法事の導師を勤める、葬儀の導師を勤めるとなったら、それこそ奪境不奪人です。 天にも地にも我独りの世界です。 それだけでもいけませんで、時には人境倶奪です。 我も世界もない、三昧の世界を持つことです。 坐禅が一番でしょうが、なかなか坐禅する時間を取れないとなると、草刈りなどの作務に没頭するのもひとつです。 それから、最後には我も生かし、人も生かしてゆく、お寺のことも大事に、和尚さん大事に、そして我も大事にしてお互いに語り合う世界が人境倶不奪であります。 こういう四つの場合があります。 その時々において今はどういう状況なのかを判断して主体的に切り替えてゆくのです。 和尚になって人を導いてゆくにも、この四料揀が大いに役立つのであります。 まず第一には奪人不奪境であります。 お寺に色んな悩み事を抱えて相談にきます。 すると、まず自分を殺して、相手を奪わないのです。 自分の意見も何も殺して、ただ相手の状況、どんな思いでいるのか、どんな風なのかをとことん聞いてあげます。 これが第一です。 まずお茶でも出してゆっくりと聞いてあげるのです。 さて、とことん聞いてあげたら、今度は奪境不奪人であります。相手を奪うのです。 それこそこちらが主体になって、それは妄想の世界であると、それは思い違いである、わがままな思いこみに過ぎないと、真理を堂々と説いてあげることです。 自己の思い込み、偏見、我見我慢によって自らが苦しみをつくり出しているのであると、それこそ、三界の大導師になって、お釈迦様の真理を説いてあげる、臨済の教えを説いてあげるのです。 その為にしっかり修行してお釈迦様の教えを学ぶのです。 そこにとどまっても、単なるお説教に終わってしまいます。 そこで第三に人境具奪であります。 では、ともに坐りましょう、坐ってお互いに、我も人もない、我も世界もない処に坐りましょうという、ここが禅の布教として大事な処であります。 この我も人もない、我も世界もない処に坐ってこそ、はじめ真のやすらぎが生まれます。 禅の安心はここです。 禅の布教は此処に導くことでなければなりません。 そうして、それに終わらずに、倶に坐って、坐禅が終わったならば、お茶を入れてさしあげて、ゆっくりとお互いに語り合い認め合う世界がございます。 人境倶不奪です。 我も生かし、相手も生かす、自由にお互いを論じ合う世界であります。 ここに茶禅一味の世界がありましょう。 こういう四通りの場面を使い分けてゆくのであります。     臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

私たちの本当の家(全訳)

 アチャン・チャー ●この法話は、臨終の床にある高齢の在家弟子と、その家族に対して説かれたものです。  ダンマに対して敬意を持ち、これから話す法話を聴くことを決意してください。私が話している間、ブッダ自身があなたの目の前に座っているかのように、言葉に耳を傾けてください。眼を閉じてリラックスし、心を整え、集中してください。正等覚者に敬意を表するため、仏・法・僧の三宝に帰依をするようにしてください。    今日、私からあなたに提供できるもので、物質的なものは何もありません。私