ターラナータ尊者の自空・他空の分別 2 意訳
ジョナン派のターラナータ尊者が著した論書は、他空の教え、自空の教え、密教と多岐に渡っております。
お釈迦様の3度の転法輪は日本ではおおよそ否定されていますが、内容としては大乗の教えがアビダルマ仏教の延長線上にあると思いますので、その当時、お釈迦様ほどの方ならそんな教えを説かれたというのはあり得る、と想像しています。
写真は、ジョナン派を確立された一切智者・ドルポパの僧帽の仏教聖遺物です。御覧になった皆様にお加持力がありますように。
以下、前回の続きになります。
自空・他空の分別 2
他空を唱える方には、その教えがどの教えに属する教えかは、その教えがいつ説かれたかに関係ありません 第三転法輪に属する「華厳経」のおおよそは、お釈迦様が(サルナートで初転法輪に属する)四聖諦の教えを説かれる前、ブッダガヤで成道したばかりの頃に欲界の神々の世界で説かれておられますが、「大般涅槃経」のように涅槃に入られる前に説かれた教えもあります そのように「無常性を説く経」など初転法輪に属する経のいくつかは涅槃に入られる前に説かれた教えもありますと、主張しています
という訳で、ここで(他空派が)言う三転法輪は教えの内容の順番、修行者が煩悩を退治する順番の三段階の事ですので、その最終段階ですから、第三転法輪は了義経(究極の真実の教え)と成ります
教えの内容の究極が未了義経(究極の真実に導く教え)なのは妥当でなく、また修行者に究極の真実を教えた後に再びそこに導くための教えを説かれたというのも妥当ではありません
「第二転法輪(に属する教え)は大乗(を願う)者に」というのも、大乗でも様々な段階の未熟な、まだ熟練者ではない方に説かれた教えなので、究極の真実ではありません
第三転法輪(に属する教え)を説いたその対象者は「様々な段階を学んだ方」と説かれましたが、あるいは声聞、あるいは独覚、あるいは大乗者、あるいは優れた、あるいは劣ったという意味ではありません
もしそうなら「(仏性を)我と理解するのが妥当ではない」と(第三転法輪に)説かれたのと話がかみ合いません 声聞の方が大乗に新たに学びに入る時に、無漏の界(我)があると説くと(それに対する)我執が生じる可能性があり、だからこそ一旦この深甚の教えを説かず、全ての存在を無我と説いたと伝わっていますから、第二転法輪の理解に到った方にこの(第三転法輪の)教えを説くべきですので、そもそも大乗の教えに入っていない方と、第二転法輪を理解し終えた方の共通点がないからです
ですので「様々な段階を正しく学んだ方」の意味は、様々な段階を学び(大乗の)心の訓練をされた方の事ですので、優れて教えに習熟した、優れた菩薩へ説いた教えなのですから、この第三転法輪こそ究極の真実の教えと成ります
また未了義という点で、自空を唱える流派からすると、初転法輪と第三転法輪の教えには共通点が多いはずですが、そうではなく第二転法輪と初転法輪に共通点が多いですし、第三転法輪は小乗仏教と全く相容れない(教えが多く含まれます)ので第三転法輪こそ究極の教えです
それは直接お経を読んだら分かります 初転法輪と第二転法輪では現れる存在を心(と同体)と説きませんでしたし、八意識、究極の5つの存在、三性などの設定も初転法輪では全然説かれませんでしたし、第二転法輪でも詳しくは説かれませんでした 認識主体と客体がそれぞれそれ自体の主体的な力で成立しているのを否定する智慧の事は(初・第二の)どちらでも説いていませんし、声聞などはそのような智慧は存在しないと主張します
自空中観派もこれらの点で声聞の哲学派の2つ(説一切有部と経量部)と共通すると認めていますから、全ての存在が自らの本性の力で存在する・しないと考える以外、その他の教義に大きな食い違いはありません
「全ての存在は自らの本性の力で存在しないという理解が小乗・大乗のいずれの修行でも必要」と思う方は、声聞の哲学派の2つ(説一切有部と経量部)と「本性がない」と理解する見解の違い以外、三乗の修行する道は(アビダルマにある範囲は)いずれも同じであると思うなど大体共通していますので、行動の(動機の)違いこそあれ、修行の土台において、小乗と大乗は同じと実際は認めています
(逆に)第三転法輪は初転法輪と著しく違い、現れる存在は心とか八識、五法、三性などと詳しく説かれました
声聞があると言う外界の世界はこの教えでは(それ自体の本性の力で)全くないとありますし、声聞が全く想定しない認識主体と客体の空を知る智慧を究極の存在と教えますので、声聞・縁覚と大乗の2つに見解の違いはとても大きいと説いてあるからです
という訳で、自空派にとっては「声聞の経典は了義経ばかり、般若経典以外の大乗経典の多くは未了義経のみ」と大乗・小乗で了義の設定は逆になります
他空派には、究極の真実は第三転法輪だけでなく第二転法輪のお考えでもあり、般若経でも弥勒菩薩の問う章に三性を認めてあり、全ての存在が本性の力で存在しないと思うなら、三無自性の設定が無意味となります
大乗経荘厳論にも、「言葉通りではなく、仏様のお考えは本当に深いです」などと、般若経典(など経典)の言葉尻の教えだけから究極の真実を理解してはいけないと説かれています
ですので、物質から一切を知る智慧までの存在上の遍計所執性の存在と依他起性の存在を究極にはないと説き、円成実性の存在には一旦触れませんでした
(それでも)中観・唯識の2派に別々の仏教経典があるとは思いません、同じ経典における解釈の違いだけですので、ここに不都合はありません、(同じく)説一切有部と経量部も経典が別々ではありません、お考えの解釈上の違いだけの話だからです
一般に有相唯識派を支持する方々はたくさん現れましたが、それは(経典や)論書が存在するから・しないからではありませんし、経典があったとしてもチベット語に翻訳されている必要はありません そうでないと(いわゆる)部派仏教の十八派の内、説一切有部以外の三蔵や経量部系の論書も存在しない事になります、チベットにないからという理屈です
ですので量評釈(認識学と論理学の論書)は一般的に経量部の論書ではありませんが、そうだとしても(経量部の見解は)ところどころだけで完全ではありませんし、経量部の解釈がある事だけで経量部の論書とするなら、瑜伽行中観派の論書全てに有相唯識派の見解がありますので、唯識派の論書でもある事になります
他にも第二転法輪は了義経、第三転法輪は未了義経と示す経文もありませんし、解深密経には第二転法輪は未了義、第三転法輪は了義と説くのをはっきりとされました
未了義は了義に導くための教えと解釈されるので、この解深密経自体も未了義とする必要があるなら、全くおかしい事になります
自派に了義・未了義をはっきり判断する経文がないのに、他派の経文からの考えを未了義とするというのは、多数派的な強い側の論理でしかありません 龍樹菩薩の中論などは自空を説きましたが、(法界)讃などは他空を説きましたので、どちらも説かれた(と思われます)
他、清弁や月称など一般的には特別な学者方ですが、世界を飾る六戒師の中に入る、仏様御自身が教えを維持すると予言された無著・世親御兄弟や陣那・法称との比較対象ではありません
特に聖者無著菩薩は教相判釈されると仏様御自身が予言され、世親菩薩は九十九もの経典群を記憶されていました
また世親、陣那、法護へは月称や智慧蔵なども自分より優れ多聞で、(唯識派など)開祖として敬意を示しておられますので、月称などのお言葉で無著御兄弟を論破するのはやりすぎであると言われます
その他教義の点で自空・他空に関する論破論証は本当にたくさんありますけれども、文字数が増えますし現状あまり相応しいと言えませんので、このぐらいにします
自空・他空の分別 2 終わり
インドからチベットに伝わった文化である「仏教」を仏教用語を使わず現代の言葉にする事が出来たら、日本でチベットの教えをすぐに学べるのに、と思っていた方。または仏教用語でもいいからチベットの経典、論書を日本語で学びたい方。可能なら皆様方のご支援でそのような機会を賜りたく思います。