「身心一如」について
常識的には、人間は心と体という二つの構造を併せ持っていることになっている。心とは思考や理性、感情などの精神的構造のことであり、体とは骨や筋肉、内臓などの物質的構造のことを言うが、二つの構造は全く別のものであり、それらが結びついて人間という構造が成立している。こうした考え方を心身二元論という。
それに対して仏教では、心と体を別のものとは考えない。禅などで言われるのは、心と体とは分かれて存在しているのではなく密接につながって存在している、いわゆる「身心一如」である、と。つまり心と体は二つでひとつの存在である。にもかかわらず、現代人は思考や理性などの心のほうにばかりエネルギーが多く使われているため、ストレスや自律神経の乱れによる心身の不調を起こしやすい。そこで坐禅(もしくはヨガや瞑想など)によって両者の調和をはかることが大事である云々、ということもよく耳にする。
だが、この考え方は先ほどの心身二元論とどう違うのだろうか。心と体はひとつであると言いながら、調和やつながりを強調する以上、やはり両者は別々のものとして想定されている。その点では違いがない。
体と心というものがある。それらは別々にあるように思えるが、実はつながっていてひとつである。「身心一如」とは果たしてそういう意味なのだろうか。
道元禅師が「身心一如」という言葉を使っている著作に『弁道話』がある。この中で道元禅師は「心常相滅」という邪見を批判するためにこの言葉を使っている。
「心常相滅」とは、身体(相)は物質であり無常な存在だから死滅してしまうが、対して心は霊知・霊魂のようなものとして、身体が死滅したあとも存在し続ける(常住)、というものである。お釈迦さんはこのような考え方を「常見」として斥けたことは有名であるが、それは「無常・苦・無我」という仏教の根本思想と反するから当然である。
一方で、身体だけでなく心も同じく死滅する、つまり死後はただの無に帰するという考え方もお釈迦さんは「断見」として斥けている。なぜかといえば、考え方の前提が「常見」と全く同じだからである。どちらも、体と心を別々の存在(空間的な実体)としてとらえ、それらが時間という直線上を変移していくという前提に立っている。つまり、前者(常見)は身体だけが変移(死滅)し、後者(断見)は身体と心の両方が変移(死滅)するという違いはあるが、両者の考え方には実体化された時間と空間の二元性という同じ前提があるのである。以前にも書いたように、時間と空間の実体化と自我の錯覚は同じである。そこからすべての二元対立的な世界観が生まれる(上述した心身二元論も同じである)。
この錯覚の上に立つ以上、必ず人は「常見」(身体が死滅しても「私」という自我は霊魂という形で生き続けるという信仰)もしくは「断見」(身体が死滅すれば心も死滅する、つまり「私」はただの無に帰する、という科学合理主義的ニヒリズム)のどちらかに陥るハメになる。そして、どちらにも「私」という自我の実体視が根底にあるから、どちらの考え方も結局、錯覚の延長でしかない。
一般的な価値観として、心身二元論に代表されるように、近代以降では「断見」が優勢になったのは間違いないが、いまだ近代科学の発達していない道元禅師の時代では「常見」が優勢だったのだろう。それで「心常相滅」すなわち「常見」を破するために「身心一如」という言葉を出してきたのである。が、だからいって「断見」論者が近代合理主義的な知識をもって「常見」の考え方を前近代的な迷妄であるといって馬鹿にしようとしてもムダである。「常見」を破することは同時に「断見」をも破することだからである。
したがって、「身心一如」という言葉は、心と体のつながりや調和が大事だといった悠長な話ではなく(もちろんそれはそれで本当に大事なことではあるが)、時間と空間の実体化=自我という「私」の実体化という根本的な問題に対して使われたものである。
では具体的に道元禅師はどう言っているのか。
「しるべし、仏法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる、西天東地おなじくしれるところ、あへてたがふべからず。いはむや常住を談ずる門には万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には諸法みな寂滅なり。性と相をわくことなし」(『弁道話』)
仏法では初めから身心一如にして、性相不二(本性と現れは不二である)と語られていることは、インドや中国でも同じく知られているところであり、そこには何ら違いはない。言うまでもなく、常住(不生不滅)という面から語るならば、万法(世界の全存在)はみな常住(不生不滅)であり、身と心を分けることはない。寂滅(無常)という面から語るならば、諸法(この身心および世界)はみな寂滅(無常)であり、本性と現れを分けることはない。
つまり般若心経と言っていることは同じである。この身心(五蘊)はみな空である。その不生不滅なる空を本性として無常なる現象が展開している(色即是空、空即是色)、それが仏法から見た事実なのである。その事実から見るとき、心と体を二つに分け、一方は永遠であり、一方は無常であるというのはトンチンカンな話なのである。
では、心と体の両方が無常であると言う場合、「断見」論者が言うところの「心も体も死滅したらすべて無に帰する」という考えとどう違うのか。話は簡単で、ここでの「死滅」というのは、先ほども言ったように実体化された時間と空間=実体化された「私」という錯覚の上に考えられた「死滅」という観念(つまり空間的に実体化された個別の「心」や「体」もしくは「私」が時間的に変移して無になるという観念)であり、仏教でいう無常とは全く意味が異なる。無常とは空という永遠性と一体であるということである。したがって、何々が無に帰するというときの「何々」などという個別的実体は、この世界のどこにも存在しないのである。それが無我ということであり、無常であるということである。
このように、「常見」も「断見」も自我という錯覚によって生じる勘違いのようなものである。(※もちろん、自我という錯覚をリアルにさせているものに言語という存在があるが、ここでは触れない)
また道元禅師は言う。
「しるべし、仏法に心性大総相の法門といふは、一大法界をこめて、性相をわかず、生滅をいふことなし。菩提涅槃におよぶまで、心性にあらざるなし。一切諸法、万象森羅ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。このもろもろの法門、みな平等一心なり」(同上)
仏法で言うところの、心性(心という本性)が大総相(大いなる万象の姿)であるという事実は、全世界・全宇宙を込めて、本性と現れを分けることなく(色即是空、空即是色)、生滅を言うこともない(不生不滅である)。悟りや涅槃に至るまで、心性(心という本性)でないものはない。すべての存在、全現象はただこれ〈ひとつの心〉であり、そこからこぼれ落ち、兼ねられないものなどない。この諸々の事実は、みな平等一心である」
ここでもうはっきりするが、「身心一如」の「一如」とは〈絶対的な一〉という事実のことである。
「一如である心」が本性(=性)であり、その本性が万法として具体的に現れている姿(=相)が「一如なる身」である。それは〈絶対的な一〉なる実在(一如)の二つの面である。法華経の十如是で言うならば、「一如である心」が如是性であり、「一如なる身」が如是相である。そして両者が一体(一如)である事実を如是体という。これが「身心一如」という言葉の意味であり、「諸法実相」と言っても同じである。
『正法眼蔵』「身心学道」の巻では、「一如である心」を菩提心、平常心、三界一心、古仏心などいろいろな言葉で語っているが、すべては同じ意味であり、つまりは平等一心である。対して、「一如なる身」を「尽十方界是箇真実人体」(この世界全体が一箇の真実の人体である)、または「生死去来真実人体」(生と死まるごとが真実の人体である)と言っている。
もちろん、このことを頭だけで理解しようとしても無理である。まさにこの全身心(=自己)を挙げて、「身心一如」という事実を学んでいくことが学道であり、仏道であると道元禅師は言っている。
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