「自我」について

 前回の記事で「坐禅や瞑想というのは、つまり思考が作り出した時間・空間の認識そのものからログアウト(解脱)し、本来の自己に帰ることである。」と書いた。ということは、逆に言うなら、時間・空間という二元的な認識にログインするためにはアカウントが必要ということになる。それがおそらく自我である。カントは確か、感性的な経験を成立させる前提条件として時間と空間を置き、さらにその前提条件として超越論的統覚なるものを置いていた(と思う)。ムズカシイ言葉を使ってはいるが、要は自我のことである。自我があるから時間と空間があるのか、それとも時間と空間があるから自我があるのか、考えると気になるところだけど、この際それはどっちでもいい。鶏と卵のようなもので、どっちにしろ両者はセットで存在しているという点が重要だ。前回、時間(及び空間)は思考の産物であると書いたが、それらとセットで存在する自我(「私」というイメージや感覚)も、だから当然、思考の産物ということになる。カントの言う感性的な経験は結局、この自我を前提としているため、それは純粋な経験とは言い難い。このような形式(自我=時間・空間)で物事を認識している以上は物事の本当の姿(物自体)は認識できないということをカント自身が認めている。だから、物事をありのままに認識・経験するためには、この形式からログアウト(解脱)しなければならない。つまり自我(「私」というイメージや感覚)から離脱しなければならない。それにはまず「自我は思考の産物である」ということを腹の底から理解することが大事である。
 ちなみに、ここで言う時間と空間とは、ニュートン的な意味での時間と空間(直線的に進む時間と、バラバラに存在する人やモノを容器のように収めている空間という一般的な常識に合致するもの)でアインシュタイン以降、物理学的に否定されている(ということは科学に疎い自分でも一応は知っている)。よって科学的にも実体がないことは証明されているのだが、21世紀になった現在でも依然として日常生活はこの形式(実体のない時間と空間)を採用していて、しかも表面上は何の問題もない。確かに、物理学的に矛盾があっても日常生活レベルでは誰も気づかないので矛盾を起こさない。というより、この形式は人類(※もちろん全ての人類ではないです)にとって極めて便利なものであり、これなしに社会生活は難しいほどである。経済活動や一般的なコミュニケーションはこの形式のおかげで可能となっている。そもそも我々の一般的なコミュニケーションを支えている言語は「私」(自我)を前提にしないと成立しない。だから社会生活の便宜上この形式を使うことは何の問題もない、はずだ。
 しかし、この形式(実体のない時間と空間)を使った世界というのは、あくまで思考の機能によって成立している(特殊な)世界である。にもかかわらず、その中に自我としてログインしている当の「私」たちは、そのことに気がつかなくなってしまう。そればかりか、自分たちの思考が作り出している世界なのに、それが自分たちより以前からあるような実在の世界だと思い込んでしまうのである(現に自分がそうだった。なんとも厄介だ‥‥)。
 それもそのはずで、「私」たちは、二元的な時間・空間の世界観(それは文化や時代背景によって内容は変わるが、形式はいつも同じである)に適するための個人(自我)というアカウントを知らず知らずのうちに子供の頃から作らされていて、物心ついた時には、それ(自我)が自分であり、それを通して見ている世界(自我=時間・空間)が世界そのものだとすっかり勘違いし、そのまま年を重ねていく。ふと、そのことに違和感や生きづらさを感じ、逃れようとしても、「私」を縛る直線的な時間(時計、日付、年齢、履歴、過去 etc)と「私」を囲い込む空間(家庭、学校、職場、社会、国家、他者の存在 etc)によって、結局、自我としての「私」に引き戻されてしまう。まるで時間と空間が「私」をガッシリつかんで離さないかのようである。
 だが、これは当然といえば当然である。というのも、「私」だと勘違いしてしまった自我と、時間(時計、日付、年齢、履歴、過去 etc)及び空間(家庭、学校、職場、社会、国家、他者の存在 etc)とは実は同じものだからである。一方が崩れると他方も成り立たない、そういう関係(鶏と卵)にある。だから自我として生きる限り、それらから解放されることはない。「私は社会と闘い、自分を解放するのだ」と言ってみても、その「私」が自我であるならば、その闘う相手である社会というのは自分の分身であるので、ある意味、自分と闘うことになる(もちろん、不具合のある社会制度などを改善して社会を良くしていくのは当然、必要なことである。が、いくら改善しても「私」が自我である限り本当の解放はない。その「私」が社会の分身だからである)。
 では、そもそも「私」とは何なのか。「私」は男である、「私」は女である、「私」は父である、「私」は母である、「私」は○○人である、「私」は○○という名前である、「私」は○○歳である、「私」は○○県出身である、「私」は○○学校を卒業している、「私」は○○の仕事をしている、「私」は○○という組織に属している、「私」は○○という趣味を持っている、「私」は○○という夢を持っている、「私」は○○という過去を持っている etc etc……。以上のように「私」のことをいくら並べてみても、それらはただ時間・空間の形式で表象される社会的属性ばかりで、肝心の「私」は何ひとつ明らかにならない。「私」はどこまでも「私」のままである。まるで張子細工のように周りをペタペタと飾り立てているが、中は空洞であるかのようだ。そう、まさに「私」とは実体のない空洞であり、ただ社会生活の中で「○○である」と言うための記号でしかない。と同時に「○○である」という述語の方も同じく実体のない幻影である。両者は実体のないもの同士でお互いを支え合っているのである。(※ちなみに、昨今、メタバースが話題になっているが、これも特段、驚くものではなく、それ以前に我々がリアルだと思い込んでいるこの世界がバーチャルそのものなので、その中にまた似たようなバーチャル世界を作って喜んでいるものに過ぎないだろう)
 一度、自我を自分だと勘違いしてしまった「私」は、自分自身が実体のない空洞であるという事実を隠蔽するために「○○である」ということにひたすら執着するようになる。そうすることで、空洞であることの不安から逃避できるからである。それが俗に言うアイデンティティというものである。そして、ある○○が気に入らなければ、他の○○に乗り換える。そうして自己イメージというお気に入りの作品を作り上げていく。もし逆に、その作品と合わない、もしくは否定してくるものがあれば猛然とそれらを排除する。これが仏教でいう貪瞋痴である。
 こうして人生をかけて実体なき「私」という張子細工の作成に邁進する。で、その先に何があるのかというと、その果てには死が待っている。自我とは時間(生老病死)なのだから当然である。
 しかし、ここで言う死とは、そもそも何なのだろうか? 「私」とは実体のない空洞でしかないのに、いったい何が死ぬというのだろうか? 最初から実体のないものを実体のないもので飾り付け、実体のない時間の中で実体のないものが死んでいく。これはいったい何を意味しているのだろうか? 身も蓋もなく言ってしまえば、ここで言う死とは、単なる社会における自我というアカウントの消滅に過ぎない(といっても結局、始めから最後まで全ては人間の思考が作ったものなので、最初から消滅する何物も存在していないのだが)。こんなことを言うと不謹慎だという声がありそうだが、そもそも、それ(自我)は本当の私ではないのだから、その死には何の意味もない。
 いやいや、そんなバカな、肉体の死というものがあるではないか、という声があるかもしれない。しかし、そもそも自我の死と肉体の死とは全く関係がない。というか、この肉体(身心)の活動は、この世界の全現象と同じく「私」(自我)のものではないのである(=諸法無我)。この自我と肉体(身心)の同一視が全ての迷いの根源である。だが実はこの同一視によって「私は○○である」という自己イメージの妄想も可能となっている。もともと自我とは全く関係のない存在(現象)である肉体(身心)は、自我との同一視という錯覚によって時間・空間の二元的な形式に組み込まれてしまう。それによって「私」と「他者」が別々の分離した存在として現れ、いわゆる自他の対立が生じる。気づけば、平面的空間の中には個々バラバラな人やモノが存在し、同じく空間的なモノと化した肉体の中に閉じ込められた「私」もまた、その他のバラバラに存在する個物たちとともに直線的な時間の上を否応もなく滑らされていく。そして、その時間上のどこかで(「いつか」ではない)、モノとしての肉体の機能停止とともに「私」が消える。いや、そんなことはない。魂が残るはずだ。が、死後の魂という表象も結局、同じ時間・空間の二元的な形式から生じる錯覚である。(この辺りの自他の問題、心身の問題は改めて論じてみたいと思う)
 では、自我が思考の産物でしかないとしたら、本当の意味での私とは何なのだろうか? 実は空洞であるという事実そのものに答えがある。空洞を恐れて逃げる(つまり自我を実体視し、同化し続ける)のではなく、空洞という事実に直面する。すると、その空洞(無)そのものから自我ではない意識が現れてくる(というか、それはもともとそこにあったのだが、自我との同化がそれを見えなくさせてしまっていただけである)。その空洞そのものから現れてくる意識、それが本当の意味での私であり、それは肉体(身心)を超えている。というより時間・空間の形式から外れているので、死ぬということがない(これが観音さまの心と呼んでいるものである)。坐禅が目指しているのはそれへの目覚めである。だから、やるべきことはただひとつ、逃避(自我を実体視し、同化し続けること)をやめること、それだけである。山にこもったり、特殊な修行をするとか、そういうことではない(それも一種の逃避である)。もちろん「よし、逃避をやめた」と宣言しても、思考は感情のエネルギーとタッグを組んで、ありとあらゆる手を使って妨害してくるだろう。思考としても、せっかく思考が作り出した世界をぶち壊されたくないのだ。ただ、その思考を思考として、相手にせず、徹底的に思考に過ぎないという事実に向き合っていく。それにはどうしても毎日坐り続ける必要があると思う(それとも念仏や題目かマインドフルネスか。何か他にいい手があるならいいのだが……)。そうすると自然と、自我(=時間・空間)の化けの皮が剥がれてくるのが分かる。「ああ、こういうふうに自分は惑わされていたんだな」と。
 だからといって、自我そのものがなくなってしまうわけではないので、それと同化することなく、社会生活の必要に応じて、そのつど使っていけばいいのである。使わないときは放っておく。それがアカウントとしての自我の本来のあり方ではないかと思う。(言うは易しではあるが……)
 


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