星 飛雄馬
アチャン・チャーの法話集『Living Dhamma』の日本語訳です。
法話集以外の記事を集めました。
アチャン・チャーの法話集『Bodhinyana』の日本語訳です。
ジャック・コーンフィールドの著書『Modern Buddhist Masters』の日本語訳です。
アチャン・チャーの法話集『Our Real Home』の日本語訳です。
こちらの記事 にもありますように、このnoteは、 「裕福な方でも、貧しい方でも、誰でも平等に仏教の法話に触れられるように」 というコンセプトのもと、全文無料で公開させていただいております。 そして、その運営にあたっては、読者の皆様の善意のお布施(ご寄付)によって成り立っています。 最近、『パティパダー』でこちらのnoteが紹介されたこともあり、 「サポートをしたいが、やり方がよく分からない」 という声をいくつかいただきました。 そこで、今回改
アチャン・チャー サマーディでは、心を一点に集中させます。では、何に心を集中させるのでしょうか? 「心のバランス」をとることに、集中するのです。通常、多くの人々は、自分の心を静めようとして、瞑想を実践します。彼らはよくこう言います。 「座って瞑想をしようとするのですが、たった一分でさえ、心が静まらないのです。心は常にさ迷い、次の瞬間にはどこかへ飛んで行ってしまいます。一体どうすれば、心を静めることができるのでしょうか?」 そうした場合、無理やり心を静める必要はありません。
アチャン・チャー 今日は集中して、法話を聴いてください。心がさ迷わないように、注意するのです。山や森の中で、一人で座っているような気分で、話を聴いてもらえればと思います。今、ここで座って話を聴いているあなたは、何を持っていますか? 身体と心、それだけですよね。今、ここに座って、私の話を聴いている物体はあなたの「身体」です。そして、「心」とは、今、この瞬間に対して気づき、思考をするものです。仏教ではこの「心」を名、「身体」を色と呼びます。名とは物質ではないもの、言い換えるな
アチャン・チャー ●この法話は、1977年、イギリスのカンブリア州にある、マンジュシュリー協会で語られたものです。 今日はこの協会の会長に招かれ、皆さんにお話をすることになりました。どうかご清聴いただければ幸いです。言葉の壁がありますので、通訳を介して皆さんにお話をすることになります。そのため、話を理解するには少々集中力が必要かもしれませんが、どうかご容赦いただければと思います。 この場所での滞在は、とても快適でした。この協会の会長も、会員の皆さんも、真のダンマ
アチャン・チャー ブッダの在世時、一部の弟子たちはブッダの存在を疎ましく思っていました。ブッダは自分の弟子たちに、勤勉であること、不放逸であることを求めました。そのため、怠け者の弟子たちは、ブッダを恐れ、嫌っていたのです。ブッダが般涅槃したとき、一部の弟子たちは自分たちを導いてくれる存在がいなくなったことを知り、嘆き悲しみました。別のグループの弟子たちは、自分たちを叱る存在がいなくなったと考えて喜び、安堵しました。第3のグループの弟子たちは、平静を保っていました。彼らは、
アチャン・チャー 今日お話ししたことは、私から皆さんへの贈り物です。真剣に修行に取り組んでください。私たちの人生において、ダンマの実践に勝るものはありません。ダンマとは、私たちが生きる全世界を根本から支えているものです。現代社会の人々が混乱しているように見えるのは、ダンマを知らないからです。ダンマと共にあるのなら、私たちは満ち足りているはずです。今日の私の法話が、皆さんのダンマの実践の助けになれば、嬉しく思います。皆さん、どうかお元気で。私は、明日ここを発ちます。次に、ど
アチャン・チャー ブッダには、師はいませんでした。あるとき、一人の行者がブッダに、 「あなたの師匠は誰ですか?」 と尋ねると、ブッダは、 「私には師はいない」 と答えました。行者はただ頭を振り、その場を立ち去っていきました。ブッダはとても正直な方でした。ですから、真理を理解することも、受け入れることもできない人に対しても、ブッダは常に真実を語ったのです。私が皆さんに、私の言うことを鵜吞みにしないでくださいと言ったのは、ブッダが、 「自分で理解をしていないのに、他人をやみく
アチャン・チャー 苦しみという真理を理解したとき、私たちは苦しみを手放せるようになります。苦しみの原因を知れば、もうそのような原因を作る行為は止めるでしょう。そして、代わりに苦しみを滅するための修行を始めるのです。苦しみを滅するための修行とは、 「これは『自己』ではない」 「これは『私』でも『彼ら』でもない」 と物事を観察することです。そのように現象を観察すれば、苦しみは消滅します。私たちは目的地に到着したら、自然と歩みを止めますよね。それと同じです。これが「苦しみの滅」
アチャン・チャー ですから、私たちは無常を観察するべきなのです。何かを見て「きれいだ」と思っても、「そうではない」と自分に言い聞かせるべきです。反対に、何かを見て「醜いな」と思っても、「そうではない」と自分に言い聞かせる必要があります。常に、物事をそのように見るようにしてください。そうすれば、現象の中に真理を見出し、不確かなものの中に確かなものを見いだすことができるでしょう。 今日、私は「苦」と「苦の原因」と「苦の滅」と「苦を滅するための道」の四つから成る、四聖諦に
アチャン・チャー 注意深くなければ、ダンマを理解することはできません。指導者の教えを注意深く聴き、よく咀嚼することです。この花はきれいですか? この花の中にある、醜さが見えますか? この花は、何日間その美しさを保つことができるでしょうか? 数日後、この花はどうなるでしょうか? なぜ、花は変化するのでしょうか? 3、4日もすれば、花は枯れ、捨てることになります。花の美しさが失われたから、捨てるのです。私たちは美に執着します。何かを見て、「いいな」と思ったら、その虜になってし
アチャン・チャー だからこそブッダは、現象を観察し、「これは『私』ではない」「これは『私のもの』ではない」と気づくこと以上の修行は無い、と説いたのです。「私」や「私のもの」といった概念は、世俗諦に過ぎません。この事実を明確に理解すれば、私たちは心の平安を得ることができます。今すぐ無常という真理を受け入れ、あらゆる現象は「私」でも「私のもの」でもないということを理解すれば、何を失っても、私たちは平穏でいられます。実際のところ、あらゆる現象は、地、水、火、風という4つの要素が
アチャン・チャー これは、世間の多くの人々が、世俗諦を理解していないために起こることです。私たちは、世俗諦を理解しなくてはなりません。例えば、今、ここで話を聴いている皆さんは、自分の名前を持っていますよね。この名前というものは、生まれつきのものですか? それとも、生まれた後、付けられたものですか? 生まれた後に、付けられたものですよね。ですから、名前というものは世俗諦です。世俗諦は、私たちが社会生活を送るにあたって、有用なものです。例えば、A、B、C、Dという4人の男性が
アチャン・チャー ですからブッダは、「今、ここ」でダンマを観察するようにと説いたのです。ダンマは私たちの心と身体に生じるものですから、どこか他の場所に行って、観察をする必要はないのです。一部の瞑想指導者は、ダンマを学びたいなら、本を読みなさいと言います。ですが、あなたがいくら本を読んでも、そこに真のダンマを見出すことはできないでしょう。仏教に関する本を読むのなら、読んだあとに、自分でもその教えを実践して、確認してみなければなりません。そのようにするのなら、ダンマを理解する
アチャン・チャー 仏教では、あらゆる現象は無常であるとされます。もし、あなたが、その無常という自然の法則に抗い、何かを永続させようとすれば、苦しむことになります。人生の中で、無常に直面するたびに、あなたは失望することになるのです。無常を受け入れる人は、心に葛藤を抱くことはなく、いつも安らいでいます。反対に、物事が変化しないことを望む人は、常に葛藤を抱き、眠れない夜を過ごすことになるでしょう。無常を理解しないことは、大変危険なことなのです。 では、ダンマを理解するには
アチャン・チャー ブッダは、何があっても、 「これは『私』ではない」 「これは『私のもの』ではない」 と観察することこそが、苦しみを超越するための最高の修行法であると説きました。けれども、私たちは普段、こうしたことを実践しません。苦しみが生じても、私たちはそこから何も学ばず、ただ泣くのみです。私たちに必要なのは、泣くことではなく、現象を正しく観察し、知る者を自らの内に育てることなのです。 皆さんの中には、こうした話がダンマの教えであることを知らない人もいるかもしれま
アチャン・チャー 今日、一人の女性がお寺にやって来て、怒りへの対処法について、私に質問をしました。そこで、私は彼女に、 「今度怒ったら、目覚まし時計をセットして、目の前に置きなさい。そして、怒りが消えるまで二時間待ってみなさい」 と言いました。もし、私たちが自分の感情を思うようにコントロールできるのなら、怒りに対して、 「二時間以内に消えろ!」 と命令することもできます。しかし、私たちの感情というものはコントロール不能なものですから、そうした命令は不可能です。結局、怒りは