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私たちはなぜ、この世界に生まれてきたのか?(全訳)

アチャン・チャー

 今年の雨安居では、私はあまり体調がすぐれず、元気がありません。そこで、新鮮な空気を吸いに、この山の寺へとやってきました。私に面会を求める人々は絶えませんが、以前のように対応することはできません。声もかすれますし、話すとすぐに息が上がってしまいますので。こうして皆さんに会えるということ自体、有り難いことだと思っています。すぐに、皆さんとももうお会いできなくなることでしょう。私の呼吸が止まり、誰とも話せなくなる日もそう遠い日のことではありません。あらゆる現象サンカーラと同様に、私の身体も縁によって変化していきます。ブッダはこのことを、「 khaya vayaṃ 」と呼びました。これは、「あらゆる条件付けられた現象サンカーラは、衰え、崩壊する」ということを意味します。
 
 私たちの身体は、どのようにして老い、衰えていくのでしょうか? 氷の塊を想像してみてください。その氷の塊も、元々は単なる水でした。水を凍らせると、氷になるのですね。しかし、氷というものは日光にさらされると、すぐに溶けてしまうものです。ここにあるテープレコーダーと同じくらいの大きさの氷の塊を、日の当たる所に置いておいてみてください。そうすると、氷がどのように溶けていくかが分かるでしょう。私たちの身体が衰えるのも、その氷と同じです。氷が溶けるように、徐々に崩壊していくのです。日光にさらされた氷は、何時間も経たないうちに、溶けて水たまりになるでしょう。これが、 khaya vayaṃ です。あらゆる条件付けられた現象サンカーラは、衰え、崩壊します。世界が始まった時から、これは変わらぬ法則です。ですから、私たちはこの世に生まれたときから、この法則から逃れることはできないのです。私たちはこの世に生まれた瞬間から、老、病、死といった性質と共にあるのです。
 
 ですからブッダは、「 khaya vayaṃ 」ということを強調したのです。比丘であろうと、在家であろうと例外なく、今、この瞑想ホールに座っている私たち全員が「老いのプロセスの塊」なのです。先ほどの、氷の例と同じです。私たちの身体は、今は氷の塊のように、まとまりのある形をしています。氷は、最初は水で、一定の期間氷の形を保ち、いずれまた溶けて水に戻ります。私たちの身体も同様です。自分の身体をよく観察してみてください。髪の毛も爪も、あらゆる箇所が老化しつつあることがわかるでしょう。
 
 私たちは生まれた時から、こんなに年老いていたわけではありません。子どもの頃だってありましたよね? 今はもう成長して、子どもから大人になったのです。そうして、これからは自然の法則に従って、衰えていきます。氷の塊がやがて溶けてなくなるように、私たちの身体も衰えていくのです。そして最後には、氷が水になるように、私たちの身体もバラバラになります。私たちの身体は、地、水、火、風という四つの要素から出来ています。四つの要素が組み合わさることによって身体となり、私たちはそれを「人」と呼んでいるわけです。世間の慣わしとして、「人」と呼んでいるのですね。そうやって仮に名付けると便利ですから、私たちは「男性」「女性」「ミスター」「ミセス」などと呼び名を作り、互いを識別するのに役立てているわけです。でも、本当はそこには誰もいないのです。実際に存在するのは、地、水、火、風という四つの要素だけです。それらが特定の形として集まったものを、私たちは「人」と呼んでいるのです。それが事実です。もし、皆さんが自分の身体を真剣に観察してみるのならば、そこには誰も存在していないことが分かるでしょう。
 
 私たちの身体のうち、筋肉や皮膚、骨など硬さを持ったものは、「地の要素」と言います。血液など、液体状のものは、「水の要素」です。そして、身体を温める熱は「火の要素」になります。最後に、私たちの身体の中で、様々なものを循環させる力を「風の要素」と呼びます。
 
 ワット・パー・ポンには、男性でも女性でもない身体があります。それは、本堂に安置されている骸骨のことです。その骸骨を見ても、男性であるとか、女性であるという感じはしません。誰かに、
「この骸骨は男性ですか? それとも女性ですか?」
と尋ねられても、答えられる人はこのお寺にはいないでしょう。骸骨には筋肉も皮膚もありませんから、性別を判断することはできないのです。
 
 近所の村人たちは、ワット・パー・ポンに骸骨があることを知りません。彼らはワット・パー・ポンにやって来て、骸骨を見ると驚きます。一目散に逃げだす人もいるくらいです。彼らは、骸骨を正視できません。骸骨が怖いのですね。骸骨を怖がるような人々は、自分のことを真面目に観察したことがないのだと思います。骨があることのありがたみを、感じたことがないのです。このお寺に来るには、車に乗って来るか、歩いてくるしかありません。もし、自分の身体に骨がなかったとしたら、彼らはどうやってここにたどり着くことが出来るのでしょうか? それにもかかわらず、彼らはこのワット・パー・ポンにやって来て、本堂に入って骸骨を見るや、一目散に逃げ去っていくのです! 彼らは、生まれてこの方、人間の骸骨など見たことがないのですね。自分自身もこれまでずっと骸骨と共に生きてきたのに、そのことを意識したことがないのです。ですから、彼らにとって、今、骸骨を見ることができたのは、とても幸運なことなのです。それなのに、お年寄りでさえ、骸骨を見て怖がるのですから……。何が怖いのでしょうね? これは、彼らが自分自身とまったく向き合っていないこと、自分自身のことを本当に理解していないことを示しています。家に帰っても3、4日は骸骨が怖くて、ぐっすりと眠れないかもしれません。ですが、そうして寝ている彼らの身体の中にも、骸骨は存在するのです! 骸骨と共に服を着て、骸骨と一緒にご飯を食べて、一日中骸骨と一緒です。それにもかかわらず、彼らは骸骨を恐れているのです。
 
 この話から、世間の人々が、いかに自分というものを理解していないかが分かります。何と哀れなことでしょう! 彼らは自分自身を見つめず、いつも外ばかり見ています。森の木や他人の姿を見て、「これは大きい」「あれは小さい」「これは長い」「あれは短い」などと語り合っています。彼らは自分の外部にあるものを見るのに夢中で、自分自身を観察しません。率直に言って、世間の人々というのは、本当に哀れな存在です。彼らには、自分の拠り所(帰依所)とするものが無いのです。
 
 出家式のとき、出家をする人は5つの基本的な瞑想の対象を学ばなくてはなりません。その5つとは、頭髪( kesā )、体毛( lomā )、爪( nakhā )、歯( dantā )、皮膚( taco )からなります。出家をしに来た大学生や、高学歴の人々の中には、この5つが瞑想の対象であると聞いて、鼻で笑う人もいます。
「この僧侶は何を言っているんだ? 自分の髪のことなんて、とっくに知っている。自分の髪の毛について、これ以上教わることなど、何もない」
放逸な人々というのは、このように、自分の髪のことを理解していると勘違いしています。そこで私は彼らに、「自分の髪の毛を観察する」というのは、髪の毛のありのままの姿を観察することを意味するのだと、再度説明をします。自分の頭髪、体毛、爪、歯、皮膚のありのままの姿を観察してみてください。物事のありのままの姿を観察するというのは、表面的にではなく、真理に基づいて観察をするということです。物事をありのままに観ることができるようになれば、それらに対して執着をすることがなくなります。自分の頭髪、体毛、爪、歯、皮膚を、よく観察してみてください。本当にきれいですか? 実体のあるものですか? 安定して、変化しないものですか? 違いますよね。本当はきれいではないけれど、私たちがそう妄想しているだけなのです。私たちの身体は変化し続けており、実体は無いのが事実なのに、それを認めたくないのです。
 
 世間の人々は、髪や爪、歯、肌といったものに、本当に執着しています。ブッダはこの5つのものを基本的な瞑想の対象と定め、よく観察するようにと説きました。しっかりと観察してみると、それらが無常アニッチャで、不完全ドゥッカで、所有者がいないアナッターものであることが、よく分かります。この5つのものは、「私のもの」でも「誰かのもの」でもありません。私たちは、生まれたときからこうしたものに惑わされていますが、実はそれらは、本当は清らかなものではありません。仮にあなたが、一週間お風呂に入らなかったらどうなりますか? ひどく臭うのではないですか? 大勢で肉体労働をしたときなど、汗をたくさんかくと、その臭いはひどいものです。家に帰って、石鹸と水を使って身体を洗えば、汗の臭いは消えたような気がします。しかし、身体の臭いが収まったのは、あくまで一時的なものです。時間とともに石鹸の臭いが消えれば、また段々と身体が臭くなってくるのです。
 
 私たちは自分の身体を、きれいで、丈夫で、長持ちをすると思いがちです。老いること、病気になること、死ぬことなどは、想像もしません。私たちは肉体に魅了され、惑わされているので、自分自身の中にある真の拠り所(帰依所)を知らないのです。私たちの真の拠り所(帰依所)は、心です。この瞑想ホールはかなり大きいかもしれませんが、真の拠り所にはなり得ません。鳩や、ヤモリや、トカゲも外の危険を逃れて、この瞑想ホールへと、避難をしにやってきます。私たち人間は、この瞑想ホールは自分たちのものだと思っているかもしれませんが、そうではありません。実際は他の多くの生き物たちと、一緒に暮らしているのです。ですから、この瞑想ホールは単に一時的に滞在をする場所に過ぎません。ですが、世間の人々はそういった場所を真の拠り所であると、勘違いをしてしまうのです。
 
 ブッダは私たちに、真の拠り所(帰依所)を見つけるようにと説きました。私たちの真の拠り所(帰依所)とは、本来の心です。本来の心は、私たちにとって非常に重要なものです。ですが、世間の人々というものは、こうした重要なことには目を向けず、重要ではないものに、人生のほとんどの時間を費やしています。家を掃除するときのことを、考えてみてください。私たちは、自分の部屋を片付けたり、お皿を洗うことには熱心ですが、そのとき、自分の心に気づきサティを向けることはありません。部屋を片付けている最中も、私たちの心は怒りドーサに満ちているかもしれません。また、お皿を洗っているときも、不機嫌な気持ちになっているかもしれません。心を観察する習慣が無いため、世間の人々は自分の心が汚れていることに気がつきません。これが、先ほど「世間の人々は、一時的に滞在をする場所を真の拠り所であると勘違いをしている」と私が言った意味です。世間の人々は、自分の家庭を美しく保つことには熱心でも、自分の心を美しくしようとは考えないものです。苦しみドゥッカについて、真剣に考えたことが無いのですね。本当は、心こそが重要なのです。ブッダは私たちに、自分の心の中に拠り所(帰依所)を見出すようにと説きました。
 
Attāhi attano nātho
自分自身を拠り所としなさい
 
一体他の誰が、あなたの拠り所になれると言うのでしょうか? 私たちにとって、真の拠り所(帰依所)は、自分自身の心以外に無いのです。他のものを拠り所にしようとしても、それは確実なものではありません。もし、あなたが他のものに本当に頼ることができるとするなら、それは自分の中にすでに拠り所がある場合だけです。修行をするときには、師匠、家族、友人といった他人を拠り所とする前に、まずは自分自身の心を拠り所としなければなりません。
 
 そのためにも、出家者、在家者を問わず、今日ここにいる皆さんは、
「私は誰なのか? なぜ、私たちはこの世界に生まれてきたのか?」
ということを自分に問うてみてほしいのです。答えられない人もいるでしょう。そうした人々は、幸せになりたいと願っても、決して苦しみドゥッカが尽きることはありません。金持ちであろうと、貧乏人であろうと、若かろうが年寄りだろうが、皆、苦しんでドゥッカいることに変わりはありません。彼らにとって、この世界のあらゆるものが苦しみドゥッカなのです。なぜでしょうか? 彼らには、智慧パンニャがないからです。貧しい人が不幸なのは、生活を維持するために必要な収入が足りないからです。金持ちが不幸なのは、生活を維持するために気を配らなければならないことが多すぎるからです。
 
 私はかつて沙弥だった頃、「財産や使用人を持つことは幸福か?」というテーマで法話をしたことがあります。私は聴衆に、
「もし、皆さんが男と女の使用人を100人ずつ、それに象、牛、水牛を100頭ずつ持っていたとしたら、どうしますか?」
と尋ねました。在家の聴衆は単純に、「羨ましい!」とばかりに興奮していました。ですが、皆さんは100頭もの水牛の世話をする苦労を想像できますか? あるいは、100人もの男女の使用人を管理する気苦労を想像できますか? そんな雑事に追われる人生は、果たして幸せなのでしょうか? 世間の人々は、物事の一面しか見ようとしません。彼らには、牛や使用人を何百頭と所有したいという欲望があります。ですが、私は50頭の水牛を所有することでさえ、多すぎだと思います。水牛50頭分の縄を準備するだけで、大変な労力です! しかし、世間の人々はそうした負の面を考慮せず、物を手に入れる喜びだけに目を向けます。物事を真剣に考えていないのです。
 
 もし、私たちに智慧パンニャがなければ、自分の周囲にあるものは、すべて苦しみドゥッカの源となります。ですが、もし私たちに智慧パンニャがあれば、自分の周囲にあるものは、すべて苦しみドゥッカから脱出するためのきっかけを与えてくれるものになります。私たちには、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が備わっています。ですが、目が見えるということは、必ずしもいいことばかりではありません。機嫌が悪ければ、他人を見ただけで腹が立ち、夜眠れなくなることもあります。あるいは誰かを見て、好きになってしまうこともあります。もし、相手が手に入らなければ、恋愛感情は苦しみドゥッカの原因となります。好きという感情も、嫌いという感情も、苦しみドゥッカの原因であることに違いはありません。何かを好きになっても、苦しいドゥッカ。何かを嫌いになっても、苦しいドゥッカ。そして、欲したものが仮に手に入ったとしても、私たちは幸せにはなれません。その場合は手に入れたものを失うことを恐れますから、それもまた苦しみドゥッカには違いないのです。人生はすべて苦しみドゥッカです。このような世界で、私たちはいったいどうやって生きていけばいいのでしょうか? 仮に豪邸に住んでいても、心が満たされなければどうしようもないのです。
 
 私たちは、自分自身を見つめ直すべきです。
「私たちはなぜ、この世界に生まれてきたのだろうか?」
「今生で真に何かを得ることができるのだろうか?」
といったことを、真剣に考えるのです。ここの村では、子どもの頃から、家の田植えの手伝いをします。そうして17、18歳になると、周囲から急かされたように皆、結婚をします。家庭を持ってからも、働き詰めです。それから80歳、あるいは90歳になるまで農作業を続けます。私は彼らにこう尋ねます。
「生まれたときからずっと働き詰めじゃな。じゃが、もうそろそろこの世とおさらばする時じゃ。ところで、来世には何を持っていくのかね?」
その問いに答えられる人は、誰もいません。彼らに言えるのは、
「さぁ、俺には分からんね」
ということだけです。この村に古くから伝わることわざに、
「道で野イチゴを摘むのに夢中になってはいけないよ。あっという間に夜がやって来るから」
というものがあります。放逸だから、そんなことになってしまうのです。彼らは地面に座り、野イチゴを頬張りながら、
「さぁ、俺には分からんね」
といつまでも言い続けるのでしょう。
 
 若い頃、独身でいると何かと肩身が狭いものです。ですから、若い人は何とか結婚相手を見つけようと奮闘します。それで、実際に結婚をしたらどうなりますか? 夫婦喧嘩の勃発です! 独りで生活していると寂しさを感じますが、かと言って他人と一緒に生活をすれば、毎日が喧嘩なのです。
 
 子どもが小さい頃、親は
「子どもが大きくなれば、もう少し暮らしも楽になるだろう」
と考えます。そして、成長すれば経済的負担も減るだろうと考えて、3人、5人とどんどん子どもを産むのです。しかし、実際には子どもは成長するにしたがって、その経済的負担はより大きくなっていきます。大小2つの木片があるとしましょう。その内、小さいほうの木片を捨てて、大きいほうの木片を持ったままなら、身軽になったと思いますか? もちろん、そんなことはありませんよね。子どもが小さいうちは、食事を与えておくだけで満足していますから、大してお金はかからないものです。ところが、大きくなると車やらバイクやらを欲しがるようになるのです! でも、皆さんは自分の子どもを溺愛していますから、おねだりされても断れないでしょう? 何とか車を買ってやりたいですが、そんなお金はありません。そこで夫婦喧嘩が勃発です。
「あの子に車を買ってやりましょうよ!」
「そんな金、どこにあるんだ!」
そうして結局、借金をしてまで、子どものために車を買ってやる羽目になるのです。もちろん、そんなにおねだりをしない子どももいるでしょう。ですが、その子の教育費はどうするのですか?
「子どもたちが学校を卒業したら、私たちの生活も楽になるだろう」
学問に終わりはありません! 常に、より高度な学びがあるものです。「終わり」がある学問は、仏教だけです。他のあらゆる学問には、「終わり」はありません。ですから結局、子どもを持つこととは、頭痛の種を抱えることなのです。もし、子どもが4、5人もいる家庭なら、毎日が夫婦喧嘩となるでしょう。
 
 未来に生じるであろう苦しみドゥッカを、私たちは予想することはありません。そんなことは起こらないだろうと思い込んでいるのです。そうしてそれが起こって初めて、苦しみドゥッカとはあらかじめ予見できないものであると、理解するのです。私は子どもの頃、水牛の世話をする傍ら、よく炭を歯磨き粉の代わりにして、歯を磨いていました。家に帰って鏡を見ると、歯は真っ白です。自分の歯はきれいなんだな、と子ども心に思っていました。ですが、それは大きな間違いだったのです。50代、60代になってくると、私の歯はどんどん悪くなっていきました。歯がぐらぐらしていると、食事をするとき、口の中に激痛が走ります。ですから、私は歯医者に行って、歯を抜いてもらうことにしました。それで結局、今ではほとんど入れ歯です。歯がぐらぐらしているときは、本当に痛かったので、一度に16本もの歯を抜いたこともあります。一度にそんなに多くの歯を抜くのは身体への負担が大きいと、歯医者は歯を抜くことを渋りました。ですが彼に対して、私は言いました。
「責任はわしがとるから、とにかく早く歯を抜いてくれ!」
最終的に、歯医者は一度に16本の歯を抜くことに同意しました。それでもまだ5本程度は健康な歯も残っていましたが、それ以外は全部の歯を抜いたのです。あの時は、本当にひやひやしたものです。歯を抜いてから2、3日は、何も食べられませんでした。
 
 水牛の世話をしていた幼い頃、私は歯を磨くことはとてもよいことだと思っていました。自分の歯は大切なもので、大事にしなければならないと信じていたのです。ですが結局、私はほとんどの歯を失ってしまいました。歯が悪くなってからは、何年もの間、歯の痛みに悩まされました。上下の歯茎が、同時に腫れることもあったのです。
 
 皆さんも、いつの日か私のような経験をすることがあるかもしれません。もし、あなたの歯が健康で、毎日きちんと歯磨きをしているならご用心を! そこまで注意をしていても、歯が悪くなることはあるのですから。
 
 なぜ私がこのように自分の体験談を話したのかというと、皆さんに苦しみドゥッカというものは、自らの身体から生じるものだということを、知っておいて欲しかったからなのです。私たちの身体とは、頼りにならないものです。若いうちは、このことに中々気づきません。ですが、年を取るにつれ、身体のあちこちに不調が表れてくるのです。嫌だと思っても、それが自然の法則というものです。泣こうが喚こうが、その流れを止めることはできません。私たちが生きるのも死ぬのも、自然の法則から見れば違いは無いのです。そして、この自然の法則は、いかなる科学をもってしても変えることはできません。皆さんも、歯医者に行くことがあるかもしれません。ですが、その時一時的に歯を治してもらっても、結局最後には、すべての歯は失われるのです。歯医者だって、自分の歯を永遠に保つことはできないのですよ。すべてのものは最後にはバラバラになり、崩壊するというのが、自然の法則なのです。
 
 ですから、修行をするのなら、若いうちに始めるのがよいのです。「仏道を実践するのは、年を取ってからでいい」などと考えずに、思い立ったら今すぐ、実践を始めるべきです。世間のほとんどの人々は、「ダンマを学ぶのは、年寄りになってからでいい」と考えています。男性でも女性でも、その意見には変わりはありません。私は彼らがなぜそんなことを考えるのか、理解できません。年を取れば、若い頃より体力が低下するのは、間違いないのですから。若者と年寄りが徒競走をして、年寄りが勝ちますか? なぜ、年を取るまで仏道に取り組まないのですか? 彼らは皆、自分が死ぬことなど想像もしないのでしょう。そうして実際に年寄りになった頃、孫が
「おばあちゃん、お寺に行こうよ!」
と言っても、
「おばあちゃんは耳が遠いから、お前ひとりでいっておいで」
と答えます。耳がよかった頃、彼女は何をしていたのでしょうか?
「さぁ、俺には分からんね」
と言い、野イチゴを摘むのに夢中になっていたのです。彼女がようやくお寺に行ったのは、耳が聴こえなくなってからでした。けれども、もはや手遅れです。耳が遠くなってしまった彼女には、僧侶の法話は聞き取れませんでした。悲しいかな世間の多くの人々は、加齢によって、すっかり自分の体力が低下してしまって初めて、ダンマに関心を持つのです。
 
 今日の法話は、それを理解できる人にとっては役に立つものとなるでしょう。私たちは、自分自身の身体を真剣に観察するべきです。それは年を取るにつれ、私たち一人ひとりが背負わなければならない重荷となっていきます。若い頃は足も丈夫で、走り回ることもできました。でも、今は歩くだけで足が重だるくなってしまいます。若い頃、この足は私を支えてくれました。それが今は、私のほうが必死になって自分の足を運ばなければならない始末です。子どもの頃、お年寄りが椅子から立ち上がるとき、うめき声をあげるのを耳にしたことがあります。身体が弱って、立ち上がるのがしんどいので、うめき声をあげているのです。ですが、彼らは自分がうめき声をあげている理由を、理解してはいないようでした。
 
 そんなに身体のあちこちにガタがきても、彼らは自らの身体がもたらす苦しみドゥッカを観察しようとはしません。ですが、私たちは、自分がいつ死ぬのか分からないのです。年を取るにつれ、身体のあちこちにガタがくるのは、自然な現象です。世間の人々は、そうした現象に関節炎、リウマチ、痛風などと名前をつけ、医者は治療に取り組みますが、完全に治ることはありません。医者でさえ、年を取れば身体はガタガタになってしまうのですよ! 誰であれ、年を取れば身体はガタガタになるというのは、自然の法則なのです。
 
 どうかこの現実を、真剣に観察してみてください。実際に老いる前に、この「老い」という現象を観察しておけば、人生において正しい選択をすることが可能になります。道の真ん中に、毒蛇がいるところを想像してみてください。もし、毒蛇がいることに気づいていれば、それを避けて道を通っていけます。しかし、毒蛇に気づくことがなければ、不用意に近づいて、噛まれてしまうことでしょう。
 
 世間の人々は、苦しみドゥッカが生じても、どう対処すればいいのか理解していません。彼らも苦しみを避けたい、それから解放されたいと思っているのに、どうすればいいのか分からないのです。そうして彼らは、訳も分からないまま年老いて、病気になり、やがて死んでいくのです。
 
 タイでは昔、誰かが臨終になったら、家族がそばに寄って、耳元で「ブッドー ブッドー」と唱えるようにと言われていました。ですが、そんなことをして、一体何になるのでしょうか? 今、まさに火葬されそうな状態の人に対して「ブッドー」と唱えることによって、何が変わるというのでしょうか。そんなことをするくらいなら、なぜ若くて健康なときにブッドーと唱えること(仏随念)を実践しなかったのでしょうか? 呼吸が乱れた病人の耳元で、世間の人々は言うのです。
「お母さん、聞こえる? ブッドー! ブッドー!」
そのようなことをするのは、単なる時間の無駄ですし、かえって瀕死の母親を混乱させることになるだけです。それなら、静かに母親を看取ったほうが、彼女のためにもなるはずです。
 
 世間の人々は自分の心の中にある問題を解決する方法を知りません。そして、彼らには心の拠り所(帰依所)もありません。彼らがなぜ、いつも欲にまみれ、イライラしているか分かりますか? なぜなら、彼らには心の拠り所(帰依所)が無いからなのです。
 
 世間の人々の多くは、結婚をして、夫婦になります。新婚の頃は仲良く暮らしていますが、50歳くらいになってくると、互いのことが段々理解できなくなってきます。妻の言うことはどれも、夫にとっては受け入れがたいものですし、夫が何を言っても、妻は耳を傾けなくなります。そうして、夫婦は互いに背を向けるようになるのです。
 
 私はこれまでの人生で、一度も家庭を持ったことはありません。何故だか分かりますか? ここで、家庭( household )という言葉について、改めて考えてみましょう。*1 私は若い頃、この家庭( household )という概念を知ったとき、その正体に気づいたのです。「 household 」の本質とは何でしょうか? それは「拘束( hold )」です。今、法話を聴いている皆さんのところに誰かがやってきて、縄で縛り上げたらどう思いますか? それが「拘束される( being held )」ということです。「拘束される( being held )」ことは、自由を失うことを意味します。世間の人々は、男であろうと、女であろうと、「拘束された( being held )」、自由の無い人生を生きているのです。
 
 私は初めて家庭( household )という言葉を知ったとき、ひどく暗い気持ちになりました。家庭( household )を持つということは、自分にとって些細なことではなく、命に係わることだと思ったのです。「拘束( hold )」という言葉は、苦しみドゥッカの象徴です。一旦拘束( hold )されれば、私たちはその後ずっと、自由を失うのです。
 
 また、家庭( household )の「 house 」という単語には、「人を悩ませるもの」という意味があります。皆さんは、唐辛子を焼いたことがありますか? 唐辛子を焼くと、煙が出て、家中の人々がくしゃみをします。この唐辛子と同様に、家庭( household )は私たちの人生に悩みと混乱をもたらすものです。それには、価値はありません。この家庭( household )という言葉を知っていたため、私は出家することができたし、還俗することもありませんでした。私にとって、「家庭( household )」は恐ろしいものです。一旦家庭を持てば、身動きができなくなり、そこから逃げられなくなります。子ども、家計、その他諸々の問題が、私たちに降りかかってきます。そんな生活のどこに自由がありますか? 家庭を持てば、それに確実に縛り付けられるのです。子どもがいれば、彼らとは死ぬまで喧嘩が絶えないことでしょう。しかも、家族ですから、簡単に縁を切ることもできないのです。情けなくて涙が出てきます。ですが、家庭( household )を持っている限り、あなたの涙が止まることはありません。悔し涙から解放されるのは、家庭を持たない場合のみです。
 
 この現実を、よく見つめてみてください。まだ、家庭の恐ろしさについて、それほど自覚していない方もいるかもしれません。その一方で、もう大分気づいている方もいることでしょう。家族を捨てて出家をするか、それともこのまま家族と留まるか悩んでいる方もいるかもしれません。現在、ワット・パー・ポンには、70から80程度のクティ(比丘が瞑想修行をする小屋)があります。クティがほぼ満室になると、私はクティの管理担当の比丘に、誰か夫婦喧嘩をした人が、出家をしたいとお寺に駆け込んでくるかもしれないから、何室か空き室を確保しておくようにと指示をします。すると案の定、しばらくすると一人の婦人がお寺に駆け込んできます。
「ルアンポー、もうこんな世の中、うんざりです」
私は答えます。
「まぁまぁ、そんなこと言わないで。本当に心の底からそう思っているのかね?」
そうして話していると、今度は彼女の夫がお寺にやって来て、こう言います。
「ルアンポー、私だって、うんざりなんですよ!」
こんな調子の彼らですが、2、3日ワット・パー・ポンに滞在していると、当初のうんざりした感情は消えていきます。
 
 二人とも
「こんな生活は、もううんざりだ」
と言っていましたが、それは自分をごまかしているだけです。クティの中で一人静かに座っていると、やがてこんな思いが心に浮かんできます。
「いつになったら、女房(旦那)は自分のことを心配して、迎えに来てくれるんだろう?」
二人は相手もお寺にいることを知りません。一体なぜ、彼らは日常生活に「うんざりだ」と感じたのでしょうか? 彼らは二人とも、相手に腹を立ててお寺にやって来ました。家にいるときは、夫(妻)のやることなすこと全てに、腹が立ちました。ですが、3日間お寺で心静かに過ごすと、
「う~ん、やっぱり女房が正しかった。間違っていたのは私のほうだった」
「旦那の言う通りだったわ。あんなに怒らなければよかった」
などと簡単に、彼らは考えを変えます。そんなものです。ですから、私は世俗の出来事をあまり真剣に受け止めません。このように世間を捉えていたため、私は出家の道を選んだのです。
 
 今日話した法話を踏まえて、皆さんに宿題を一つ出したいと思います。村で農業をしている人も、都心で働いている人も、自分の胸に尋ねてみてほしいのです。
「自分はなぜ、この世界に生まれてきたのか? 来世に持っていけるものは、何なのか?」
この言葉を、繰り返し自問自答してみてください。そうすれば、自ずと智慧パンニャが育つことでしょう。この問いを参究しなければ、無知モーハなままです。今すぐ理解できなくても、参究を続ければいずれ理解できることでしょう。いつ分かるとは断言できませんが、もしかしたらその答えは今晩訪れるかもしれません。お寺から帰る車の中で、何か閃く可能性もあります。家に帰ったら、
「あぁ、さっきは分からなかったけど、ルアンポーの言っていたことは、こういうことか」
と理解できるかもしれませんよ。
 
 今日の法話はこのくらいでいいでしょう。老いた身体には、長時間の法話は堪えるものですから。
 
【注】
*1 タイ語では家族は「 khrop khrua 」と呼ばれ、直訳すると、「かまどの火」といった意味になる。この英訳版では、タイ語の直訳を試みるのではなく、内容に対応する英単語として「 household 」という表現を採用した。

アチャン・チャー『Living Dhamma』より
 
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .
 

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