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「菩提心」について①(無常を観ずる心)

 道元禅師は『学道用心集』の中で、まず仏道に入るには菩提心を発(おこ)すこと(=発心)が大事だと言っている。そもそも菩提心とは何か。
  道元禅師は菩提心の説明として「ただ世間の生滅無常を観ずる心もまた菩提心と名づく」という龍樹尊者の言葉を引用している。つまり無常を観ずる心が菩提心そのものであるという。
 無常を観ずる心が菩提心であるのだから、菩提心を発すには無常を観じなければならない。「無常を観ずる時、吾我の心生ぜず、名利の念起らず、時光のはなはだ速かなるを恐怖す」。だから人は必死に仏道を行じるようになる。逆に言うと、無常を観ずることがないかぎり人は仏道を行じることはない。なぜなら吾我の心(=自我意識)が邪魔をして無常という事実を観ることができないからである。自我意識をもって行われることはすべて凡夫の行いであり、それがどんなに世間的に徳の高い行為であろうと、仏の行いにはならない。自我意識をもってしては原理上、仏道を行じることはできないのである。そしてその自我意識が前面に立っているかぎり、菩提心は隠れ、いつまでも現れない。「暫く吾我を忘れて潜(ひそか)に修す、乃ち菩提心の親しきなり」(しばらく自我意識を忘れてひそやかに修行するとき菩提心は親しい存在となる)。その親しき菩提心をもって行じるのが道元禅師の言う仏道である。
 よって、まずは無常を観ずることで自我意識を忘れ、菩提心を現わさなければならない。とはいえ、無常を観ぜよと言われても実際どうしたらいいのか。
 道元禅師は以下のように言う。

 「若し我見起る時は、静坐観察せよ。今我が身体内外の所有、何を以てか本とせんや。身体髪膚は、父母に稟く、赤白の二滴は、始終是れ空なり、所以に我に非ず。心意識智、壽命を繋ぐ、出入の一息、畢竟如何、所以に我に非ず、彼此執るべき無きおや」(篠原壽雄著『学道用心集 道元 学習と修行のこころえ』より抜粋)

 どうしても自我意識にとらわれるようならば、静かに坐り、身心を観察せよ。そのとき、この身体の内外のいったいどこに自我としての本体があるだろうか。父母に授かったこの身体髪膚はもともと卵子と精子の結合によって成り、始終、変化して無常であり、実体もなく空である。だから我ではない。対して、心を観察してみるなら、心意識智という精神の活動が命を連続しているものとして認識させているが、その活動のどこを取っても実体としてつかむことができないことが分かる。こうした体と心の活動を支えている呼吸の一息一息は畢竟どうなのか。結局、体と心のどちらにも我というものは見出せないというのが事実である。

 ”只管打坐=道元禅師”というイメージからは意外に思われるが、ここで勧めているのはヴィパッサナー(観察)瞑想である。お釈迦さんと同じく、まずは自我意識から離れるために瞑想により身心をつぶさに観察しろと言っている。
 自我意識というのは、この身心を一つの固まりのごとく夢想し、時間と空間の形式の中で実体として存在しているかのように見させている錯覚である。そのことは自と他を分離し、外の世界を実体化することにつながり、さまざまな苦しみが生まれてくる根源となる。実際は、この身心および世界は無常であるというのが事実であり、それで何の問題もないのだが、それを無常ではない、つまり常なるものであると錯覚し、問題(苦しみ)をつくりだしてしまうのが自我意識である。なので、まずは何としても自我意識から離れなければならない。が、そのためには、この身心が無常であるという事実を理屈ではなく実践として直接に観る(=直下に承当する)必要がある。それが仏教の瞑想であり、というより仏道のすべてと言っても過言ではない。
 本来、身心は無常であるのに、身心は無常ではない、常なるものであるという錯覚の上に自我意識は成り立っている。ということは、逆に言うなら、身心は無常である、常なるものではないという事実を直接に観るときには自我意識は存在できない。この自我意識が存在していない(吾我を忘れている)とき現れてくるのが菩提心である(というより、自我意識によって隠されてしまっていた本来の心が露わになったのである)。
 そのとき、無常であるという事実を観ていたのは自我意識としての「私」ではなく、菩提心としての自己(私)であったことに気づく(自我意識は原理上、無常であることを観ることはできないので当然である)。
 ここでは主体の根本的な転換が起こっている。この菩提心としての自己が主体となって行じられるのが仏道であり、菩提心としての自己が坐るとき、「坐禅が坐禅する」つまり只管に打坐することになる。

 ここで気をつけなければならないのは、道元禅師は「吾我を忘れる」もしくは「吾我を離れる」という表現をしており、決して自我意識を消せとは言っていないことである。仏教を学ぶと、どうしても自我意識が悪い、だから自我意識を消さなければならないと思いがちだが、生きているかぎり自我意識を消すことなどできない。自我意識も社会で生きていく上で大切な機能である。ただ自我意識と同化してしまうあまり、本来備わっている菩提心が現れず、本来の自己を見失っていることが問題なのである。だから、本来の自己に気づくために、まずは自我意識を忘れる、もしくは離れなければならない。
 では一度忘れればそれで終わりなのかというと、そうではなく、むしろそこからが本当の修行の始まりである。それは本来の自己である菩提心をより親しい存在にしていくこと、つまり本来の自己に立ち返っていくことである。だから修行は坐って行うだけではなく、いわゆる行住坐臥、日常のすべてが修行となる。修行とはすなわち本来の自己として生きることをどこまでも深めていくことである。

 自我意識を忘れれば、それだけ菩提心はより親しい存在となり、菩提心が親しい存在になればなるほど(つまり本来の自己に近づけば近づくほど)、世界(=万法)も親しい存在となっていく。なぜならば、自己と世界(=万法)は本来ひとつの存在だからである。自我意識が自己と世界の間に境界(=分離の感覚)をつくりだし、その自我を本来の自己だと思い込むことで、二元対立的な凡夫の世界をまるで現実であるかのように錯覚していたのである。

 「私」という自我意識がないままに無常を観ずるもの、それが菩提心としての自己(私)であるが、無常を観ずることができるということは、それ自体は無常ではないということである(なぜなら無常であるものは無常を観ずることはできないからである)。つまり、菩提心とは不生不滅の「空」である。だから本来の自己(私)は死ぬこともないし、生まれることもない(無常ではないからである)。
 その不生不滅の「空」である自己(私)の上に、時間という生滅があり、身心という現象があり、世界という現象があり、「私」という自我意識(という現象)もある。それら(時間、身心、世界、「私」という自我意識)はすべて無常であるので、自己(私)ではない。
 空なる菩提心が真の主体(私)であるということは、観るもの(空なる私)と観られるもの(世界=万法)とは一体だということを意味する。一体だということは「観るもの」(=主体)と「観られるもの」(=客体)の区別が本来ないということである。
 よって「無常を観ずる」の「観」とは、つまるところ、観るものも観られるものもなく、ただ無常が無常としてある、ということになる。つまり「即」である。
 無常即菩提。それが菩提心としての自己が無常を観ずる心であるということの本当の意味である。
 
 



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