第692回「心を師とせざれ」

「心の師となるとも心を師とせざれ」という言葉が『涅槃経』にあります。

自らの心を仏の教えに従って制御し律すべきであって、心のままに振り回されてはならないということを表わしています。

心は制御すべきものだと、もともとお釈迦さまは説かれていました。

『法句経』には、

三十三番に

「心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。

英知ある人はこれを直くする。

弓師が矢の弦を直くするように。」

とあります。

また三十四番には

「水の中の住処から引き出されて陸「おか」の上に投げ捨てられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。」

三十五番に

「心は、捉え難く、軽々(かろがろ)とざわめき、欲するがままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。
心をおさめたならば、安楽をもたらす。」

三十六番に

「心は極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は守れかし。
心を守ったならば、安楽をもたらす。」

とある通りなのです。

心というものは、制御すべきものであり、決してよいものと説かれていたわけではありません。

それが禅の教えになると、その心が仏であると説いたので、初めて説かれた頃には驚きであったろうと察します。

そこで、反発も多かったのでした。

『涅槃経』には「一切衆生悉く仏性有り」という言葉があります。

この「仏性」というのは、もともとは「仏となる因」であり、仏となる可能性であります。

すべての生き物は仏となる可能性を持つというのがもともとの意味でありました。

それが後に「如来蔵」という表現がなされるように、「如来を内に宿すもの」と解釈されるようになってゆきました。

『大乗起信論』においては、自性清浄なる真如の側面と、外から来る煩悩に染汚された側面との二つの側面から捉えるようになったのでした。

本来清らかな心が、煩悩によって覆われているという教えであります。

そこで信を起こして真如に目覚める道筋を示して「本覚」「始覚」という言葉が使われるようになったのでした。

本覚というのは、本来は仏であるということです。

それが現実には煩悩によって染汚されて、今は不覚の状態にあるというのであります。

その不覚の状態の中から覚の活動が自覚さ、そこに菩提心が生じてきます。

このはたらきが「始覚」であります。

もともとの仏教では、諸法無我でありますから、「仏性」なるものは説かれてはいませんでした。

我なるものは存在しないと説いていました

見たり聞いたり感じたりすることをもとにして、ありもしない自我を想定し作り出しているのだというのです。

そこから更に見たり聞いたり感じたりする心の奥深くに、変わることのない仏心があると説くようになってゆきました。

『華厳経』では、三界は唯心のみだと説いたのでした。

この心というのは、大宇宙に遍満している心であり、それが箇々の人やものすべてに内在しているというのであります。

仏身はこの世界に充満していると説いたのでした。

道元禅師は涅槃経の「一切衆生悉有仏性」を「一切の衆生は悉く仏性を有す」と読まずに、「悉有は仏性なり」と読まれました。

宇宙に遍在するありとあらゆるものが仏性だというのです。

お互いはその中の一部に過ぎないというのです。

その一部にもまた仏性はあるのです。

法燈国師は、大空と雲で喩えています。

仏心は晴れわたった大空のようなものです。

そこに雲が浮かんでいるのが、様々な感情や煩悩などであります。

この様々な感情や煩悩を主だと思ったら間違いであります。

そのもとには広い大空が広がっているのであります。

本体は大空なのだと気がつくことが大事なのです。

その大空に喩えた本体が仏心なのであります。

そうしますと、浮かんだ雲も全部ひっくるめて仏心だと説いたのが馬祖禅師の教えになってくるのであります。

まずは、浮かんでいる雲に振り回されないように、そのもとにある大空に気がつくことが大事なのです。

そこで東嶺和尚は、『入道要訣』の中で、心を外に向けて外のものを追いかけるのが迷いであり、心を内に向けて本体に気がつくのが悟りだと説かれました。

私たちは、外の世界に振り回されているのであります。

外の世界を見ると、得た、失った、損した得したということで迷い苦しみます。

その欲望を充足させることが問題の解決ではありません。

その見たり聞いたり感じたりしている主は何かと求めよと説かれました。

物を見た時には見ている者は何者か、聞く時には聞いている者は何者かと追及してゆくのであります。

そのように心の向きを百八十度転換させるのです。

転換させればまず少なくとも外の世界に振り回されることが無くなります。

東嶺和尚は、この心の向きを変えるだけでも修行の道の半ばを達成したようなものだと説かれています。

そうして工夫してゆけば、浮かんでいる雲のもとに広い空のあることに気がつくのです。

そうすれば、少々の雲が浮かんでもみな大自然の景色だとみることができます。

雲の浮かんで消えるという姿に一喜一憂することがなくなるのです。

単に心を師とすると、様々な感情に振り回されてしまいます。

そうではなく、その心のおおもとに向かって参究することを説いたのが禅の教えであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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