五月の5日間(day2)
# day2(Helsinki)
アルヴァ・アアルトは十九世紀の終わりにフィンランドの地に生まれ、七十八年の生涯でパイミオのサナトリウムをはじめとする数多くの建築物や、家具、さらに照明やテキスタイル、ガラス製品までをも手掛けた。
彼は控えめながらこう言う。「建築の目的は物質の世界を人間の生活と調和させることである」と。彼の作品からは、自然に対する敬意と心遣いが垣間見える。それはつまり、フィンランドの厳しい自然環境に抗い、反旗を翻すのではなく、それを受け入れ、分かち合おうとする姿勢だ。
アアルトはフィンランド語で「波」を意味する。
私たちは彼の曲げ木を施したスツールに腰を下ろし、足元の地図を眺めている。北には広大な森が広がり、南の海に面したところに都市がある。そして、その間には無数の湖が零れ落ちたインクのように点在している。
極東から一機の飛行機が、ユーラシア大陸を渡りやって来る。特急列車が街へと南下していく。彼らが描く有機的なカーブは、私たちにアアルトのサヴォイベースを想起させる。部屋のチェストの上に置かれた透明なサヴォイベース。その縁に沿って彼らは動いている。意志を持ち、活けられた一輪の花を見つめながら。でも触れることはできない。花は枯れ、花弁が一つまた一つと散っていく。
それでも救いがあるとしたら……それは影の中だ。サヴォイベースの底にできた斑紋。ゆらゆらと揺れる波のような影が、この世界にまだ光があることを物語っている。
さあ、もう少し視点を近づけてみよう。どんな世界にも光と影がある。そして、それを認識するわたしがいる。アアルトも言っているじゃないか。「真の建築は、小さな人間が中心に立った所にだけ存在する」と。
☆
建築を学んでいるという二人の女学生に出会ったのは、アアルトの自邸の前だった。
「同じトラムだった?」
中央駅から四番トラムに乗って二十分。このあたりまで来ると、市街地では目にした日本人観光客もほとんど見かけなくなる。
「いや、少し早く着いて近くを散歩していたんだ」
十名ほどのガイドツアー客はほとんどが西洋人で、日本人は僕らだけだった。
「何か面白いものはありましたか?」
受付の予約帳に名前を書き込みながら、もう一人の女学生がペンを走らせている。
「綺麗な湖畔があったよ。木陰に鶯色のベンチが並んでいて、水平線を望みながら、ホテルのベーカリーで買ったドーナツを食べた」
「楽しそうですね」
「気持ちが良くて、ここに来るのを忘れそうになったよ」
二人は日本の大学の同級で、今はそれぞれパリとアムステルダムの大学院で専門的な勉強をしているそうだ。
「フィンは初めて?」
女学生Aはツイッギーのような女の子だった。金髪のショートヘアーにどこか気怠そうな瞳。細い体には白と黒の縞模様のシャツを羽織らせ、水色のジーンズは膝下が破れている。
「うん」
「わたし達もなんですよ」
女学生Bはパリから来たという。ディズニーの白雪姫のような黒髪をはためかせ、愛想の良い笑みを浮かべた。その身なりも愛想の良いもので、紺地に白いドット柄のワンピースを着て、足元には白い斑点がプリントされたコンバースのハイカットスニーカーを合わせていた。
「アアルトが好きなんですか?」
「ああ。なんというか落ち着くんだ」
「どんなところが?」
「多くを求めなくても許されそうなところが」
「私たちもアアルト・マニアなんですよ」
それからすぐガイドツアーは始まった。
ぽっちゃりとした人の良さそうなマダムによるガイドは、ユーモアと機知に富んでいて、訪れたアアルト・マニア達を楽しませた。椅子とピアノの置かれたリビングルーム、ガラス食器の並ぶダイニング。二階に上がり、寝室、客室、衣装室と回る。
「楽しんでますか?」
自由時間になり、ひとり食器棚に並べられたフラワーベースを眺めていると、女学生Bが顔を覗きこむように話しかけてきた。
「うん、とても楽しいよ。あれ、もう一人の彼女は?」
「あそこです」
彼女の指差す先で、女学生Aはパタゴニアの黒いリュックサックからスケッチブックを取り出すと、何やら無心で鉛筆を走らせ始めた。
「熱心だね」
「一生懸命なんですよ、あの子。ねえ、これからアアルトの作品を巡るんですけど、良かったら一緒にどうです?」
「面白そうだけど、構わないの?」
「もちろんです。それじゃあ決まりですね」
自由時間が終わると、僕らは歩いて十分ほどの場所にあるアアルトのスタジオも見学した。そして、トラムで市街地に戻るとブックストアーや大学、コンサートホールなど、アアルトの足跡を辿りながらヘルシンキの街を巡った。
「そのデザインの有機性にも関わらず、構造の欠陥が存在しないこと」女学生Aはそんな風にアアルトを評した。彼女のスケッチブックは随分と頁を進め、左手の小指の付け根には鉛筆の跡ができていた。
「彼を動かしていたものは採光について、その一点のみだった。結果的にそれが最善の方法となったのだ」こちらは女学生Bの評だ。
歩きながら僕らは沢山のことを話した。建築を学んでいるだけあって彼女達のアアルトに関する知識は深く専門的で、一人で回るよりも楽しく過ごせた。
ヘルシンキの空は高く、目の覚めるような青のキャンパスには、印象画の筆致のような雲が漂っていた。
☆
「とても長い間、たくさんの夢を見る。そして目覚めたら、そこにはもう春があるのよ」
果てしなく続くフィンランドの冬について、彼女はそう語った。
彼女とはヘルシンキ行きの飛行機の中で出会った。
隣の席の彼女が偶然、僕と同じ小説を読んでいたのだ。ビートルズの楽曲をタイトルに冠した本だった。そして、冬の窓が開く。
「どんな夢を見るの?」
そう聞くと、彼女は目を閉じて言った。
「本当に長い夢よ、生まれてから死んでいくまでのなんてことのない瞬間がいくつもいくつも流れていくの。目が覚めて、歯を磨いて、パンを焼いて、バターを塗って、ある日はスクランブルエッグを作ったり、毛糸の編み物をしたり、花瓶にお花を飾ったり、チェスをしたり、大切な人を失ったり……そんな感じ」
彼女の夢は僕らのそれと同じようでいて、何かが決定的に違うようでもあった。
「あなたは?」
「僕の夢は現実的でつまらない」
「どんな感じ?」
「君の夢をテレビ画面の中で見ているようなもの」
それから僕たちはビートルズの話をした。
僕は「ブラックバード」がお気に入りで、彼女は「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」について熱を込め話した。
☆
「お寿司とウイスキーって合うのかしら?」
女学生Aは相変わらず気怠そうな表情でアイラを煽った。イッタラのショットグラスから漂うスモーキーな香りがヘルシンキの海風に攫われる。その日の終わり、僕らはエスプラナーディ公園のオープンテラスにいた。
「案外、悪くないよ」
そう言いながら、僕は聞いたことのない銘柄のフィニッシュ・ウイスキーを口にした。まろやかな甘みが喉を落ちていく。
寿司は日本のそれとは違い、ロール状のものだったが、脂の乗ったサーモンがたっぷりと盛り付けられていて、これはこれで悪くないと思った。
「お兄さんはどうしてフィンランドへ?」
ジン・トニックを片手に女学生Bが尋ねた。
「寒い国に行ってみたかったんだ」
「それなら、ロシアでもアイスランドでもよかったんじゃない?」
女学生Aが口を挟む。
「フィンランドが一番簡単だった」
「お仕事は?」
「休みだよ」
「何をされているんです?」
「カメラマンをしている」
「へえ、建築写真ですか?」
「いや、建築は趣味さ。仕事とは別だよ」
「どんな写真を撮るんです?」
「製品の写真だよ。カタログとかそういうものに使うんだ」
「ふうん」
実際、僕の写真はカタログの多くの頁を飾っていた。それはカタログを作る会社のためのカタログだった。「こんな塩梅で、こんな紙質で、こんな写真が入ります……」そんな話をするためのカタログ。
「君たちは……その、日本には帰らないの?」
「私は来年の夏に帰る予定です。この子はもう少しいるのかな?」
「そうねえ。まだ見たい建物もあるし、もう少し……飽きるまではいようと思う。だって日本に帰ったら、組み込まれてしまうでしょう?」
「何に?」
「うーん、なんというか、システムみたいなものに」
「システムか……」
それは長い間、油の差されていない機械のようにゴロゴロと不恰好で錆びた響きを残した。
「そういえば、君たちがいない間に日本は新しい時代に入ったんだよ」
「そうみたいですね」
「インターネットで見たわ」
「浦島太郎みたいじゃないかい? 帰って来たら時代が変わってましたって」
「そうですかね?」
「そんなことないと思うけど」
☆
「さっき話したお店よ」
飛行機が着陸すると、彼女はお勧めの酒場とトナカイの料理を出す店を書いたメモを渡してくれた。
「ありがとう」
「いいえ、フィンを楽しんでね。それから……」
逡巡するように彼女は目を伏せた。
「それから?」
「もし良かったら……交換しない?」
「交換?」
「あなたの本と、私の本」
彼女は鞄から小説を取りすと、膝の上に乗せた。
「ああ、本ね」
僕の方も小説を取り出す。
そこには同じカバーの本が二冊並んだ。同じ登場人物が、同じように物語を旅する、同じ本。それを綴る言語の違いこそあれ、二冊は同じ本だ。だが、果たして本当にそうだろうか? その意味することに、その手触りに、本当に違いはないのだろうか?
「君の本の方がなんだか綺麗に見えるけど、本当にいいのかな?」
僕の本は使い古された台帳のようで、彼女の本は大切なアルバムのように見えた。
「ええ、あなたが気にならなければ」
彼女は本を受け取ると、丁寧に鞄にしまった。
少し神経質そうな表情も、Kiitos(キートス)とはにかんだ時には少女のような無邪気さを取り戻した。
☆
「あの子のことどう思う?」
女学生Aが尋ねてきたのは、女学生Bがトイレに立っている時だった。
「どうって?」
「印象よ」
「悪くないよ。もちろん君もね」
「ふうん……あの子ね、ああ見えて結構男癖がすごいのよ」
「男癖?」
「私なんて何度もやられたんだから。日本の学校に通っていた時も男を盗られたし、教授に取り入って、パリの学校への推薦だって奪われた。あの子は私がパリに行きたがっていることも知っていたのに。酷いと思わない?」
「うーん」
俄かには信じがたい話だった。
「何か釦の掛け違えみたいなことがあるんじゃないかな?」
「私が行くはずだった学校に通って、私が住むはずだった学生寮に住んで、私が入るはずだったバスルームで男とシャワーを浴びてるの。そして、頭の中ではどっか別の男のことを考えているんだわ。もう、最低」
女学生Aは吐き出すように言った。
「それなら、君はどうして彼女と一緒にフィンランドまで来ているの?」
「あの子の満たされない表情が好きなの。あの子といると、自分の方が満たされているって思えるの。どんなことでも幸せって思えることが大事なんじゃないかって。実際、どれだけ奪っても、あの子物足りないのよ。自分でもきっと分からないんだと思う。刹那的というか、いつも幸せそうにしてるけど、結局幸せになれた試しがないのよ。すべての川が海に辿り着くように、あの子のしてることも道順が違うだけで、行き着くところはいつも同じなのね」
人混みの中、女学生Bがこちらに歩いてくるのが見える。
「私も嫌な奴ね。人の不幸が好きなの。蜜の味ってね」
彼女の姿に気が付くと、女学生Aはそう囁き、アイラを煽った。それからすぐ、テーブルに振動音が響く。「ルームメイトから電話だわ」そう言って、今度は彼女が席を外した。
☆
「あの子とどんな話をしていたんです?」
「他愛もないことさ」
「気になるなあ」
彼女は首を傾け、甘えたような声を出した。
僕らの間に沈黙が迷い込む。
「私ね、人のものを見てるとたまらなく欲しくなるの」
「え?」
「だから、教えて」
彼女の声は艶めきながら、同時に炭酸の泡のような切迫感を纏い出した。
「どうすれば幸せになれるのかとか、そんな話。きっと酒に酔っているんだよ」
「面白そう。なんて答えたんですか?」
「多くを求めないこと。『ワン・チェア・イズ・イナフ』ってアアルトも言っている」
「ふうん……私はそれじゃあ幸せになれないわ」
「そういう場合もあるかもね」
「今まで沢山奪ってきたの。誰かのものを。でもね、傷つけたかったわけじゃないのよ。物欲が強いわけでも、何かを誇示したいわけでもない」
「それじゃあ、肉体的な何かなのかな?」
「うーん。それも一つの要素ではあるんでしょうけど、決定的な要因ではないわ。セックスに依存しているわけでもないし。だいたい、そんなことならもっと良い解決の仕方があるでしょう?」
「じゃあなぜ?」
「小さい頃から本を読むのが好きだったんです。昔はもっと地味な女の子だったから、図書館に通ってずっと本を読んでいた。たくさんの物語を集めて、それを食べるのが好きだったの。だけどね、ある時知ってしまったのよ。誰かと身体を重ねる方が本よりも刺激的だし、もっといろんなことが分かるって。誰かのものって不思議な味がするのよ。自分の世界を生きながら、別の視点からも世界を生きられる。それが近ければ近いほど、本には書かれないような瑣末なことまで全部食べられる。だから奪ったの、奪わないと意味がなかった。そうじゃないと味がしないでしょう? 人も物も。実際、本当に欲しいものなんてないの。お金も服も宝飾品も興味ないわ。味がしないから。だけど物語だけは別」
彼女は雄弁にそう語った。
「最低でしょ? でもいいの。ちょっと手の込んだ暇つぶしなんだから。時代が終わろうが始まろうが、私はまだあと五十年くらいは生きないといけないんだもの。今のうちにそれくらいの蓄えをしておかないといけないでしょう?」
黒目がちな瞳が僕を捕らえる。その背後にいる私たちをも。
「誰かに迷惑かけたことってあります?」
そう言って髪をかきあげると、耳元にロイヤルブルーの花のピアスが覗いた。
「あるよ」
「どれくらいですか?」
「覚えていられないくらい、たくさん」
夜の方角から女学生Bが戻ってくるのが見えた。ようやく陽が沈んだ五月のヘルシンキ。
「ねえ……教えて」
彼女の甘い声が宵闇に木霊する。
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君は友の、澄み切った空気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。みずからを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができる者は少なくない