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小さきものへの記憶

『モラルの話 』J.M. クッツェー (著), くぼた のぞみ (翻訳)(単行本 – 2018)

欲望すること。歳をとること。人間であること。

円熟期にある作家が、今どうしても伝えたいこと。

「人間のモラル」の底を描く、余韻に富んだ最新作。

ノーベル賞作家が、これまで自明とされてきた近代的な価値観の根底を問い、時にシニカルな、時にコミカルな筆致で開く新境地。英語オリジナル版に先駆け贈る、極上の7つの物語。

『エリザベス・コステロ』という前書を読んでいなかった。その架空の作家の老後問題と息子の対話。息子はクッツェー自身だろう。神学的な存在論という哲学的問いを含む人間と動物の「モラルの話」。老人介護問題とシステムと食肉処理場を連結させた文学器械というべきか。


『犬』

「犬のようだ!」と、Kは言った。恥辱だけが生きのびるような気がした。

カフカ『審判』

クッツェーの長編『恥辱』に番犬の話が出てきた。昔読んだので、かなり忘れていたのだが、カフカを元に書かれていた。ここでは犬は、弱いもの女性性に対して猛犬の振る舞いをする。そこを通りがかる彼女に檻を壊して襲わんばかりに。家の中にいる取り残された二人の老夫婦。彼らの番犬であること止めない。ネット社会で煽るネトウヨを連想せずにはいられない。アウグスティヌスの言葉が印象的。

「アウグスティヌスは、われわれが堕落した生き物であるもっとも明らかな証拠は、みずからの身体の運動を制御できない事実にあると言う。とりわけ男は自分の一物の動きを制御する能力がない。一物はまるでそれ自身の意志に憑依されたように動く。あるいは遊離した意志に憑依されたように動くのかもしれない」

『犬』J.M. クッツェー

『物語』

「不倫物語」だった。昔、芸能人の石田純一が「不倫は文学」発言をして、それがえらく気に入ってしまっている。確かに不倫文学は多い。それがどれも傑作だった。「恋に落ちる」や「恋に盲目」とあるように、制御できない欲望なのだ。その欲望を煽っているのは欲望の資本主義社会だと思う。社会主義でもそうか?ただ姦淫罪がある時代だったらそこまでして不倫は出来ないだろう。

法という社会的通念がある。個人という自由意志もある。その間でもがくから文学なのだ。文学は万人の処方箋ではない。当然、その報いを覚悟してのものだ。映画『トロイ』でホメロス『イリアス』で一つの不倫が国を滅ぼすこともあるというのを読んできたではないか。それでも村上春樹まで不倫を止めない。

この『物語』では、妻の余暇の時間に相手の男の部屋に行って不倫する。相手は独身なのかな。夫とはタイプが違う性的な男。情事と言ってもいいという。妻に戻ったときは夫を忘れない。家には男を入れない。そのぐらい区別しているのだという。それが半年か3年かその間を情事と言って誰かに話すかもしれないと。

先行する文学はロベルト・ムジール『特性のない男』。この本は手に入りにくいので未読だった。ただ古井由吉がムジールの翻訳を岩波文庫で出している。古井由吉もムジール好きで解説本を書いていたりして、それも結構好きだったり。愛の話だから。

ムジールは夫がありながら規範(法)に背く女の話。しかしそのモラル(道徳)を彼女は愛の名のもとに救い出そうとする。しかしこの『物語』の語り手(彼女)は、街中を歩くのと変わらずそこには規範などないという。結婚していることよりも彼女自身なのだ。ショッピングしたり映画を見に行く自由と変わらない。家にいるときだけ妻でありうる。結婚生活はその場所だけのもので、ほんの1、2時間結婚した女を止めて自分自身になるだけだという。納得できないと思うのは相手は、そうは思わないかもしれない。家に上がり込んで来るということもありうる。

個人と社会の間で揺れるのが人間だ。そういう相手を選んでしまった者は仕方がないのだ。相手は石田純一のモテ男だ。その逆の物語なのか?

『虚栄』

65歳の母の誕生日。母は髪を染めメイクをして派手な洋服を着ている。孫たちはそんな母に挨拶のキスをしようとしない。妻は老いの我儘だと一般論を言う。息子は母がもう一度注目を浴びたいのだ、それは母に取って突拍子もない冒険でもなく理知的に願った姿であると理解を示す。自分をコントロール出来ていないと妻が再度言う。老人ならば老人らしくするべき。そのほうが家族内は落ち着く。それはチェーホフの劇のようだと言う。

なんの劇なのか。『かもめ』だろうか。母であるベテラン女優がひよっこ女優を蹴落とす話だった。彼女は十分に魅力があり、ただ愛人はひよっこ女優に奪われた。

「彼女のふるまいはチェーホフの作品に出てくる誰かのみたいに。若かった頃の自分を取り戻そうと傷つく。屈辱を受ける」

J.M. クッツェー『虚栄』

屈辱を受けるように思えない。違う戯曲だろう。髪を染めるのでなしにかつらを取るという仕草の戯曲が気になる。戯曲ではなく作品と言っていた。でも『桜の園』みたいだ。未読だった。

『ひとりの女が歳をとると』

「良きにつけ悪しきにつけ、全員がこうして、ともに人生という水漏れの激しい船に乗って、冷淡な闇の海を、救いとなる幻想もなく漂っているのだ」

コンラッド『闇の奥』

年寄りの話ばかりなのだが、共感は多い。

「良い死というのは、それが遠くで起きることよ。そこで死にともなう残留物が見知らぬ者によって、死をビジネスとする者によっておこなわれる」

クッツェー『ひとりの女が歳をとると』

これは子供が親と同居を薦めるのを拒否する言葉なのだが。老いていくのをお荷物となって余生を過ごしたくないという母の言葉。幸福な看取られ死は、幻想だな。

『老女と猫たち』

野良猫に餌を上げる母。浮浪者も抱え込んで、息子は母のこの先ことで話をする必要がある。世間のモラルと母のモラルの対立。母は下水溝で子供を産む母猫の面倒を見てから猫たちに餌をあげるようになった。母猫が子供を守ろうと母に威嚇する姿を見て、同類憐れんだのだ。母親としてのモラルに共感したのだと。

表情ということ。人間には表情があるが動物にはない。顔の筋肉を動かして訴えかけることをしない。威嚇する唸り声が、母親の共感を呼んだのだと。多数を産み出す母親側につくことにしたのだ。整理する人間の側にはつきたくないと。

浮浪者パブロの同居について。風呂も入らず歯も磨かない。ただ雑誌を切り取るのが彼の役目。そのほかは人と接するのをよしとしない。彼が切り取るのはローマ法王。その姿だけが母に共感を与えるのか。

「世話をするか………気をつけてジョン。あの集団の中では、世話をするというのは処理するを意味し、安楽死させるを意味し、慈悲深い死を遂げさせることを意味するんだから」

クッツェー『老女と猫たち』

『嘘』

短編連作なのか?前回の続き。母は倒れ病院で治療。帰ってきたがベッドから動けない。息子と「この先のこと」についての対話。施設に入るかどうか?パブロがいるという。だが今回のことは、そのパブロが役立たずだった。母は、「本当の真実」を言えと迫る。

「本当の真実」とは?彼はそれを妻に手紙で書くが母には言えなかった。

「本当の真実は、あなたは死にかけているということです。

母に対しては言えなかったが、妻には「嘘をつかない」と誓っておこうという。

良くなることはない、もっと悪くなる、そしてどんどん悪くなりつづけて、もうこれ以上悪くなりようがないところまで、これが最悪というところまでいくんだって?

クッツェー『嘘』

『ガラス張りの食肉処理場』

老いた母が手記や雑誌などの記事の集積を息子に送ってきた。「ガラス張りの食肉処理場」とは屠殺場をガラス越しに見せるシステム。なにゆえそんなことを望むのか?母に対しての息子の疑問。「不快で厄介なもの」。

アフリカ・ジブチでの生贄の山羊体験記。その山羊を記憶するということ。何故殺すのか?と問うことは、神経質な寓問。心優しい寓話の世界の話なのか?

ハイデガーとアーレントの情事の話。知覚の刺激反応だけの動物は、人間とは違い貧しい経験世界だという。人間には意志を持ち行動できる世界がある。そういう実在論を語りながら、ベッドでアーレントと情事を重ねるハイデガー。お前、絶頂しているときは刺激に対する欲望じゃないのかよ、みたいな。動物と人間の境目。ハイデガーはナチ協力者としての哲学との対峙。

デカルトの生きた兎による実験とウィリアム・ブレイクの「無垢なる卜占官」の詩。

狩られる兎が絶叫するたびに
脳から一本の糸が引きちぎられる

蛾も蝶も殺してはならぬ
最後の審判が近づいているゆえに。

動物に心があるだろうか?

あなたは、わたしには心があるかどうか、それともわたしは生物学的機械、つまり血と肉でできた機械にすぎないのか、それを知ろうと決意する。

審判の形式はあなたによって規定されている。それは合理性、懐疑論、仮説検証などによって特徴づけられる科学的審判になるだろう。
わたしは問う------この生きるか死ぬかの重大問題で、これほどわたしに不利なものを積みあげておきながら、わたしには心があるとあなたに納得させるどんな希望がもてるというのか?

鶏の孵化工場でのベルトコンベアに載せられ雌雄仕分けられるひよこの運命。雄ひよこは未来に立ち向かうが数秒後にはミンチにされる運命。その小さきものを記憶しておきたい。この世界に存在した、ひよこの記憶として。

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