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シン・短歌レッスン

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#塚本邦雄

シン・短歌レッス131

シン・短歌レッス131

王朝百首

後京極摂政藤原良経は『新古今集』の中心的な歌人。春歌の最初と最後を採用され(もっとも選者だった)、『新古今集』の序を書いているという。掲載歌も西行、慈円(叔父さん)に次いでベスト3。九条家は藤原定家と対立した歌所だった。後鳥羽院にも愛され塚本邦雄も敬愛する歌人。

志賀(大津)は古都としての花の名所だったらしい。かつての栄光を懐かしむ歌か?良経自身も三十二歳の若さで暗殺されたという夭折

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シン・短歌レッス127

シン・短歌レッス127

 珠玉百歌仙

塚本邦雄『王朝百首』は予約されていたので、とりあえず返却して代わりになる本を探したところ『珠玉百歌仙』はその続編のようなアンソロジーだと本人が書いている。

この百歌仙は和歌の韻文に重きを置いたとある。塚本邦雄は藤原定家『百人一首』の批判から『王朝百首』を編纂し、さらにそれ以後もそうしたアンソロジーが並んでいく。

それは定家『百人一首』の形を借りた本歌取りではないかと思うのである

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シン・短歌レッス125

シン・短歌レッス125

 王朝百首

「やなぎさくら」は柳とさくらなのか?枝垂れ桜を「やなぎさくら」と称しているのか、よくわからないが、塚本邦雄は詩でやなぎとさくらをそれぞれ別の色に喩えているから柳と桜なのだろう。素性法師という風狂な人だから桜より柳が最初なのかとも思う。どちらも街路樹としてよりもやはり庭木なんだろうな。広大な宮廷の庭がにしきなりけるというような。

齋藤史

梯久美子『この父ありて』から。

史が198

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シン・短歌レッス122

シン・短歌レッス122

王朝百首

紀貫之の歌は情緒よりも理知的な部分があるという。それがあえて「水無き空に」とことわる部分であろうか?「なごり」は「名残」より「余波(なごり)」であるという。「天のさざ波」が「あった花」ではなく「失われた花」の幻想という部分は塚本邦雄らしい解釈か?つまり華やか日々を回想しているという情況なのだ。それが理知なる言葉で歌を構築していく紀貫之の言葉。

西行

辻邦生『西行花伝』
「五の帖」、

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シン・短歌レッス115

シン・短歌レッス115

王朝百首

塚本邦雄『王朝百首』から。藤原実定

桜の儚さを詠んだ名歌とされる。二句切れは『新古今』時代の特徴。「はかなさをほかにもいはじさくらばなさきて」のH音とS音が「はかなさ」を醸し出しているとする。

西行

目崎徳衛『西行』から「佐藤義清 の公私の生活」。西行は北面の武士として鳥羽法皇に使えていたのだが、それは文武に優れて美貌でなければ鳥羽法皇の閨などに入れないのである。そういう若人だ

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シン・短歌レッス114

シン・短歌レッス114

王朝百首

塚本邦雄『王朝百首』から。

菅原孝標女なんか面倒くさい名前だが、名前を知らないから女(むすめ)と呼んでいるだけだった。

『更級日記』の作者だった。『更級日記』は『源氏物語』オタクの日記ではなかったか。

この歌も『源氏物語』「朧月」をイメージしており、また季節比べで春と秋どちらがいいかという問いにもなっているという。それは『源氏物語』から培われてきて後鳥羽上皇の春恋の歌をつなぐ位置

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シン・短歌レッス113

シン・短歌レッス113

見戀(みるこひ)

塚本邦雄『戀』から「見戀(みるこひ)」。

良経は平安末期の九条兼実の次男で当時の権力の中心にいた若き歌人。

「見恋」は「人を三(見)島江の」でさり気なく掛詞だという。黄昏は「誰そ彼」。初句切れも柔らかな感じであり、たゆたふような「葦の迷ひ」で受ける。「ほのぼの人」は薄明の人影。水墨画のような心象風景だという。良経は『新古今集』の中でも式子内親王と共に和歌の頂点に立つ人だとい

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シン・短歌レッス112

シン・短歌レッス112

王朝百首

塚本邦雄『王朝百首』から。

塚本邦雄は後鳥羽院が好きだよな。この辺がよくわからないし、この歌の良さもわからない。『枕草子』の「秋は夕ぐれ」という当時の常識に反問している歌だという。「山もと霞む」だから春の景色なのだろう。画像間違えたな。春の桜の山とか選ぶべきだった。

でも夕べだからな。山よりも夕陽だろう。夕陽が美しいのは秋ということなのかな。「なに思ひけむ」と清少納言が思ったのだか

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シン・短歌レッス111

シン・短歌レッス111

王朝百首

「若草の宮内卿」と言われた歌だそうで、雪斑の中に若草が萌え始めている様がなんとも美しいという。その作成年齢が15・6歳の頃で千五百番歌合で寂蓮の和歌に勝ちを得たということで話題騒然となった少女歌人なのだろうか?その素質は後鳥羽院にその才能を認められ俊成卿娘と切磋琢磨したという。わかりやすいと言えばわかりやすい歌なんだが。

NHK短歌

ぐっとくる瞬間 「日記」。選者岡野大嗣さん。ゲス

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シン・短歌レッス110

シン・短歌レッス110

王朝百首

この辺の良さがよくわからん。詰め込みすぎのような気もするんだが。春と花散るが重なっていたり。俳句じゃないからいいのか?上句は華麗で下句は陰があるからいいのかな。それほど天才の歌とも思えないのだが。「百人一首」にも藤原義孝が載っているがそっちは駄作だという。

直接的過ぎるのか。早逝の歌人だそうだが。

NHK短歌

吉川宏志。会話を入れる。「ごめん」

会話がないな。心の会話ということ

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シン・短歌レッス109

シン・短歌レッス109

王朝百首

今日から塚本邦雄『王朝百首』をやろうかなと。塚本邦雄の仮想敵藤原定家の『百人一首』はそれほどいい句ばかりでないと言うのだった。それは自分には判断出来ないが、塚本邦雄が言うことはけっこう支持されているのだ。良い悪いもある程度自分の主観になるから、その俳句観が分かるというもの。塚本邦雄も言っているのだが和歌の世界には積み重ねられてきた伝統があり、それをまず知っておく必要があるのではないかと

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シン・短歌レッス108

シン・短歌レッス108

西行

「梟」の恐怖についての歌だが、梟は最近ではペットで飼われていたり癒やしの鳥として梟喫茶なるものがある現実との落差。「山深み」という始まりは、西行の歌友寂然とのやり取りで、西行が「山深み」という歌を送ると「大原の里」と返ってくる歌が10首ずつも『山家集』に載っているという。実際にはさらにあったのかもしれない。こういうやり取りはいいなあ。ただ出家したんではないのか?と言いたくなるが。

このへ

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シン・短歌レッス107

シン・短歌レッス107

西行

「あはれあはれ」と嘆きのリフレインから始まり「この世」と「来(こ)む世」、現世と来世に対する嘆きなのだが、現世はあきらめるかのような「あ音」であり来世は「か音」が苦しみを予感させている。

西行は和泉式部の歌を特に好んだという。それは繰り返される音韻の業なのか?

地上の道は永劫回帰のごとく暗い道なのだが、天には月の世界が見えている。それはこの世ではない来世の願いなのだ。西行はその救済は仏

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シン・短歌レッス106

シン・短歌レッス106

西行

今回は西行の月の歌を中心に。

『新古今・釈教歌』。釈教歌は仏教に帰依した心境(良かったこと)を詠ったものだが、西行は出家したので当然多いのかと思う。

しかし、歌を捨てられなかった西行であり山籠りするよりは里との境界でスタイルとして草庵生活にあこがれていたということのようだ。それは山辺という寂寥感のなかで月を眺める心持ちだった。「空なる心」はそんな西行が出家したいと思うこの世の空虚感だっ

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