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シン・短歌レッス127

 珠玉百歌仙


   射ゆ獣(しし)を認(つな)ぐ川辺の若草の若くありきと吾が思はなくに          斉明天皇                                        

塚本邦雄『王朝百首』は予約されていたので、とりあえず返却して代わりになる本を探したところ『珠玉百歌仙』はその続編のようなアンソロジーだと本人が書いている。

この百歌仙は和歌の韻文に重きを置いたとある。塚本邦雄は藤原定家『百人一首』の批判から『王朝百首』を編纂し、さらにそれ以後もそうしたアンソロジーが並んでいく。

それは定家『百人一首』の形を借りた本歌取りではないかと思うのである。一人一首の限定で満遍なく秀歌を見渡すことなど不可能なことなのだ。そこに限定「百首」という選定基準がある。

この手の本は塚本邦雄だけではなく与謝野鉄幹や丸谷才一にもある。つまり、それぞれのオーソリティが選ぶ百首があってもいいのだ。だがしかし塚本邦雄は限定百首では囲いきれないさらに百首があるのだが。

結局のところは藤原定家批判というのは、そうしたオーソリティ(権威)へ対しての挑戦なのだと思う。それは彼が現代短歌を牽引する力にもなっていく。

斉明天皇は女帝で天智、天武の母。中大兄(天智天皇)の子・建王は八歳で亡くなって、祖母である斉明天皇が三首詠んだとされる。

今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ
(いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ)
射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに
(いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに)
飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも)

西行

辻邦生『西行花伝』から。

「十四の帖」
寂然の語り。その前が寂念は兄だった。この兄弟は一つとなって崇徳院を守ろうという勢力で、西行もその一人なのである。『西行花伝』のそのような疑似兄弟的繋がりが重要なのかもしれない。崇徳院を囲ってのファミリーという感じか。

その前ぐらいから大きく物語が動いていく。ここでは崇徳院は配流(皇族は死刑に出来ないので島流しだが讃岐(四国)はかなり重い刑だという)。

西行の歌が桜(宮廷の歌)から月(高野山というような山の歌)へと変化していく。これは「十三の帖」の歌だった。

かかる世に かげも変わらず すむ月を 見るわが身さへ 恨めしきかな

西行が山(大峰山=修験僧の山)ごもりするのだった。

「十五の帖」
引き続き寂然の語り。崇徳院が狂気に陥っていく(天狗になったとか)。これは有名な絵にもなっていた。

崇徳院と西行の歌のやり取り

(崇徳)
みづぐきの 書き流すべき かたぞなき 心のうちは 汲みて知らなん
(西行)
ほど遠み 通ふ心の ゆくばかり なほ書き流せ みづぐきの跡

「みづぐき」は水茎という木で手紙を付けることから手紙の枕言葉になったという。崇徳は心乱れて西行に救いを求めたのだろう。西行は山におり修行中だった。その後に西行の高野山での「山深み」10首があるのだが、それは歌に導いてくれた徳大寺実熊が亡くなったことの歌で、まだ崇徳院は讃岐で生存していたのだが、西行は新院を歌で守るといいながら態度が冷たいような気がする。しかしその山の歌こそ、西行が貴族の宮廷歌から僧侶の山の歌への変化として読めるのかもしれない。山を降りて新院のことを尋ねるが新院はすでに天狗になっていた。それから間もなく新院が自害する。

その前に西行が讃岐へ尋ねたときの新院との歌のやり取りがあった。それが百人一首に入った崇徳院の歌なのだが、史実ではこのとき読まれたのではないという。

(崇徳院)
かかりける 涙にしづむ 身の憂さを 君ならでまた 誰か浮かべん
(西行)
ながれ出づる 涙に今日は 沈むとも 浮かばん末を なほ思はなん

新院は欲を捨てきれなかった。西行は末法を説く僧侶として新院に返しているのだが、それは新院には届かず怨霊となっていく。

「十六の帖」
西行の語りで、ここがクライマックスか?そこで自然と一体化する歌を秋実に語る。月と桜の歌だ。

ゆくへなく 月の心の すみすみて 果てはいかにか ならんとすらん

吉野山 こずゑの花を 見し日より 心に身にも そわずなりにき

そうした自然との一体感が仏性なのだと説く。歌はその手立てであり、そうした生命の源も保存する力なのだという。歌無き宮殿はもはや傀儡師(執権政治か)に操られたものでしかない。歌の世界こそが真実なのだという。これは歌に現を抜かしていたから政治力を失っていったのだと思うが、逆転の発想だよな。歌こそすべてだという歌の政治なのだということか?

新院が自害した後に残された新院の第二子・宮の法印を語る。その印象が『源氏物語』の若紫と重なる。新院の崩御の後出家したのだった。

(宮の法印)
あくがれし 心の道の しるべにて 雲にともなふ 身とぞなりぬる
(西行)
山の端に 月すむまじと 知られにき 心の空に なると見しより

そして宮の法印から、新院が大乗経を血書している知らされ西行は新院が怨霊に乗っ取られたと知る。新院は歌の世界ではなく怨霊の世界にいるのである。そして死後に怨霊の魂を鎮めるために白峰に旅立つのだ。

よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何かかはせん

西行が讃岐院(新院)の墓に捧げた歌。

NHK短歌

“私”に出会おう 題「プラスチック」入門コース「“私”に出会おう」、2年目に突入。選者は川野里子さん。レギュラーの内藤秀一郎さんと深尾あむさんが飛躍を目指して特訓。司会はピン芸人のヒコロヒーさん。

「NHK短歌」第1集は先年度と変化なく、安定の川野里子だった。短歌の基本を学ぶ週だが、やっていることはかなり奥深いように感じる。今週は、固有名詞をいれた短歌。俳句でも詩でも固有名詞を入れたのは多いが短歌ではどうなんだろう。

そんな疑問を抱いていたら面白い本を見つけた。

ナポレオンは三十歳でクーデター ほんのり派手なネクタイでぼくは 辻聡之

誰もが知っている固有名詞を使うことでイメージしやすいのというがポイントの一つ。

鬼くるみ月山(がっさん)の夜を太りきてことりと置けばよき顔をせり 川野里子

地名などはリアリティが出ることもあり、このへんは歌枕として和歌でもよく使われていた。

やっぱ難しいのは人名だろうな。馴染のない人名でもその音韻が良ければ使ってもいいということだった。

<題・テーマ>川野里子さん「橋」、俵万智さん「嫉妬」(テーマ)
~4月22日(月) 午後1時 締め切り~

現代短歌史

篠弘『現代短歌史Ⅱ前衛短歌の時代』から「現代俳句との邂逅」。俳句では見向きもされなくなった新興俳句について、塚本邦雄が短歌にはその時代がなかったと羨望を伝え現代短歌の前衛短歌運動として展開される。もうひとり寺山修司が現代俳句との接点を示し、寺山の「チェーホフ祭」が、中村草田男や西東三鬼からの模倣(本歌取り)であったことが、俳句界での寺山修司の無視と短歌界への影響を考えると興味深い。

上の句はさんざん富沢赤黄男の俳句「一本のマッチをすれば湖は霧」のパクリと批判されたのだが、寺山は短歌に俳句を「本歌取り」にして転用して詠んでいく方法はむしろ方法論的に自覚的に行っているのである。それはすでにある和歌の「本歌取り」という手法を踏まえているのだ。和歌で許されることがどうして短歌で許されないのだ。そのことに意識的であった塚本邦雄も近代詩(象徴詩)と和歌の融合を図っていると思える。

例えば女性俳句などを見ていくと、感情を織り込んだ俳句がけっこう存在するのだが、その第一人者と言えば杉田久女なのではと思うのである。彼女は虚子を尊敬しながらもそれが感情的に抑えられなくて「ホトトギス」を破門させられたような感じを受ける。そして虚子が新たに打ち出した女流俳人としての4Tは、感情(恋愛)よりも日常(台所)を詠むように仕向けたと思われる。主婦俳句の登場だが、そこに自立していく女は必要なかった。三橋鷹女は4Tだけども「ホトトギス」系ではないのである。虚子が求めたのは同じ4Tでも中村汀女であったと思うのだ。

短歌から俳句へ移行していく女性俳人は多い。その逆はあるのだろうか?寺山修司がその逆だったわけだが、彼は俳句から短歌、さらに演劇、TV、映画と表現の場を拡げていった。そこには表現論としての俳句から短歌への方法があったのだ。

まず連歌での575の発句が俳句として成り立っていく過程があった。短歌は長歌に対しての短歌であり、むしろそれは連歌として和する歌から独立していく自己表現であった。そこで創作の視点として第三者の人物を想像する。寺山修司の「ぼく(我)の誕生」である。それは自己を人称に近づけていく浪漫主義的な歌がある。寺山修司の青春短歌はそういうフィクションの世界で、例えば啄木的な世界を模倣していく。さらに実験として俳句の構成を利用する。それは一つの動詞と名詞の組み合わせで出来た世界ということだ。それが自分でできればいいのだが、寺山修司は俳句を本歌取りとして模倣していく。そこに俳句的視覚としての世界が拡がる。映画的映像詩のイメージだ。それが発句の575の部分であって、そこに連句としての七七を和する自己をもってくるとかすれば、短歌が出来上がる。それは俳句の引用はモンタージュとして季語を用いてもいいし、俳句の本歌取りでもいい。まあ、季語を用いるにしても歳時記を見て模倣するように本歌取りをするわけだが。そこに言語というのは他者の言葉であるという了解があるのだ。

齋藤史

『記憶の茂み: 齋藤史歌集 和英対訳』から

第二歌集『暦年』から。『魚歌』の後半のような激しさから幾分月日が過ぎた日々の歌だろうか?

うす月のさしそむる頃は身にふかくひそめし言葉響(な)り出づることし 齋藤史

西行の月の歌と重なるところがあるような。

身の憊(つか)れをわが敗北と思ふなとひそかにいひて立上がるなり 齋藤史

2.26事件から三年が過ぎて、娘の誕生やら夫の出征で、史にのしかかる困難も多かったのだろう。

重症の夫に逢はむとゆく道の草は実となる色の猛(たけ)しさ 齋藤史

はりはりと虹の輪かかり光りたりわがゆく道を暗からしめず 齋藤史

羽破れ舞立ちがたき朝の蛾を掃きて捨てつつ夏も終わりぬ 齋藤史

赤とんぼ墜ちて死に居るこの道の白さはるかに旅までつづく 齋藤史

草木らはおだやかに眠る夜を窓にわれはあかりを燃やさねばならぬ 齋藤史

これは22歳の短歌で『魚歌』には未収録であったのだが、ここに入れてきても違和感がなかった。

『短歌研究 2024年3月号』まとめ

映画短歌

『ゴースト・トロピック』

本歌。今日も齋藤史の短歌。

うす月のさしそむる頃は身にふかくひそめし言葉響(な)り出づることし 齋藤史

終電を乗り越して月影の街 深夜に響く気配は幽霊(わたし)  宿仮

幽霊と書いて「わたし」と読ませる。分身譚。離人症とか。



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