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それは、
ほんのちいさなはなし。

廊下の明かりが台所の磨りガラス越しに洗ったグラスに小さく宿る。
君のいなくなった部屋は昨日より少しだけ整っているようだ。
脱ぎっぱなしだったパジャマはベランダで風を受けてるのが見える。
それでも玄関の床に目覚まし時計が裏返しになって落ちているのを見つけて、
わたしは小さく笑ってしまった。
手に取った時計が示した数字をもう覚えていない。
薄暗い部屋の中。ベランダでパジャマが揺れてる。
窓を開けると湿った風が大きく部屋の中に入り込んで、
スッとわたしの肌を撫でていく。
君の好きなバスタオルも大きく何度も揺れてるから、きっともうすっかりパリパリしてるにちがいない。もう一度吹いた風がさっきまでの日差しと洗剤の匂いと一緒になってわたしを覆ってゆく。
わたしは、その風を大きく息を吸い込んでゆっくり吐くのと同時にその先に揺れる萎れた朝顔とその葉に視線を向けた。

隣の蕾は明日には姿を変える、その準備に忙しいに違いない。

ふと何かを口にしそうになったのを思わず飲み込んだのは、どうしてだろう。
何かの所為にするにはまだ何かが足りない、まだ君の視線を感じずにはいられない。まだあの言葉は、言えそうにない。

心もとないこの身体を確かめるように弾けそうな蕾に触れた。
指先は小さく震えてる。
上手くやり終えた今日が胸を張るようにと言ってはくるけど、膝を抱え座っていると胸が熱くなるのに気づいて、わたしはそれを聞こえなかったことにした。
また風がわたしを撫でていく。
揺れた前髪が視界を遮ってたから君との約束を思い出したよ。
ひとりじゃ上手に切ることができないのに。

小さく深く息を吐いてからそれでもゆっくり立ち上がって、
ゆっくり振り向いた先のグラスがまだ廊下の明かりを宿してる。
取り込んだ洗濯物をベッドに放ってから手際よく畳んでゆく。
風を受けたカーテンがまた大きく揺れた。

一息つく前に済ませておくことを巡らせて、冷蔵庫を開けた。
作り置きしておいたきんぴらが少しだけ減っていたのを見つけて、君が冷蔵庫の明かりの中でタッパを片手に摘んで頬張る姿がはっきりと見えた気がして、
また少し、笑ってしまった。
奥にあった中途半端に残った厚揚げと小松菜を見つけて、マヨネーズと卵を一つ手にとってから扉を閉めた。マヨネーズを油代りに小松菜と厚揚げを軽く炒め合わせ、お醤油を入れたあと最後に溶いた卵を流し入れた。静まる部屋に細かく焼ける音とお醤油の香りが少しだけ賑やかにさせている。

食べてもらう相手のいない料理は寂しいと、思う。
なんとなく想像のつく名も無い料理。
気の利いた盛り付けにはならなかったけど我ながら美味しそうに出来上がったと、思う。
誰に見せるわけでもないそれを、少しだけ自慢げに、さっき目覚まし時計を置いた小さなテーブルに運びいつもの君の定位置に座る。今は換気扇の回る音とお醤油と君の匂いの中に小さく座るわたしはこの空間を、小さく仰いだ。
細く湯気がか弱く立ち上るのを見ていたら、食欲がないことに気づく。
傍らに筆先が出たままのボールペンと目覚まし時計、君の字が残るメモ、そこには卵焼きが食べたい、その後にわたしの名前が書いてあった。

ようやく箸を手に取り、卵が絡まる厚揚げを掬い大きく頬張った。上手に出来たねって君ならきっと言ってくれそうで、もう一度頬張る。飲み込む前にお茶を淹れようとキッチンへ行き、ポットに手をかけ、そして何かを飲み込んだ。
まだ食欲はないんだ。

今満たした物は何だったんだろう。
君の声だけがまだわたしの横を通っていくよ。
それを見た君は、きっと、笑ったに違いない。
そんなわたしを今は、許してほしい。 


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