見出し画像

「不安」と「選択」についてのコラム

(1)はじめに

みなさんは普段の生活で「不安」の感情が芽生えることはありますか?
また、日常生活ではどんな「選択」をしていますか?

この記事では、以下の3点を記していきます。
①キルケゴールの「不安は自由のめまいである」とは何か
②「可能性」が「不安」を生む?
③「何かを選ぶ」とは何か


『「不安」について』などとタイトルを冠してしまうと思い出してしまうのは、デンマークの哲学者「セーレン・キルケゴール」の《不安の概念》です。

・キルケゴール
[1813~1855]デンマークの思想家。ヘーゲル哲学の影響を受けるが、その思弁的合理主義に反対して主観主義の立場をとった。また、人間実存の真理は「あれかこれか」の選択、融和しがたい対立にあると説き、実存哲学の先駆者とされる。

「キルケゴール」コトバンクより引用
https://onl.la/28gFXia

今回は、キルケゴールの言葉を借りながら「不安」の正体を考えていきます。
※本NOTEは3つに分けて執筆する予定です。

(2)「不安は自由のめまいである」

キルケゴールの有名な言葉に「不安は自由のめまいである」という言葉があります。

この言葉の意味を、平たく解説してくれている書籍の文面を引用します。

「自由である」とは、可能性にあふれている、ということだ。可能性にあふれている、と言えば聞こえはいい。しかし、可能性にあふれているとは、不確かで未知である、ということでもある。つまりそれは、保証がない状態だ。そして保証がないときに、不安は湧き上がる。不安はまさに、自由が引き起こした「眩暈」なのだ。

《まいにち哲学(原田まりる)ポプラ社》
251ページより引用

こちらの解説は原田まりるさんの《まいにち哲学》からお借りしました。
原田さんの書籍は分かりやすく、本当には初めて哲学に触れる方や、哲学のエッセンスを感じてみたい方にお勧めです。
私がこのキルケゴールの言葉に初めて触れたのは、原田さんの《ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。》でした。

また、キルケゴールの《不安の概念》より一部文章を引用します。

我々は不安を眩暈にたとえることができるであろう。その人の眼が裂け開いた深淵をのぞきこむようにさそわれた場合、その人は眩暈を覚えることであろう。ところでその原因はどこに存するのであろうか。それはその人の眼のうちに存するとともに深淵のうちに存する。彼がその底を凝視することさえしなかったであろうならば! ちょうどそのように不安は自由の眩暈である。精神が綜合を措定しようとする場合、自由が自己自身の可能性の底をのぞきこみながら同時におのが支えを求めて有限性へと手をさしのべるときに、不安が発生するのである。かかる眩暈の中で自由は地にうち伏す。

《不安の概念(キルケゴール)岩波文庫》
103-104ページより引用

それでは、「不安は自由のめまいである」を私なりに読み解いていきます。
私はこの言葉を「自己とは、可能性を有していて、可能性の広さにより不安の心的状況は生じる。その上で何かを選択することで自由が生まれる」と捉えています。

つまり、人間は
①何かができるという可能性を有していること
②「あれかこれか」と何かを選ぶことができること 
という2つの性質を持っていると考えます。

では、上記の①と②の性質を具体的な例を通じて考えてみます。

例え話として「高校生の進路選択」を挙げてみましょう。

Aさんは高校卒業後の進路について悩んでいました。
Aさんの目の前には2つの道があります。
「就職をするか、大学に入るか」

Aさんは「就職」について思いを馳せると、以下のような言葉が心のうちに浮かびます。
①(18歳で社会に飛び出して、やっていけるのだろうか)
②(自分がやりたい仕事、自分にできる仕事ってなんだろうか)

また、Aさんが「大学進学」について考えました。
頭の中で言葉が巡ります。
①(今の学力で本当に試験に合格できるのだろうか)
②(自分はどの大学、どの学部を目指すのだろうか)

悩むAさん、そんなAさんの悩みには2つの共通点が存在します。
①今の自分の状態で、本当に目指しているものを達成できるのだろうか
②今の自分にとって、取るべき選択は何なのだろうか

つまりは、①可能性の問題と②選択性の問題を抱えていると換言することができます。
①と②の問題を個別に考えていきます。

①今の自分の状態で、本当に目指しているものを達成できるのだろうか

まず、このようなことを考えているときのAさんの心を整理してみます。

私は就職をしたい。
しかし、今の私には社会経験が不足しており、人間としてもまだまだ未熟である。
そのため、このような状態で社会に出てしまうと、仕事をこなせないかもしれないと考えている。

私は大学に入りたい。
しかし、今の私には大学に入るための学力が不足している。
そのため、今のままでは合格することはできない。合格をするためには勉強をする必要があると考えている。

「就職」と「大学進学」の2つにおいて、Aさんは現実と理想との差を感じています。
まだ、Aさんは高校生だから、熟練したサラリーマンのようには働けないし、かといって勉強そのものにも確固たるものを持てていないようです。

では、仮にAさんが「もの凄く、社会経験に富んでおり、職歴もある」としてみましょう。(高校生という前提があると、だいぶ浮世離れしますが)
その場合、Aさんは「18歳で社会に飛び出して、やっていけるのだろうか」ということを考えたり、そのことを不安に思ったりするでしょうか?
恐らくはNOに限りなく近いのではないでしょうか。

また同様に、仮にAさんが「全国模試で満点を取って、偏差値もトップクラスである」としてみましょう。
その場合もAさんは「今の学力で本当に試験に合格できるのだろうか」ということを考えたり、そのことを不安に思ったりすることは、想像しずらいのではないでしょうか。

この仮定からはっきりとしたことは、
「人間は自分ができることには、不安を抱きにくい」ということです。

例えば、自転車に乗りたての頃は、転ぶかもしれないと不安になります。
しかし、慣れてくると、不安な気持ちは薄れていくものではないでしょうか。

では、次に仮にAさんが「現在偏差値が40で東大に現役入学すること考えた」としてみましょう。
もし、彼の担任の先生がAさんに志望校を勧めたとします。
その時に「偏差値が45の地元の大学」を勧めるのと「偏差値が70の東京大学」を勧めるのでは、Aさんの反応も全く異なることは、想像に難くありません。

つまり、Aさんにとって「偏差値が45の地元の大学」は努力が可能で、手に入る範疇に思えるものです。
しかし、「偏差値が70の東京大学」というのはAさんの現状を考えれば、実現は難しく、手に入らないもののように見えます。(もちろん、可能性はゼロではありません)

この時、Aさんにとって「偏差値が45の地元の大学」に入学し、キャンパスライフを送ることは、描きやすい未来のビジョンです。
では、この大学に入るためには、あとどれくらいの勉強量が必要で、どのような方法で行うのか、というのはAさんにとって具体的に考えやすいように思えます。
Aさんはあと1年勉強を頑張れば、目標を達成できるかもしれないと考えました。しかし、それと同時に本当に達成ができるのかと、不安な気持ちも芽生えました。

一方、「偏差値が70の東京大学」の場合はどうでしょうか。
Aさんの高校では履修しきれていない科目の範囲も多くあります。また、中学校からの根本的な基礎力も不足していると、Aさんは感じています。
では、この大学に入るためには、あとどれくらいの勉強量が必要で、どのような方法で行うのか、というのはAさんにとって想像もつかない、途方のない道のりに見えています。
Aさんは、こんなことは私には無理だ、と考えました。

この仮定からはっきりとしたことは、
「人間は自分の手の届くことには不安が生じ、手の届かないこと/欲しがらないことには不安が生じない」ということです。

ペーパードライバーは車の運転に不安を覚えますが、ペーパードライバーに飛行機を操縦してと言っても、想定の範疇を超えているため不安が起こらないということでしょうか。

ここまでのことを整理していきます。

「今の自分の状態で、本当に目指しているものを達成できるのだろうか」という心理状況には、現実と理想との差が生じている。

しかし、現実と理想に差があるから、不安になっているのではない。

Aさんが理想と捉えているものを、Aさんは今現在できないと自覚している(「人間は自分ができることには、不安を抱きにくい」)

Aさんはその理想が実現可能あると捉えている(「人間は自分の手の届くことには不安が生じ、手の届かないこと/欲しがらないことには不安が生じない」)

この①と②の要素が含まれた時、人は現実と理想との差に不安を感じると考えることができます。

②今の自分にとって、取るべき選択は何なのだろうか

では、続いて「今の自分にとって、取るべき選択は何なのだろうか」について触れていきます。

Aさんは以下のようなことを考えていました。

(自分がやりたい仕事、自分にできる仕事ってなんだろうか)
(自分はどの大学、どの学部を目指すのだろうか)

このような問いは進路選択を控えた方や、就職活動・転職活動をしている方にとって、具体的かつ現実的なものになるのではないでしょうか。
この問いの要点は「何をもって、選択をする根拠とするか」だと考えます。

それでは、大学進学の話で考えてみましょう。
大学を選ぶ際に選択する要素とはなんでしょうか。

例えば、「地元か/東京か」「理系か/文系か」「国立か/私立か」などが考えられます。
このような形で私たちは日常生活においても「Aか/Bか」という選択を絶えず強いられ、意識的/無意識的に選択を続けています。

この「Aか/Bか」という問いも、
例えば、「理系か/文系か」という問いを細分化していくと、「文学か/社会学か/経済学か/医学か/福祉か」などと多岐にわたる問いにすることが可能です。
仮にこの世にあるすべての選択肢を検討した場合、組み合わせのパターンはこの画面上でも表示できない莫大な数となるでしょう。

では、日常において、その莫大なパターンの中からどのように選択しているのでしょうか。
以下の2つが大体に当てはまるのではないかと考えました。


①2~3個ほどの選択肢の中から選んでいる。

おおよそのことは、こちらに該当するのではないでしょうか。
例えば、夜に「肉か魚か」のどっちを食べるか、休みの日に運動を「するか/しないか」、「Aの服を買うか、Bの服を買うか」などが思いつきます。
基本的にはこのような二者択一がほとんどで、少し複雑になると選択肢が3から4つぐらいになる印象があります。
そのため、日常生活の習慣と結びつき、無意識の中で判断をしているのが、生活における選択のほとんどではないでしょうか。
つまり、朝の通勤で「徒歩か/バスか/車か」という選択は、ほとんど習慣的に決まっていきます。基本となる選択があるうえで、天候などの要因が重なると、判断基準が変わったりするわけです。

しかし、以上のように簡略された2~3つほどの選択肢の前には、削ぎ落した無数の選択肢があることも、押さえておくことが大切だと考えます。


②選択をしないという選択をしている。

まずは、以下の文章をご覧ください。

『選ばなくてもやはり選んでいるのだ(J・P・サルトル)』

私たちは、能動的に選択したことだけを「選んでいる」と思いがちだ。しかし、実際はそうではない。一見何も選択せず、受動的な態度に見える人であっても、「受動的でいること」を選んでいるのだし、「現状を拒まないこと」を選んでいる。「気まぐれ」な選択など、ない。

《まいにち哲学(原田まりる)ポプラ社》
23ページより引用

上記の文章はフランスの哲学者である「ジャン=ポール・サルトル」の言葉です。
彼が指摘したように「選ばないこと」もまた一種の「選択」です。

少し手厳しいような例となってしまいますが、以下のような例で考えてみます。

現在、勤めている会社におり、Bさんは職場への不満が溜まっている。
しかし、転職活動もせずに、日々鬱憤を溜めながら仕事をしている。

この場合において、彼は金銭面や社会体など色々ありますが、そういったことを踏まえた上で「仕方なく現在の職場に行くこと」を選んでいるわけです。
先ほどの無数のパターンの選択肢と同様に、彼には無数の選択肢が用意されています。

彼は「職場の現状を変えるために奮闘しても」よいし、「愚痴をこぼしながら働いても」よいし、「転職活動を始めても」よいし、「趣味に没頭しても」よい。
具体的に選択肢を挙げると、多くても10ぐらいには留まりそうですが、現実味や社会的な制約などを放棄すれば、無数に何でもできることとなります。

そのため、Bさんはそのような選択肢の中から、「仕方なく現在の職場に行くこと」を無意識的に選んでいることとなります。

上記のような例を挙げると、「選ばない」ことが「悪い」ことのように思えてしまいます。
しかし、以下のような例はいかがでしょうか。

彼は朝は迷わない。
なぜなら、彼は朝に食べる料理・服・運動のルーティーンが定まっているからだ。
彼は毎日、朝にコーヒーとトーストと卵を食べる。
そして、服は一種類しか持っていないため、毎日服装を選ぶこともない。
彼は通勤前に10分の瞑想と30分のウォーキングをして、出社した。

この文章は「スティーブ・ジョブズ」や「マーク・ザッカーバーグ」のことをイメージして書きました。
このような「選ばないこと」を「選ぶ」のは、どこか合理性やポジティブさを感じます。

このことから、「何かを選ぶことには、労力がいる」ということが汲み取れます。
人間は考えるのにも体力を使い、その思考体力には上限があります。
無駄なことに体力を割かないことを選んだ、というのは「選択をしないという選択をする」という選択肢の1つでしょう。


それでは、話が長くなりましたが、もう一度Aさんの大学選択の悩みに戻ることとします。

(自分はどの大学、どの学部を目指すのだろうか)

このような悩みを抱えているAさんに提示することは、上記のことを踏まえると以下のようになります。

①無数にある選択肢の中から、選択肢を削ぎ落し、具体的な数個の選択肢に絞っていく。
②選択肢を削ぎ落す際は、これは自分にとって重要ではないという「選択をしないという選択をする」

ところがAさんから、以下のような反論がありました。

「削ぎ落す? 冗談じゃない。私にはまだ無数の可能性がある。選択肢を減らすことは、自らの可能性を捨てるということだ。また、何かを選ぶとは、何かを選ばないということじゃないか。私はそれがとても不安なんだ。

なるほど。彼の発言には一理あります。
こちらを少し深堀りしていきましょう。

彼は朝は迷わない。
なぜなら、彼は朝に食べる料理・服・運動のルーティーンが定まっているからだ。
彼は毎日、朝にコーヒーとトーストと卵を食べる。
そして、服は一種類しか持っていないため、毎日服装を選ぶこともない。
彼は通勤前に10分の瞑想と30分のウォーキングをして、出社した。

先ほどの「選択をしないという選択をする」ときに用いた例えを元に考えていきます。

彼は毎朝同じものを食べ、同じ服装をし、同じ運動をする。

つまり、それは彼が「その朝」に他にできたかもしれない「可能性」を放棄していることとなります。
「毎日、朝にコーヒーとトーストと卵を食べる。」ことは、朝に「白米を食べること、カレーを食べること、スムージーを飲むこと、コーンフレークを食べること」などの可能性を放棄しています。

同様に、「毎朝、同じ服に着替える」ことは、「服装でおしゃれを楽しむこと、毎日の服の違いを楽しむこと」などの可能性を放棄しています。

このように「何かを選ぶこと」は「何かを選ばない」ことになります。
先ほど確認したように、私たちに与えられる選択肢は2~3個ではなく、限りなく無限にあります。
そのため、1つの物事を選んだときには、その無数の選択肢を放棄していることとなります。

それが、不安を生じさせる。
Aさんの発言はこのような意味合いになるでしょうか。

③トレードオフについて

「何かを選ぶこと」は「何かを選ばない」ことになる。
このような考え方は経済学での「トレードオフ」と似ていると感じました。

大学の講義でお世話になった《マンキュー入門経済学》より、簡単ではありますが、紹介いたします。

・トレードオフとは 
 意思決定に関する最初の原理は、「無料の昼食(フリーランチ)といったものはどこにもない」ということわざに言い尽くされている。自分の好きな何かを得るためには、たいてい別の何かを手放さなければならない。意思決定は、一つの目標と別の目標の間のトレードオフを必要とするのである。
 時間という自分の持っている最も貴重な資源をどのように配分するかを決めようとしている学生について考えてみよう。学生は、すべての時間を経済学の学習に費やすこともできる。すべての学習を心理学の勉強にあてることも可能である。あるいは、両方の分野の学習に時間を分けることもできる。この場合、その学生は一つの科目の学習に1時間費やすごとに、もう一つの科目の学習を1時間ずつ断念することになる。また、学習に1時間費やすごとに、昼寝、サイクリング、テレビ鑑賞や小遣い稼ぎのアルバイトなどを1時間ずつあきらめることになる。

《マンキュー入門経済学(N・グレゴリー・マンキュー)東洋経済新報社》
5-6ページより引用

また、「トレードオフ」には「機会費用」の概念があると、理解がしやすいため引用します。

・機会費用とは
あることを行ったことで見過ごした機会に発生した費用。機会損失ともいう。一定量の生産要素投入してある生産物を生産することは、もし生産しようと思えばできたであろう他の生産物の生産を断念することを意味する。この場合、生産の機会が見過ごされた生産物のうちで最大のものを、実際に生産された生産物の生産費用と考えることができる。このように、あることをするために犠牲にし、見過ごした機会に源をもつ費用のことを機会費用という。

「機会費用」コトバンクより引用
https://kotobank.jp/word/%E6%A9%9F%E4%BC%9A%E8%B2%BB%E7%94%A8-168724

上記にて「トレードオフ」と「機会費用」についての説明を引用しました。
こちらを具体的に説明しますと、本筋から外れ、冗長となりますので割愛します。

経済学的に言い表すならば、我々は物事を選ぶときに取捨選択をせざるを得ないし、何かに時間を費やすとは、何かに時間を費やさないということである。それは至って当たり前のことである。という風になるでしょうか。
その時間を費やさなかったことで失った利益は、機会費用と説明できるわけですね。


では、長くなりましたので、ここまでの話を整理します。


問い:今の自分にとって、取るべき選択は何なのだろうか。

前提として「私たちは日常生活において、選択を絶えず強いられ、意識的/無意識的に選択を続けている。」

また、「この世において、選択肢は無数に近い数、存在している」

しかし、「私たちはその全ての選択肢を選択することが不可能である」

従って、日常生活においては以下の2つの手段を取っていると考えられる。
①無数にある選択肢の中から、選択肢を削ぎ落し、具体的な数個の選択肢に絞っていく。
②選択肢を削ぎ落す際は、これは自分にとって重要ではないという「選択をしないという選択をする」

だが、「何かを選ぶこと」は「何かを選ばない」ことである。

つまり、「何かを選ばないこと」は、自らの可能性を捨てるということだ。また、そのことが不安を引き起こす。
言い換えると、「それを選んだ時」に得られる「利益」を放棄しているということだ。


以上が、「②今の自分にとって、取るべき選択は何なのだろうか」で確認してきた内容となります。
私たちは常に選択を迫られ、またすべての選択を行うことはできないことが分かりました。
つまり、私たちは選択を自発的にするしても、しないにしても、何か1つの選択肢を取っていることになります。

④「選択」するとは何か

最後に、この問いの要点であると考えた

「何をもって、選択をする根拠とするか」

ということを考えていきます。

先に結論を申しますと、「自分にとって何が大切であるか」となります。
こう書きますと、至って月並みな結論となりますが、その月並みな結論に至るまでの思考を明確にできることに、意義があると考えています。

では、こちらを深掘りします。

上記でも確認しましたが、私たちは絶えず選択を行い、「Aか/Bか」「あれか/これか」と決断を迫られています。

では、この決断に絶対的な正しさ/正解はあるのでしょうか?

Aさんが悩んでいた「就職か/進学か」

この悩みに関しても、「絶対にこれが正しいから、Aさん、こうしなよ」と確信をもって言える人はほとんどいないのではないでしょうか。

恐らく、Aさんも自らの内で、悩み・行動する中で、何かしらの結論に至り、決断を行うのではないかと推測できます。

Aさんが「就職」を選択した。「進学」を選択した。
そのどちらかがより良い選択であったとするのは、なかなか評価がしにくいのではないでしょうか。

一般的には、選択をすることで起こり得る「メリット/デメリット」「効用/コスト」などを比較して、判断がされます。

しかし、仮にどんな選択肢にも「良い/悪い」「善手/悪手」のような価値判断をしないのであれば、どんな選択も、選択です。

つまり、この選択が「良い/悪い」とされるのは、分析などで「価値判断」がなされた上ということだと考えます。

では、少し例を出してみましょう。
「私は過去の選択を後悔している。あの時、大学にさえ行っていれば、私の人生は大きく違っていたはずなんだ。やはり、良い選択/悪い選択というのはあるんじゃないのか」

このような後悔は、人生にふと襲ってきます。
この後悔が全くない、という人は少ないのではないでしょうか。

では、回答になるかはわかりませんが、カナダの精神科医エリック・バーンの有名な言葉を引用します。

You cannot change others or the past.
You can change yourself and the future.
他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる

やはり、この言葉の通り、「後悔」とは「過去」のことではないかと考えます。
しかし、今この瞬間における「選択」は「現在」のことです。

選択した「結果」は後ろ向きにしか理解できませんし、過去を変えることはできません。できるとしても、過去の捉え方を「今の自分」が変える他ないのです。

そのように考えた結果、
「何かを選択するとは、今の自分の課題」であると言えます。

仮にその選択が自分にとって最悪の結果に終わったとしても、
死なない限り、それでも人生は続いていって、またどこかで選択が可能です。

私はそのように考えました。

それでは、先ほど「何をもって、選択をする根拠とするか」という問いに「自分にとって何が大切であるか」と回答しました。

つまり、「選択」というものが、今の自分の課題であると仮定するならば、
その判断基準/根拠は、自らに由る(ミズカラニヨル)のではないかと考えます。

また、「自らを根拠」に何かを選ぶことは「自己を選んでいく」ことと等しいと感じます。
最も、「選ばざる」を得ないわけでもあるわけですが。

以下にサルトルの言葉を引用します。

「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」

《実存主義とは何か(J-P・サルトル)人文書院》
56ページより引用

(3)最後に

キルケゴールの「不安は自由のめまいである」の言葉を発端に、ここまで考えてきました。
では、以下に本文の要点を整理します。


①人間の性質とは

まず、私は「不安は自由のめまいである」の言葉を

「自己とは、可能性を有していて、可能性の広さにより不安の心的状況は生じる。その上で何かを選択することで自由が生まれる」と考えました。

つまり、人間は
①何かができるという可能性を有していること
②「あれかこれか」と何かを選ぶことができること 
という2つの性質を持っていると考えました。

②可能性について

人間は可能性があるため、今とは違う状態になることができます。
その際、「人間は自分の手の届くことには不安が生じ、手の届かないこと/欲しがらないことには不安が生じない」という心理状況になります。

つまり、

Aさんが理想と捉えているものを、Aさんは今現在できないと自覚している(「人間は自分ができることには、不安を抱きにくい」)

Aさんはその理想が実現可能あると捉えている(「人間は自分の手の届くことには不安が生じ、手の届かないこと/欲しがらないことには不安が生じない」)

この2つの要素が含まれた時、人は現実と理想との差に不安を感じると考えました。

③選択性について

前提として「私たちは日常生活において、選択を絶えず強いられ、意識的/無意識的に選択を続けている。」

また、「この世において、選択肢は無数に近い数、存在している」

しかし、「私たちはその全ての選択肢を選択することが不可能である」

そのため選択肢を絞るが、「何かを選ぶこと」は「何かを選ばない」ことである。

つまり、「何かを選ばないこと」は、自らの可能性を捨てるということだ。

では、「選択」の根拠とは何か?

「何かを選択するとは、今の自分の課題」である。

選択をするための「判断基準/根拠」は、自らに由る

つまり、「自分にとって何が大切であるか」が選択の根拠である。


以上が本記事の内容となります。

次回以降の記事で「②可能性について」と「アイデンティティ」と「不安」の観点から記事を執筆する予定です。

最後にキルケゴールとサルトルの言葉を引用して終わります。

「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない。(キルケゴール)」
「青年は希望に幻影を持ち、老人は思い出に幻影を持つ(キルケゴール)」
「青春とは、奇妙なものだ。外部は赤く輝いているが、内部ではなにも感じられないのだ。(サルトル)」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?