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プレイ (短編小説)

そのカフェで彼を見つけたのは私の方だった。なぜなら私が店に入ったとき、彼はカウンター席にかけて、作業に没頭していたのだから。
店の中央を陣取る大きな楕円のカウンター席には、黙々とパソコン作業に勤しむ彼や、彼のような何人かが同じ動きをしている。
私は彼に気づかれない場所を目で探し、空いている席の候補の中から、彼の真後ろに位置する二人がけの席についた。
賭けだった。気づかれるための賭けか、気づかれずにやり過ごすための賭けだったかは、そのときの自分にはわからなかった。
真後ろから見る彼の少し長めの襟足が、シャツの中に入ってしまっているのを不思議な気持ちで見つめていた。
店内に流れる女性歌手が歌うクリスマスソングが盛り上がってきている。そんなボルテージと逆行するように、彼の襟足の中に隠された珍しいつむじのことを冷静に思い出していた。

「こんなところにつむじがあるよ」
そう言って笑いながら彼の髪をくるくるねじって遊んだ朝があった。もう二年も前の話だった。
彼の背中は、あの頃から広くも狭くもなっていなかった。
彼の座る椅子の横に置いてあるバッグやコートの素材は、付き合っていた頃よりも良くなっている気がしなくもない。
静かな気持ちで彼を観察しながら、このカフェで彼を見つけた時の小さな興奮は既におさまっていることに気づいた。久々に見た彼の落ち着いた佇まいに感心しながら、二年前の悲劇について考えていた。

私が別れを告げた日の朝、彼が見せた真の無表情から読み取れるものは何一つなかった。魂が抜けた顔というのはおそらくこういう顔なのだろう。意外にも私にとってその顔は、しばらく見入ってしまうほどに興味をそそる顔だった。
彼に会う前日、仕事の失敗からどうしようもない苛立ちに襲われた私は、別れると決めていた彼を自宅に招いた。深夜ラジオの少し下品なトークを聞きながら、ときおり流れるジャズを聞くともなしに聞き、上の空で彼に抱かれた。ジャズの雰囲気に合わせたような動きをする彼の器用さに笑いをこらえながら。

あの夜を思い、コーヒーを口に含んでひとりニヤついてしまった。
急いでスマートフォンを取り出して、友人たちの週末の幸せそうな投稿を指で送って気を紛らわす。
その中で男友達の一人が投稿した、ギブスをつけた足の写真に目が留まった。私はあの朝の続きを思い出した。

別れを告げた朝。呆然とした顔で部屋を出ていく彼を、私はリビングのカーペットに座ったまま見送った。
彼がアパートの階段を降りていく。残された私は、暖かい部屋のなかで彼の靴底が階段に当たるときに奏でる、なんとも悲しそうな調べを聞いていた。
昨夜のジャズのノリといい、階段を降りていく音といい、この人はもしかしたら音楽のセンスがあるのではないか、そんなことを思っていた。
ふと、部屋の中に彼の小さな小銭ケースが置かれたままなことに気がついた。
私はまだ階段を下りきっていない彼を急いで追いかけた。
「ねえ、これ。忘れてる!」
私の声に振り返る彼の青白い顔は、朝日に照らされ真っ白だった。いや、照らされなくとも既に真っ白だったのだろう。
思い返せば、この家に初めて彼を招いたとき、階段のボロさと無駄な長さに彼は大笑いした。そのことで、今更の天罰が下されたのかと思うほど、次の瞬間、彼は綺麗に足を踏み外して階段を落ちていった。
ガガガガガガと派手な音を立て、手すりに体を打ちつけながら落ちる彼に、自由な音楽を感じた。
大事故かと思いきや、この階段の神様には情けがあった。
階段の下で、頭を逆さにして静かに止まって動かなくなった彼は、大した怪我もなさそうだった。
私は驚きもせず、無駄に長い階段の上から彼を見下ろしていた。朝日は、寝そべる彼に絶え間なく降り注いでいた。その時私は、柄にも無く、心から彼の今後の幸せを願ったのだ。そして思いを込めて彼の小銭ケースを優しく彼の元へ投げた。柔らかな放物線を描いた小銭ケースは彼の腹の上に着地した。

目を瞑り手を合わせている自分に気づいてはっとした。ここはカフェで、私は過去の出来事を思い出しているに過ぎなかったのに。なんだか恥ずかしくて両手を髪の毛に持っていき、髪を整える仕草で誤魔化した。
彼は未だにパソコン作業に没頭していた。そういえばこの彼は機械に強い人だった。当時、私の家のあれこれに惜しみなく力を貸してくれた。
コンセント周りのごちゃつきを綺麗に整えてくれたときには感動したものだ。そう思うと、もう少し思いやりのある別れ方をすればよかったと、今更後悔の気持ちに襲われる。
店の中に雰囲気のある音楽が流れているせいか、私が感傷に浸っていたその時、突然目の前の彼が立ち上がった。
トイレに行くのか、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。私の鼓動は一気に高鳴った。
彼は立ち上がるとゆっくりと振り返り、次には私を見た。
目が合った。彼はあの日の朝のように無表情だった。
私はたまらず立ち上がり、彼の元へ行った。

「あの、あのね」
私は動揺していた。そばに立つ彼の存在は、とても無機質に感じた。
「あのさ……」
意外にも、彼の方が話し始めた。
「あのラジオ、息の長い番組だね」
「へ?」
「下品なトークは相変わらず。それなのに、結構ファンがいるもんなんだな」
独り言のように言っているのに、たしかに私の目を見ている。
「え、聞いてるの?あのラジオ……」
意外だった。トラウマに立ち向かうつもりで聞いているのか、意図がわからず尋ねてしまった。
彼は少し考えているようだった。私に答えをさずけようか思案している顔だ。それから、見たこともないような下品な笑いを浮かべて私に顔を近づけた。
彼の生あたたかい息を感じ、一瞬で体中に鳥肌が立った。
「あのラジオを聞いてるっていうかさ……。あなたの家の音、全部、丸聞こえだから」

店内に流れる音楽は優しいクリスマスソングだった。
そのどこまでも優しい音楽に合わせるように、私の肩をぽんぽんと叩いた彼は、突如私に興味を失ったようで、身支度を整えカフェを出ていった。
私は人の迷惑も考えず、しばらくその場に立ち尽くした。
残された私の耳から、優しい音楽は徐々に遠のいていった。



[完]


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