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今日が雨なら (短編小説)

心地良い音量で「レットイットビー」が流れている。だけどこのカフェで流れるレットイットビーを歌っているのはビートルズ本人ではないと気づいたのは少し経ってからだ。

子供の頃、家では両親がビートルズのアルバムを繰り返し流していて、それを聞いて育ったはずなのに、このカフェに響くレットイットビーの変化に気が付かなかった。
「そういえば」と、音楽すら久しぶりに聞いていることに気づく。
家から徒歩10分くらいの、近場にも関わらず足を踏み入れたことのなかったカフェで、いろいろなことに気づいて感心している自分が可笑しかった。
車が通る場所にあるのに、コンクリート打ちっぱなしの店内は車の音も、明るすぎる日差しも、人の通りも、上手く遮るようなすりガラスと計算されたドアの位置によって安らぎをもたらす。

珈琲と一緒に注文していたピーナツバターのトーストが運ばれてきた。
体は大きいけれど、声と表情がマイルドな店員のお兄さんは、くしゃくしゃな髪型が良く似合う。店内は暖かいのに、彼は随分と着込んでいる。そのフード付きのパーカーは要らないのではないかな?そんなことを思うのは私がちょっとした健康オタクだからであって、まったく、余計なお世話だろう。
分厚い上着の上からキュッと締め付けるようなエプロンの締め方が愛らしい。

ボコボコした形を残したピーナツバターが別盛りでトーストに添えられている。
自分で塗るスタイルだった。
バターナイフで適当にトーストの上に盛って、しばらく外を眺めながら珈琲を飲んだ。
韓国の歌手なのか、どこの国の人なのか、やたらと澄んだ声をした男性ボーカルの歌がかかっている。英語なのに「君がーいない  君がーいない  君だけいないでー」と聞こえる。私のことを歌っているんだ、と思う。そうやって、自分のことと解釈するから失恋ソングがよく売れるわけで、決して私は間違っていない。
こんなに晴れた日なのに。
今、ここから10分歩いた場所にある我が家では、恋人が荷造りに精を出している。
こんな晴れた日に。
晴れた日を指定したのは私なのだけれど。
Coccoの歌でもあるじゃない。
「今日みたく雨ならきっと泣けてた」って。
晴れの日に泣くのは、意外と難しいはずだから。

「ああ、この曲」
店内で流れる曲は、彼がシャワーを浴びながら口ずさんでいた曲に変わった。
ふっと思わず苦笑いしてしまう。
こんな洋楽をかっこよく歌っちゃう男だから、私とは釣り合わなかったって、どうして気が付かなかったのだろう。
いつも優しい目で私を見てくれていた彼を思い出す。背の高い彼はいつも私を見下ろしていた。彼の背の高さが自慢だった。
だけどよく考えたら、私の高さに目線を合わせてくれることはなかった。
ベッドで彼の顔が目の前にくる時、いつも異常にどきどきしてしまったのは、きっと普段、私に目線を合わせてくれることがなかったからだ。
「冷たい人だったのかな」
考えたくないことを、この際考えてみるのもいい。いつもいつも、自分の考えを押し殺すことはないんだ。

私はピーナツバタートーストの存在をすっかり忘れていた。
トーストの上に乗せていた、固形だったピーナツバターがとろとろに溶けてトーストの表面に広がっていた。
ピーナツバターはトーストの温かさに、ゆっくりじんわり、溶けていったのだろう。
「君が羨ましいよ」
私はピーナツバタートーストを齧った。
家で食べるような味がした。悪くなかった。
これからは家で一人で食べるのかもしれないピーナツバタートースト。
「どうせ同じ味なら、またここに来て食べようかな」
けなしているのか、気に入っているのかよくわからない感想を持った。
今日は本当に晴れて、暖かい。彼が居なくなった部屋だって、窓から差し込む日差しで温められているはずだ。家に帰れば、彼以外の温もりにほっとできるはずだ。

私のスマートフォンに、彼からメッセージが届いた気配があった。
せめてピーナツバタートーストを食べきってからメッセージを開こう。
ゆっくりしたくても心が焦る。味わうこともしないでトーストを食べきった。
レジにいるくしゃくしゃな髪型のお兄さんは楽しそうにバイトの女の子と話していた。
誰も、私の存在を気にしていなかった。
『荷造り終わったよ。お世話になりました。鍵はポストに入れておくね。んじゃね。おつかれ』

おつかれ。

おつかれ。

今の小学生って『終わってんなw』みたいな意味で『おつかれ』を使うらしい。

「おつかれ。おっつー」
私の何かが壊れ始めた。
うん。これはいい兆し。
壊れてしまえ、一回。派手に。
自分にそう告げると席を立った。

このカフェの珈琲はテイクアウト用のカップに入っているから、私は珈琲を手に歩き出す。
後ろからお兄さんが私を呼んだ。
「あのう、一応セルフなんで、食器は返却場所までお願いします」
ぶっきらぼうな言い方だった。
私は壊れている。今の私は見ず知らずのあんたの言うことなんて、一番先に切り捨てる。
「嫌です」
私は店を出た。

偽物のレットイットビーを流すカフェになんてもう用はない。
私をいつも上から見下ろしていた偉そうな男も去った。私もこの街から出よう。
珈琲を手に、車道に沿って歩く。
流れる車の排気ガスでもなんでもいいから胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「おつかれ、私」

やっぱり、晴れの日に泣くなんて無理な話だ。



[完]


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