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カフェ・グレースの女 (短編小説)

カフェ・グレースの前に佇む一人の女。女がこの店に現れるのは、日曜の朝8時と決まっている。

カフェのドアを引く前に、女は小さな手鏡を取り出した。髪を直し、次にはルージュに乱れがないかを入念に調べている。

女が店の中へ入ると、カウンターの中から素っ気ない声かけがあった。
声の主は、この店の店主の一人息子だ。高身長、一重まぶたの色白で、キメの細かい肌をしている。20代前半のこの男は、毎週日曜日には父親の代わりに店番をする。

「いらっしゃいませ」

男は、細かく砕いた氷がたっぷり入った水のグラスを運んでくる。
女はいくらか尻を浮かせて座り直し、長い髪を片方に寄せた。そしてメニューからは顔をあげずに注文をする。

「ベーコンエッグセット。アメリカンで」
女は男と目を合わせない。
男はカウンターの中へ戻っていく。

一人になった女はスマートフォンを取り出して、着ているカットソーの袖口で幾度か画面をさすった。
適当なSNSを開き、目に映している。目に映したものに女が心を動かされることはない。なぜならこの女の意識は、すでにあることがらに集中しているからだ。

カウンターの中では、男が調理を始めた。
温めたフライパンに、ベーコンを2枚。
パチパチと音を立てて焼かれるベーコンの上に、といた卵が流される。その様子を見守っている男を、女は少し離れたところから凝視している。

女は一度、しっかりと唾を飲み込んだ。
そして、スマートフォンを首のあたりまで持ち上げると、女のカメラは男を捉える。
ボタンを押す。
女のスマートフォンのカメラはシャッター音が鳴らない。そうしてある。

男の横顔を数枚カメラに収めた女は、持っていたスマートフォンを音を立てずにテーブルの端に置いた。

その間、男は少量のサラダを白い皿の端に盛った。その隣に、焼きあがったベーコンエッグをフライパンから滑らせるようにして移す。
同時に温めていたトーストをベーコンエッグの上にのせ、男はその皿を持って女の元へやってきた。

「お待たせしました」

男の発する言葉は短い。それはカフェ・グレースの店主とまるで同じだ。同じ台詞を使う。

「ありがとう。美味しそうね」
女はおしぼりで手を包むようにしながら、男に言葉をかけた。

「コーヒーは後ほど」
男は首を少し垂れるように会釈をして、再びカウンターの中へ戻っていく。
女はまだおしぼりを揉むように手を動かしながら、いくらか目を細め、男の背中を舐めるように見つめていた。

女がようやく食事を始めた頃、この店のアルバイトの女が店に入ってきた。明るくて若いこの女は、この店の客から受けがいい。

「おはようございます」
笑顔を振りまきながら客の女の横を通り過ぎる。
ベーコンエッグを口に運んでいた女は、ちらと一度目を上げて、通り過ぎる女を一瞥したのちも、黙って食事を続けた。

女の食事が終わる頃、エプロンをかけたアルバイトの女が姿を現し、店の中を一周する。
乱れた椅子がないか、ナフキンの補充はされているか、手早く調べてからカウンターの中へ入って行った。
男の隣に立ったその若い女は、笑顔で男に話しかける。

「今日、寝坊しそうになっちゃって。焦りましたよ」

両手を額に重ねて、前髪を押し上げるような仕草をする若い女に、男は「なんでだよ」と小さな声で答えて、少しだけ笑った。

客の女は、空になった白い皿を、少しだけ前に押しやって、水のグラスに口をつけた。
それを見た男は、アルバイトの女に目で合図を送る。
アルバイトの女は即座にカウンターの中から出て、女の元へとやってきた。

「コーヒーをお持ちしますね」
明るい笑顔で客の女に言う。
女は長い髪を片方に寄せ、まとめる仕草をしながら、少しだけ会釈をした。

このカフェでは、毎週このような光景がある。


やがて客の女は、カフェを後にし、駅へ向かった。
再びこの駅に女が戻ってきたのは、夜21時を回った頃だった。

女が駅から自宅へ帰る途中に、カフェ・グレースはある。店から漏れる灯りが、夜道を少しだけ明るくしている。

今夜のカフェは客がまばらで、カウンターにいる男が、大きな欠伸をしたのを、女は通りすがりに見ていた。

女のアパートへは間もなく着いた。古いアパートの2階の部屋のドアを開け、中へ入る女。

女の部屋の照明は間接照明のみだ。
狭い部屋の隅にある、背の高いブックスタンドがメインの照明になる。
明かりをつけて、女は肩にかけていたバッグを、部屋で唯一の腰掛けへ置いた。
自らはどこにも腰を下ろさず、壁の一点を見つめている。

しばらくして女は、思い出したように机の上にある小さなデスクライトの明かりもつけた。部屋は薄明かりに包まれ、部屋の中央に立つ女の影が床や壁に広がる。
女は、着ていたカットソーを脱ぐと、ベッドの上に放った。
乱れた髪を何度か手で撫で付けながら、壁を見つめる女。
キャミソール姿になった女は、さらにタイトなスカートも脱ぎ捨てた。
どこか重力に負けた躰ではあるが、40代を目前に控えてもなお自らの色気を過剰に信じている風な女である。

女の真後ろへ視点を移す。
肩甲骨が綺麗に浮き出た女の背中の奥に見える白い壁。その壁一面に貼られているのはカフェ・グレースの男の写真。
俯く男。横を向く男。後ろ姿の男。
様々な角度で撮られた男の写真は、全て顔の中心を狙ってピンを刺されている。

女は、どこか甘ったるいような、のそのそとした動きでバッグから封筒を取り出す。その封筒に入っていたのは今朝撮った男の写真だ。
女は引き出しからピンを取り出し、すでに飾られている男の写真の間に隙間を見つけ、今日の一枚を押し当てると、男の顔目掛けてピンを執拗に押し込んでいく。
男の顔にめり込むほどピンが刺し込まれたことを確認すると、女は止めていた息を「んはぁ」と漏らした。

そのまま、壁に寄りかかる女。
女はたくさんの写真の中の、中央に飾られた一枚に手を伸ばし、優しく触れた。
女は、その写真に顔を寄せると、長い舌を出して、下から上へと丁寧に舐め上げた。
女に舐められた写真は、だいぶ傷んでいたが、写っている人物の個人の特徴をはっきりとまだ残している。

明るい笑顔の若い女。
カフェ・グレースのアルバイトの女。
薄明かりに照らされた壁の中央で、女の唾液にてらてらと光りながら、若い女は笑顔を振りまいていた。




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