渇望 (短編小説)
「あなたの想像力と結婚したいのです」
私は正直に言った。今はまだ売れない小説家である彼女の想像力に、心から惚れているのだから。
「あたしの想像力ねぇ。一体どんな?」
「どんな?」
私は彼女からの問いに考えを巡らせたが、やめた。そもそも、私に想像力が備わっていないから彼女に惚れたのだ。そうして私に恥をかかそうとする彼女の意地の悪さに、少し悲しくなる。
「あなたの才能の中に溺れてしまいたい」
私のこの言葉にはついに心を動かされたか、彼女はしばらく黙った。黙ったまま、横を向いた。彼女が横を向いた先に、綺麗な夕日の望める小窓でもあれば良かったが、そこはただの薄汚れた事務所の壁だった。
「いいよ」
「どうもありがとう。本当に」
彼女からの返事を聞いた私は、力が抜けてその場に膝をついた。そこへ、椅子から立ち上がった彼女がやってきて、私の目の前に片足を差し出した。
「見つけたね。あんたのシンデレラ」
彼女の台詞とともに、私の前にガラスの靴が現れたような錯覚に陥った。
私は想像の中でその靴を持つと、丁寧な動作で彼女に履かせた。
突然の事ではあったが、私はその晩から彼女の夫になるべく、彼女と寝食を共にすることを決めた。
初めて訪れた彼女の家は、一部屋の狭いアパートだった。しかし彼女の想像力を持ってすれば、ゆらゆらと揺れるロウソクの火が大きな影となって壁に映る、なんとも神秘的なお屋敷の屋根裏部屋かどこかになるのだ。
私は彼女の秘密の小部屋に足を踏み入れて、とても興奮していた。
「楽にして」
彼女はそう言うと、シャワーを浴びにさっさと浴室へ消えた。
一人になり、部屋を見渡す。とても簡素だ。
そこには一つのベッド、一つの机、一つのデスクライトがある。この簡素な部屋で、彼女の想像力のもと、数々の名作が生まれたのだ。
私は彼女を待つ間、この部屋の大半を占めているベットに横になった。ゆったりと身を沈めると、ほのかに檜の香りがする。彼女はこういった香りを好むのだ。彼女のことをまた一つ知ることができた。
そういえば、過去に彼女の作品には『ヒノキ枕に閉じ込められた小人』の話があった。その話の結末を思い出し、私は笑いが込み上げた。
大好きな作家の秘密の部屋で、お気に入りの作品を思い、浸っていると、いつしか私は良い気持ちで眠りについた。
どのくらい寝ていただろう。目を覚ますと、彼女が椅子に腰掛け、本を片手にくつろいでいた。
机の上にはワイングラスに注がれたビール。デスクライトだけをつけて、ゆったりと読書を楽しんでいるようだ。
「つい眠ってしまった。実に申し訳ない」
私は迂闊にも寝てしまったことを、率直に詫びた。
彼女は一度顔を上げて、それがどうしたとでも言いたげな目を私に向けたが、何も言わずに再び視線を本に戻した。
「いい部屋だね。ほのかに香る檜の香り、寝心地の良いベッド」
そう言いながら、私は穏やかな笑顔を作った。
彼女は相変わらず本を読みながら言った。
「作品を書いていると夢中になって、シャワーを浴びることすら忘れてしまうことがあるの。そんなときに吹きかけるのよ。ヒノキの消臭剤って、案外人気が無いみたい。値引きされていたから。そのベッドはミトリで買った、半額のセール品」
「関係ないよ。その物がいくらかなんて」
そう返事をしたあと、私は自分のこめかみ辺りでカチッという、本当に小さな音を聞いた。はて。なんだろう。
私はシャワーを借りることにした。
シャワーを浴び部屋に戻ると、彼女はすでにベッドに入って寝息を立てていた。
口約束とはいえ、今夜は二人にとって夫婦としての初夜だ。なぜ彼女は先に寝てしまったのだろう。
私のこめかみが再びカチッと小さな音をたてた。
しかし、すぐに思い当たった。
少女の頃から読書家だった彼女のこと、きっと白馬に乗った王子が迎えにくることを夢見たことが幾度もあるだろう。彼女にとって、まさに今はその時なのだ。彼女の王子になった私だけが、彼女の夢を叶えてやれる唯一の人間だ。そう思うと、胸が熱くなった。
私はまず、寝ている彼女を起こさぬよう、ベッドの端に腰かけて彼女を観察した。横向きで、私に背を向けて寝入っている彼女、いや妻だ。私は妻の肩をそっと掴むと、仰向けに寝かせた。
私は想像する。
彼女の好みそうなお姫様とは。
おそらく、毒りんごを食べて死にかける白雪だろう。彼女がこれまでに書いた作品には、何度も毒殺シーンが描かれているのだ。
私はまず、彼女が口に含んだであろう毒りんごを取り除いてやることにした。寝ている彼女の口に人差し指を突っ込み、舌の上をなぞる。
すると、すぐに「おえぇ」と声を上げて、彼女の体は大きくベッドの上で跳ねた。
「あぁ、ごめんよ」
私は慌てて彼女の体を擦って落ち着かせた。
しばらくは息が荒かった彼女も、やがて落ち着きを取り戻し、また一定のリズミで寝息を立て始めた。
こんなにのたうったのに目覚めない彼女を見て、私は考えた。いよいよあれが必要だ。姫を目覚めさせる、キス。
私は思いつき、脱衣所へ行ってタオルを数本持ってきた。そしてまず初めに、彼女の両足を閉じさせ、縛った。
次に、ベッドの枠に片腕ずつ縛り付ける。両腕を固定されて静かに目を閉じている彼女はとても清らかに見えた。そんな彼女を見ていると、教会でイエス様を見上げるような厳かな気持ちになる。
私は彼女の胴体には決して触れないように、ベッドに横たわる彼女の上に四つ這いになった。彼女の顔を真上からよく見ると、その唇はふっくらとして、とても魅力的だ。
私は意を決し、大きく息を吸うと、彼女の唇に自分の唇を重ねた。すると彼女は驚いたのか、勢いよく目を開けて、くぐもった声で何か叫んだ。そして先程同様、ベッドの上で跳ねるように体を動かし始めた。興奮する彼女を抑えるため、私は彼女に覆いかぶさり、なおも強く唇を吸った。
彼女の目は血走って、涙を流し始めた。私はとても興奮した。
愛を、これでもかと彼女に伝えたくて、彼女の顔にめり込むように自分の顔を押し付けた。息が苦しかった。
私は彼女とともに窒息するかもしれないと思った。だが、それでも構わない。
暴れる彼女の体は、私の全身を刺激した。
やがて血走っていた彼女の目がぐるりと回って、白くなった。そこを頂点に、私は果てた。
翌朝、薄曇りでもいくらかは差し込んでくる光の中で、動かなくなった女を見つめた。
狭い部屋には、一つのベッド、一つの机、一つのデスクライトがある。
この部屋にはもう、私の愛した女の才能はなかった。
私のつまらない想像が、女の才能の芽を摘んでしまったから。
嘆かわしい朝に早く別れを告げたくて、私はベッドの下に転がっているそれを拾い上げた。
ヒノキの香りの消臭剤はまだ十分に量を残していて、狭いアパートの部屋をあっという間に白く曇らせていった。
[完]
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