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後生の一大事の解決07/阿部信幾先生2023.10.07【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決07


私たちが仏様になるには他力の信心をいだくことだ。
これが浄土真宗である。念仏して浄土に生まれるというのも親鸞聖人の言葉にある。

20年にわたり布教師養成の指導をして気づいたのは、今の浄土真宗の法話の中心が歎異抄だということだ。歎異抄の法話が多い。歎異抄自体は悪くない。親鸞聖人のお言葉だからだ。歎異抄はもともと伝わっていたものではなく、見つけたのは親鸞聖人から200年後の蓮如上人である。歎異抄の最も古い本は蓮如上人が写したものであり、元の本は残っていない。

昔から作者が誰かについては議論があったが、今では唯円という親鸞聖人の40歳年下のお弟子が書いたとされている。歎異抄の内容は、阿弥陀様が48の願いを立てられたというもので、これを四十八願という。四十八願の中心が第十八願である。

第十八願は、「全ての生きとし生けるものを救う仏になります」と阿弥陀様が誓われたものである。全てのものを救うにはどうすればいいかを考えた結果が正信偈に出てくる「五劫思惟之摂受」である。五劫とは時間の長さであり、一劫はインドの単位で、縦横高さ40里の硬い岩を3年に一度天人が薄い衣でなで、岩がすり減るまでの時間を指す。これを5回繰り返したのが五劫である。

これは時間の長さを示すものではなく、5という数字が重要である。阿弥陀様が五劫という時間を使って何を考えたかというと、五逆という仏法で説かれる最も恐ろしい罪を犯した者をどう救うかである。

無間地獄

五逆とは、父を殺し、母を殺し、聖者を殺し、阿弥陀仏様を傷つけ、仏様の教えを信じる集団(サンガ)を破壊することである。これらは仏法をそしり、仏様の教えをけなす人々が犯すものである。五逆罪を犯した者が受ける結果は無間地獄である。無間地獄とは、休みなく続く苦しみの地獄である。仏教では地獄はいつか終わるが、無間地獄は休みがないため、最高の苦しみである。

無間地獄に落ちるのは、五逆を犯す者と謗法罪(仏法をそしる罪)を犯す者である。仏様の願いとは、仏様の心を慈悲といい、相手の苦しみを取り除き、共に苦しむというものである。慈悲とは、共に苦しみを分かち合い、相手の苦しみを取り除く働きである。

だから今現在、この例えがしづらい。何かというと、そうでない親がどんどん増えているからだ。困るんだ。

なぜかというと、子供を産んだだけでは親とは言えない。子供を産んで虐待して、子供の命を奪ったものを皆は親とは呼ばないだろう。

あれがなぜ起きるかというと、自分の幸せを優先するからだ。親というのは自分の幸せを優先させるんじゃなくて、子供の幸せを優先させていく存在なんだ。

だから親に、子供を産んだから親じゃないんだよ。子供を産んでから親になるんだ。子供が生まれたということは親のスタートだ。それから子供と自分との関係が始まって、どちらを優先するか、自分の幸せを優先するか、子供の幸せを優先するかということで、子供の幸せを優先していく。子供の幸せを一番に考えていくのを親というんだ。

ところが人間の場合は、自分の子供の上にしかこれが働かない。だから同じ慈悲でも小さい慈悲なんだ。これを「小悲」と言う。

それに対して仏様の慈悲というのは、全ての生きとし生けるものの上に同じ心が働いている。これを全てのものの上に働くから、「大悲」と言っているんだ。

私だったら、私の言っている話を馬鹿なこと言うなって貶す人間は、はっきり言って知ったことじゃないぞって放っておくよ。だけど仏様は放っておけないわけだ。

そうやって仏法を謗って無間地獄に落ちていくものが、自分の我が子と同じなんだ。だからそれを仏法を謗るということは、要するに仏様に背中を向けて逃げていくものを、どうやって救おうかと考えたんだ。

これが五逆罪を救うために阿弥陀様が考えた五劫という時間に現れているわけだ。で、考えた結論がどういう結論かというと、私はどういう仏になるかというと、一切救う相手に条件をつけずに救う仏になりますということだ。

無条件の救い

夫婦で水を運ぶ例えがある。どういう風にやるかというと、前で奥さんが担ぎ、後ろでご主人が担いで1本の天秤棒を渡して、真ん中に桶を下げて水をギリギリ入れて、いちのにさんで担ぐ。背丈が女同士なら問題ないが、奥さんが背が低いと桶が滑る。水がこぼれるわけだ。

水をこぼさない方法は2つしかない。どうするかというと、奥さんに背伸びさせるか、自分が腰をかがめるかのどちらかだ。奥さんに背伸びさせるというのは、背を同じにして担げと奥さんに注文をつけることだ。水はこぼれないが、もう1つの方法は奥さんには一切注文をつけない。つけなければ水がこぼれるので、自分に注文をつける。どういう注文をつけるかというと、前を歩いている奥さんと背丈を同じにせよということで、自分に命令して自分が変わる。

愛情のあるご主人はどうするかといったら、一切注文つけない。自分が変わるんだ。自分が変わる道を選ぶ。

さあ阿弥陀様はどっちだ?ということだ。阿弥陀様が取った道は後の方だ。救う相手には一切条件つけない。自分に条件つけた。それが48の条件なんだ。それが、四十八願だ。

で、十八願がなぜ重要かというと悪人を救うという願いなんだ。死刑になるほどの犯罪を犯した死刑囚を、みんな「あんなやつが死刑になった、当たり前だ」というけれど、それを親が言う人はいない。親は言わない。親はただ「なんとか自分のやった罪を償って、お詫びしてくれよ」という願いしかない。

自分の我が子が死ぬのを見たくない。それが親だろう?それなんだ。

だから仏法を謗るものをどうやって救うか。逃げてくるんだから、逃げてくるものに声をかけたって、声をかければかけるほど逃げていくんだ。それをどうやって救うかということは、一切相手に条件つけずにそのまま救う。

例えば父を殺し母を殺し五逆罪をやって罪の意識が身にないものは救いはない。なぜかというと、ここには悩みがないからだ。

だけどここで実際に阿闍世という王様を、自分の父を殺した王子の話を親鸞聖人は『教行信証』の中で引いている。これは父親を飢え死にさせて殺してしまった。で殺した後に後悔の念で体中に出来物ができるんだ。

病には心から起きる病と肉体的な病と2つある、心から起きる病を気をつけろと親鸞聖人はおっしゃるんだ。今風に言ったらストレスから起きる病気だ。

ストレスってのは良くないよ。ストレスのない生活をするのがやっぱり一番健康には大切だろうな。だから肉体的にいくら薬飲んだりいくらやったって生活自体を変えないと、生活自体ストレスがない生活しないとあまり長生きできないね。

だから阿闍世は自分の父親を殺してそのストレスから体中にデキモノができるんだ。それを止めようとした母親も殺そうとしたんだ。だけどそれは自分の家来が「おやめなさい」って言って、それによって母親を殺すのはやめた。

今度はその母親が息子に体中にお出来ができたので薬を持って塗りに来るんだよ。で母親が薬を塗れば塗るほどお出来はひどくなるんだ。なぜだろうな。「俺はこんな母親を殺そうとした。何という恐ろしいことをしたのか」って言って悩むわけだ。それが阿闍世。

そこに大臣がやってきて、お釈迦様のところへ行きましょうと勧めたので、お釈迦様のところに行って救われるんだな。阿弥陀様は「お前のようなものをそのまま救う」とおっしゃってくださるよ、ってこれに出会ったわけだ。

条件がついたら救われないものが出てくる。だから阿弥陀様は一切救う相手に条件をつけなかった。条件をつけずに私は全てのもの、もっては逃げていくものまでを追いかけて、最後には仏様に手を合わせ南無阿弥陀仏とお念仏を申してこの救いを喜ぶものに私が仕上げましょうとお誓いを立ててくださった。これが阿弥陀様が働いているということなんだ。

春が来た

ところが働きって見えない。働きが見えないっていうのは、例えば「春が来た」って歌、歌うだろ?春見たことある?見たことある人いる?ないな。見えない春が来た。春が来た、どこに来たって言うけど見えないけどなんで来たか分かる。山に来た町に来た野にも来た、って。何が来たかと言ったら花が咲き始めたってことだ。

春が来た春が来たどこに来た山に来た町に来た野にも来たっていったら花を見て、ああ春が来たって言ってるんだ。だから春って何かといったら、花を咲かせる働きを「春」というんだ。

阿弥陀様が働いてるのどこで分かるか、お念仏する人がいるってことだ。これが親鸞聖人、法然上人、阿弥陀様の存在というか阿弥陀様の働きを信じてお念仏する人がいる。それはもう阿弥陀様の働きに出会ったんだ。なんでか、親鸞聖人に念仏させたのも法然上人に念仏させたのも阿弥陀様の働きなんだよ。

さっき言った、だから私は仏から逃げてくものを追いかけてついにはそのものを捕まえてね浄土に生まれることを喜ぶものにいたします。お念仏を喜ぶものにいたしますとお誓えくださった。これが第十八願なんだ。これが成就しないうちは私は仏とは名乗りませんとこう言ってる。

じゃその働きが成就した印は何かって言ったら南無阿弥陀仏のお念仏を唱えるものがもうすでにここにいるってことだ。

オンライン聴聞の限界

だから浄土真宗のお話を聴聞するということは、一人で家に閉じこもって本を読んでいるだけではダメである。こういった集まりに来る必要がある。なぜかと言えば、お念仏を喜ぶ人がいるからである。

例えば「今回は良かった、何が良かったかといえば、仏様にならせてもらいました」と言う。仏様になるということは非常に重要なことである。これが浄土真宗のご利益の最たるものだ。

死んだらみんな仏様になるわけではない。もし死んだらみんな仏様になるのであれば、仏教は不要である。なぜなら、みんな死ぬからだ。仏教とは何かと言えば、死んでいく人に信心を説いているのである。信心をいただけということを説いている。だから浄土真宗の教えは信心をいただいて仏になる教えである。

信心をいただくことについて話すが、ここで前述の話から言えば、第十八願阿弥陀様の本願が成就したからである。だから十八願を信じて念仏を申して仏になるというのが『歎異抄』の言い方である。

『歎異抄』を読むと、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて、往生を遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益に預けしめたまふなり」と書いてある。

これは何を言っているかと言えば、『歎異抄』全体を見ると、第十八願とは阿弥陀様がお念仏を申すものを浄土に迎えると約束してくださっているということである。だから阿弥陀様の十八願は念仏するものを浄土に迎える約束である。それを信じ、念仏申さんと思い立つ心が起きたときに「摂取不捨」というのだ。

だから浄土に生まれることが決まると言っているのである。『歎異抄』の救いとは、第十八願を信じ、第十八願を本願とすることである。なぜ本願というかと言えば、四十八願の中で最も根本だからである。根本の願を本願と呼ぶ。十八願が外れたら、他の四十七願がすべて意味を持たない。すべてのものを救う仏になるというのが一番の中心だからである。

それが十八願である。だから十八願を信じ念仏を申して仏になると『歎異抄』にちゃんと書いてある。それが『歎異抄』の教えである。

タンニン抄

これを蓮如上人が『歎異抄』を発見したが、最後に「無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり」と書いてある。この意味は何かと言えば、無宿善の機というのは、このお話を聞いても信心をいただけない人のことである。なぜなら、まだ時期が熟していないからである。宿善というのは仏様の働きを意味する。仏様の働きがまだ私の上に熟していないということだ。

渋柿は干し柿にすることで、渋が抜けて(変化して)甘み出てくる。渋を変化させる働きがお天道様の光である。お天道様の光を十分に受けて水分が抜けると干し柿になる。渋柿が甘い柿になる。これが熟すということだ。

阿弥陀様の働きが私の上に宿善到来すること。それが信心をいただくことになる。それが信心だと言うが、要するに十八願を信じて念仏を申せば仏になるという教えである。
それを無宿善の機、信心をいただいていないものには簡単に見せてはいけないと書いている。

時宗への警鐘

なぜこんなことを書いたかというと、蓮如上人の時代に一番流行っていた宗教は「時宗」だったからである。時宗とは一遍上人が広めた教えであり、念仏ひとつで浄土に往生するとして信心を必要としないものであった。

ある僧侶に、一遍上人がお念仏を申してください、お浄土に生まれますよと言った。しかし、その僧侶は「私はその教えを信じておりません。信じていないので念仏しません」と答えた。すると一遍上人は「信じていなくても念仏すれば往生する」と言ったのである。これが始まりだ。

だから「口にただ称名ばかりを称えたらば、極楽に往生すべきように思えり。それは大いに覚束なき次第なり」と言っているのは、何を言っているかと言えば、浄土宗に対して言っているのではない。当時流行っていた時宗の人々に対して、ただ念仏していれば浄土に往生するというのは違うぞと言っているのだ。

しかし『歎異抄』を読めばそう書いてある。だから『歎異抄』は大体お弟子に向けて書かれたものである。親鸞聖人の教えを広めているお弟子たちに「親鸞聖人の言葉にないようなことを勝手に言うなよ」という文章なのだ。

だから誰に向けて書かれたかといえば、あの名文が分かる人は相当教養の高い人である。だからそういう人向けの本である。

それも大事なんだけど、それは一応置いておく。誰彼構わず見せてはいけないというのではなく、見る縁が整った人には見せなさいということだ。しかし、本屋で簡単に手に入るようにしてはいけない。そこで、御文章を作った。

御文章に説かれている救いは、十八願を信じて念仏して浄土に往生するというものではない。ではどういう救いかと言うと、阿弥陀様が十八願を起こし、「私は全てのものを仏にする」と誓い、ご修行に入られた。無条件で救う仏になると誓い、その修行が完成した。それが南無阿弥陀仏の六字の名号であり、阿弥陀様の四十八願が完成した証拠だ。ナンマンダブツは阿弥陀仏が本願を成就した姿だ。南無阿弥陀仏を本尊にしているのが浄土真宗で、お木像や文字も全て名号だ。

名号とは

名号というのは掛軸になった文字を指すのではなく、働いている阿弥陀様の働きを南無阿弥陀仏と言う。その証拠はお念仏を申す人がいること。だから南無阿弥陀仏のお念仏を聞くと、本願が成就したことがわかる。阿弥陀様の計らいが働いているから、こちらの計らいは要らない。

こちらの計らいがなくなることを「疑い」という。阿弥陀様がいるかどうかを疑うこと自体がおかしい。お経に書いてあることだから疑う余地がない。

お経に書いてある阿弥陀様の話をお釈迦様がしている。阿弥陀様が本願を成就した証拠は南無阿弥陀仏の六字の名号。法蔵菩薩が阿弥陀と名前を変えたことが四十八願が成就した証拠。阿弥陀様が働いている中に私がいるのに、私が仏にならない原因は「自力心」。

他の仏教は迷いの原因を煩悩とするが、浄土真宗は自力心が原因だ。煩悩をなくすために座禅を組んで知恵を得るのが他の仏教。浄土真宗と日蓮宗以外の宗派は座禅を重視する。座禅を組んで知恵を手に入れ、煩悩をなくすのが他の仏教の修行。

煩悩をなくすために出家するが、浄土真宗は阿弥陀様が私の煩悩を邪魔にしない。煩悩を抱えたまま無条件で救われる。私の煩悩を邪魔にしない阿弥陀様の働きを拒むことを「自力」という。

阿弥陀様の働きは私のお念仏となって働く。お念仏をしない人は阿弥陀様の働きを拒んでいる。

そうだ 走って京都へ、行こう。

さっき、司会者が「ご一緒にご念仏申しましょう」と言ったけれど、誰がするのか?これが「自力」なのだ。なぜなら、念仏させるという阿弥陀様の働きがあるのに、それに乗らないからだ。新幹線が通っていることを知っていても、新幹線に乗らなければ京都には行けない。阿弥陀様がどんなに私を救ってくださると知っていても、念仏しない人は、新幹線が動いているのを知っているけど乗らない人だ。

だから、働きに乗っかることが念仏なのだ。お念仏しない人が、お念仏するようになった背景には、「私はあなたに必ずお念仏を申させる人にして迎える」という阿弥陀様の働きがあった。今、私はお念仏する者になっているのだ。お念仏する人にも「自力心」がある。なぜかというと、自分が念仏して浄土に生まれようとしているからだ。

これがどこがおかしいのかと言えば、阿弥陀様の働きを「私が念仏して」というものを付け加えなければ救いが成立しないと思い込んでいることだ。阿弥陀様の救いは無条件なのに、私が念仏唱えなければ救われないと条件をつけている。自分が自分に条件をつけているのだ。だから信心をいただいて喜ぶようにならなければとか、お念仏を申す者にならなければとか言うのはダメなのだ。

タラレバ不要の救い

「何々したら」とか「こうであれば」というタラレバはいらない。そのままということはタラレバがいらない。阿弥陀様がそのまま救うと言ったら、「このままでいいんですか?」と疑う人は信じていないのだ。そのまま救うと言われたら、ただ「ありがとうございます」しかない。

救いが成立するのは、南無阿弥陀仏の本願成就だ。蓮如上人の御文章はこれを説いている。蓮如上人のご教化は非常に分かりやすい。本願寺は親鸞聖人を拝んできたが、蓮如上人は南無阿弥陀仏をご本尊として説教した。南無阿弥陀仏の六字の名号を書いて、これを御絵像の南無阿弥陀仏として拝んだのだ。ご本尊は私が仏様になる証拠だと思って拝むべきだ。証拠が届いているのに、「助けてください」とは言わないだろう。

お聴聞とは、南無阿弥陀仏が私のお浄土参りの証拠だということを聞くことだ。他のものは一切証拠にならない。体験を証拠にする人は危ない。体験は当てにならない。宗教は精神的な病と紙一重だ。自分が思い込んで人も一緒に思い込んだら、それは集団ヒステリーだ。それによって宗教が成り立ってしまう。

教祖が特殊な体験をして、その体験を信心いただいたと説くのは危険だ。体験が証拠になっているからだ。体験は証拠にならない。人間の体験なんて何が本当で何が嘘かわからない。自分だけの世界だ。

「昔は全然ありがたいと思わなかったが、最近ようやくありがたいと思えるようになりました」という人は気をつけなければならない。臨終は全然ありがたくない。私は一度死にかけたことがあるから言うが、臨終は恐ろしくもない。信心をいただいたら死ぬのが怖くなくなるから、早く信心をいただかないといけない。死ぬのが怖い人は、信心をいただくために聴聞するしかない。

闇とは、死んだらどうなるかわからないことだ。私は闇の中にいる。なぜなら死んでいないからだ。死んだら何もなくなると言う人に、死んだことがあるのかと聞きたい。死んだことがないのにわかったことを言わないほうがいい。死んだらどうなるかわからないのは本当だ。分からないことが闇だ。

闇に光が届いている。その光は南無阿弥陀仏だ。東京を照らしているのは築地本願寺のご本尊だ。東京から築地本願寺がなくなったら闇になる。だから大事なのだ。

タンニン抄補足:雑学・豆知識

タンニンとは
渋柿のタンニンが渋味の原因であり、甘みのもとではない。タンニンはポリフェノールの一種で、渋味や苦味を引き起こす化合物である。タンニンが不溶性に変わることで渋味が消え、果実本来の甘みが引き立つが、タンニン自体が甘みを提供するわけではない。

タンニンの役割
タンニンは、植物が自己防衛のために作り出す成分で、昆虫や動物から果実や葉を守る働きがある。このため、未熟な果実や種に多く含まれている。タンニンは渋味や苦味を持ち、これが果実の味に影響を与える。

渋抜きのメカニズム
渋柿の渋味を取り除くためには、タンニンを不溶性に変える必要がある。このプロセスでは、タンニンが果実の細胞内で不溶性の形態に変化し、唾液と反応しても渋味を感じなくなる。渋抜きの方法には、焼酎やアルコールに漬ける方法、乾燥させて干し柿にする方法などがある。

甘みのもと
果実の甘みの主な成分は糖分である。柿の場合、ブドウ糖や果糖などの単糖類が甘みを提供する。渋柿も甘柿も、熟す過程で糖分が増え、果実が甘くなる。渋柿の場合、タンニンが不溶性に変わることで渋味がなくなり、果実の自然な甘みが引き立つ。
具体的に、渋柿を干すことで水分が減少し、糖分が濃縮される。この過程で、タンニンも不溶性に変わり、渋味がなくなる。結果として、干し柿は非常に甘くなる。

甘柿のタンニンについて

甘柿もタンニンを含んでいるが、その形態や量が渋柿とは異なるため、甘柿は渋味を感じないで食べることができる。以下に、甘柿のタンニンに関する詳細を説明する。

甘柿のタンニンの特徴
甘柿には、渋柿と同様にタンニンが含まれているが、そのタンニンは不溶性の形態で存在している。不溶性タンニンは、唾液と反応しても渋味を感じさせない。甘柿の果肉内でタンニンが細胞壁に結びついているため、食べたときに渋味を感じることがない。

渋柿との違い
渋柿では、タンニンが水溶性であり、口の中で唾液と反応して強い渋味を引き起こす。これが生の渋柿を食べると渋く感じる原因である。一方、甘柿では、果実が熟す過程でタンニンが不溶性に変化し、渋味が感じられない。このため、甘柿はそのままで美味しく食べることができる。

甘柿の品種とタンニン
甘柿の中にもいくつかの品種があり、それぞれの品種によってタンニンの量や形態が異なる。代表的な甘柿の品種として、「富有柿(ふゆうがき)」や「次郎柿(じろうがき)」がある。これらの品種は、果肉が緻密で甘みが強く、タンニンが不溶性の形態で存在しているため、渋味を感じずに食べられる。

甘柿の栽培とタンニン
甘柿の栽培では、果実が熟す過程で自然にタンニンが不溶性に変わるように管理されている。適切なタイミングで収穫することで、甘くて渋味のない果実を得ることができる。また、甘柿の果実は、熟成が進むと糖度が上がり、さらに甘みが増す。

まとめ
甘柿にもタンニンは含まれているが、その形態が不溶性であるため、渋味を感じることなく食べることができる。これにより、甘柿はそのままでも甘くて美味しい果実として広く親しまれている。


後生の一大事の解決シリーズ一覧


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