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後生の一大事の解決10/阿部信幾先生2023.10.09【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決10


後生の一大事と三世の教え

後生の一大事の解決というテーマで話をさせてもらってきたが、今日は最後なのでそれをまとめたような話をしようと思う。

大体、後生という言葉は、前生(生まれる前)、現生(現在)、後生という3つの世界がある。生まれる前の世界を前世といい、これら3つを合わせて三世という。仏教の教えはこの3つの因が基本になって説かれている。なぜかというと、我々は生まれてくる前のことは分からないし、死んだらどうなるかも分からない。そういう分からないことを凡夫ぼんぶと言う。

お釈迦様という方は悟りを開いた方だから、我々の命がどのようになっているかということを私たちに教えてくれたのがこの話である。要するに、現世でやった行いによって後世が来る。現世でやった行いを自業という。「業」というのは仏教で働きのことを指す。自分の行いのことを業というのだ。

だから自分の行いを自業といい、これがいろいろなことをするが、きちんと整理すると、体で行うこと、喋る言葉、心で考えることの3つになる。体で行うのを身業と書いてしんごうという。言葉を口業と書いてくごうという。心の働きを意業というのだ。何が中心になるかといったら、これは心である。

我々は心で考えたことを言葉に出し、心で考えたことを行動に移している。だからこの心が中心になる。この心でもって何かを喋り、何かを行動に移す。これが自業で、その結果はどうなるかといったら、これは自分が受ける。自業自得というのは仏教の言葉だ。

これが基本なのだ。だから我々が今ここで生きている人間生活は誰が作ったかといったら、自分が作ったのだ。これが仏教の基本である。

自業自得と現代の紛争

神様が私の人生を支配しているわけでもないし、仏様が私の人生を支配しているわけでもない。自分のやった行いの結果を自分が受けるというのだ。

今、イスラエルとパレスチナが戦争しているだろう。あそこは第二次世界大戦後、争いが終わったことがない。原因は色々あるだろうが、要するに、やったらやり返すという世界だ。もう1000人以上死んでいる。やったらやり返すというのはお釈迦様は禁止している。その有名な言葉は「恨みは恨みによって止むことはない。恨みは恨みを捨てることによって止む。これは永遠の真理である」というものだ。

恨みは恨みによって癒えることはない。恨みは恨みを捨てることによって癒えるというのは当たり前じゃないかと思うかもしれないが、人から恨まれるということはどういうことかといったら、自分がそれだけのことを過去にやったのだ。だから人にやったことが自分に帰ってくるというのだ。

やらないことは帰ってこない。自分がやらないことは自分には帰ってこない。これだから、自分が人からひどい目に合わされたということは、人をひどい目に合わせたということだ。「私がそんな覚えはありません」と言っても、前世のことは分からないだろう。生まれる前に何をやったか分からない。だからここで何が返ってくるか分からないのだ。

私は『半沢直樹』が大好きだったのだが、知っているだろうか。胸がすっとするよね、あれは。とんでもないことをやってきた人間が最後ギャフンと言わされて「参りました」と言って終わるだろう?気持ちがいいよね、あれは。でもね、あのセリフがよくないのだ。「やられたら倍返し」という。倍返ししたらどうなるか。倍返ししたらまた今度また倍返しが帰ってくるのだ。その倍返しが帰ってきたのを倍返ししたら今度は4倍になる。そうやってやり合うと、これは終わらないだろう。

お互いがお互いに「やりやがって、ふざけるな」と言って仕返しを始めたら永遠に終わりはしない。お釈迦様はこれを禁止したのだ。そんな愚かなことはやめなさいと。だからあそこには仏教がないから、そういうことがずっと争いが収まらないのだ。

自業自得の理解と実践

やったらやり返してはいけない。物を盗まれた時の対応の仕方を教えよう。私は結構物を盗まれているのだが、物を盗まれた時にこれは自分が盗ったことが返ってきたのだと考えてほしい。そうしたらどういうことになるかというと、本当は私が人のものを盗ったのだ。だからその人を探して本当は返しに行かなくてはいけないのに、わざわざその人が取りに来たと考えたらね、ありがとうとは言わないだろう。自分の大切なものを盗まれているのだから。でも、そういう道理なのだ。

だから自分のやったことは必ず帰るというのが仏教なのだ。だからここの人生というのはここで作ったことが今起きているわけだから、ここでまず男で生まれた女で生まれたという原因はここにあるのだ。

もっと言えば、ここでお金持ちに生まれるとかお金持ちに生まれないというのは私の前世の行いに原因があるとお釈迦様ははっきり言っている。ここにおいて物惜しみする、つまり施しをしない、施しをしないで自分で抱え込むばかりの人はここでお金持ちに生まれることはないというのだ。ここで施しをする人がここでお金持ちに生まれる。だからお金持ちを持続したいと思ったら施しをしなければいけない。持っているものは持っていないものに与えなさいと。そうやって共に幸せになる道を歩みなさいと教えてくれたのはお釈迦様なのだ。

だから一人が抱え込んで、自分一人が幸せを追求しているというのは一番愚かな生き方なのだ。お互い分け合って、食べるものでも、食べられない者と食べられる者がいたら、食べられる人は食べられない者に与えて共に一緒に食べることによって幸せを共有しましょうと説いたのが仏教、お釈迦様の教えだからね。ここにもこういうことが出てくる。

だからここに、ここ今ここで生まれてからずっと生きてきたでしょ。それがどうなるかというと、今度後生を作るのだ。人生いつ終わるか分かりませんよね。終わったらどうなるのかといったら、どこか生まれ変わる世界があるんじゃないですよ。

仏教の輪廻観と他宗教との違い

仏教というのは生まれ変わりを言いますが、生まれ変わりを言う宗教は他にもあるのだ。お釈迦様の生まれたインドという国は生まれ変わりを言います。だから生まれ変わりを言うのでインド人の8割のヒンドゥー教はお墓を持っていない。お墓がない国なのだ。

初代のネルー首相、あのね、インドが独立して一番最初の首相はネルーさんでしょ?で、ネルー首相が日本に初めて、インドが独立して日本に初めて来た時にインド式のお寺があるって聞いて是非お参りしたいって言ってネルー氏はね、あれ暗殺されたけど、あのインディラ・ガンジーという、あれ娘さんですからね、ネルー氏の娘さんなんだ。インディラ・ガンジーさんで、それと一緒にね上野動物園にインディラさんという象がやってきた、プレゼントで。

でネルー氏がここに来たんだよ。で私はその時ね、この生まれですから、ここで生まれてここで12歳まで育って、その前の築地小学校って私の母校なんだよ。だからずっとネルー氏が来るって言うんで、職員全員が本堂に、でお迎えしたの。今でも覚えてます。あの階段をネルー氏と、インディラ・ガンジーさんが2人で上がってきたのをみんなでこうやってお迎えしたの覚えてますよ。背の小さい人ですネルー氏は。インドの初代首相ですよ。

インドに行ってどこにもお墓がないんだね。だけど火葬した場所は残ってるんだね。ここで火葬いたしました。だからなんで墓はないのと聞いたら生まれ変わるからだと。あの有名なガンジーさん、ガンジーさんて聖者でしょ。あの人もお墓はないんですよ。

だけど暗殺されて死んでますからね、ガンジーさんでピストルで打たれて。その場所は残ってるんだよ。だからガンジーさんが最後に亡くなった場所に行くとね、ガンジーさんがこの部屋から出て、で庭を通って向こうの神様にお参り行く途中に打たれたって。ここで撃たれたって場所がある。みんなそこで手を合わせてますよね。

魂の概念と仏教の無我説

だけどお墓はどこですかと聞くとお墓ありませんと言う。なんでかというと生まれ変わるからだ。けれどもヒンドゥー教の生まれ変わりというのは、生まれ変わる世界がどこかにあるのだ。

だから天国は空の上にあるから天国といい、地獄は地の底にあるから地獄というのだ。だから我々は今人間の世界にいるけれど、どこかに天国があって地獄があって、死んだら私の魂がそこに生まれ変わっていくと説くのがあのヒンドゥー教の生まれ変わりだ。仏教は魂を言わない。

キリスト教もイスラム教も魂を言うのだ。だから仏教以外の宗教はみんな魂を言う。だから天国に生まれるとか地獄に生まれるとかって話すると、何が生まれるのかという時に、仏教以外の教えは私の魂が生まれるのだとはっきり言う。仏教は体と心を分けないから。

だから我々の肉体、体は肉体と魂でできているということを考えない。なんでかというと、お釈迦様が悟りを開いたら、そんな魂なんてものはどこにもないと悟ったのだ。魂がないと悟ったのを無我というのだ。無我というのはね、我がないという意味ではないのだよ。

あれを我と訳したのはヒンドゥー教のアートマンという、ヒンドゥー教の言葉を我と訳したのだ。アートマンというのは何かって言ったら、ヒンドゥー教の考え方で我々の心の中には永遠に亡くならない真実の我というものが存在する。その真実の我というものと宇宙の真理が実はひとつであるのだ。だから我々の中にある真実の自己と宇宙の真理がひとつであると悟ったら、これがヒンドゥー教の悟りなのだ。だから我々の中に魂を認めるのだ。

だからお釈迦様が悟りを開いたら、そんなものはないと。なんで私がここに存在するのかといったら、あなたと私との関係の中においてしか私は存在しませんと。

これの一番面白い例がね、例えばお母さんという母。母というのは何で存在するかといったら、子供がいる人を母というのだ。そうだろう。

関係性の中の存在と無我の理解

この母と呼ばれている人が、夫との関係だと妻と呼ばれる。娘との関係だとこれが母と呼ばれる。孫との関係だとばあちゃんと呼ばれる。どれが本当ですかと聞かれたら、全部本当だろう?

だから母であり、娘であり、妻であり、というように、それぞれの関係の中にしか我々の「私」は存在しないのだ。だから親子の関係を夫との間に持ち出してきたら大変なことになる。やはり夫との関係は妻という立場で対応しなければうまくいかない。

母というのは子供の幸せを一番に考える人を母というのだ。だから子供を産んで虐待する人は母ではない。子供なのだ。子供を産んで子供なのはなぜかといったら、子供というのは自分の幸せを優先していくのだ。母というのは子供の幸せを優先して自分の幸せを後回しにする。これを母というのだ。

だからこういうお互いの関係の中において私が存在する。これを縁起という。あれがあるからこれがある、これがあるからあれがある。だからお互いがお互いを支え合って存在している。これが今我々が生きている世界で、そこに我というものはひとつもない。これが無我だ。

それを悟ったのがお釈迦様の教えだから、私の魂がどこかに生まれ変わるということは言わないのだ。では生まれ変わりを言わないのかといったら、生まれ変わるというのだ。ではそれはどういう話かといったら、この現実が変化するのだ。

昨日が終わったから今日が始まると言ったのだ。昨日の終わりというのは今日の始まりだろう。夜中の12時が今日のスタートだよ。ということはこれが終わったからこれが始まった。これもうすぐ終わるよ。もうすぐ終わったらどうなるの?これが始まるだろう?

これはどこかにあるんじゃないのだ。自分の行いがこれを作る。だから地獄なんかあるものかと、人殺ししている人が地獄を、地獄を作るのだ。自分が受けるのだ。

ここで私、基本的に死刑には反対。私は教誨師をやっているのだ。教誨師というのは毎月刑務所に行くからね。刑務所に因果の道理を話しているのだ。

教誨師の経験と仏教の救済観

因果の道理を話して、刑務所の人に「死んだらどうなると思う?」と聞いたら、まず5人いたら5人とも苦笑しながら「それは地獄でしょうね」と言うのだ。「そうだ、行きますよ。そんだけのことやっているから刑務所に入っているのだから」と。だけど「その地獄にいる者を仏にするというのは阿弥陀様だよ」と言うと「え?」という話になるのだ。

あのね、私以外の教誨師はそういうことは言わないのだよ。「心を入れ替えてまともに生きろ」というわけだ。心を入れ替えてまともに生きなさいと。だけど心を入れ替えてまともに生きようと思っても、生きられない。思うように生きられない。なぜ思うように生きられないかと言ったら、これ(過去の行い)が関係しているからだ。

親鸞聖人の教え

親鸞聖人がここで弟子の唯円という弟子に「わしの言う通りできるか」と言っている。唯円が「お師匠さんの言葉ですからもちろんです」と答えると、「1000人殺してみろ」と言う。物騒な話だが、これは元々お経にある話だ。1000人殺したら悟りを開けるという、むちゃくちゃなことを説いた仏教以外の先生がいた。

その師匠の言うことをまともに受けて人殺しを始めた者をお釈迦様が知って、夜自分が出かけて行ってその人殺しをしている者に説教し、その者は悟りを開く。その話を元にしているのだ。

弁慶と義経もここから来ている。弁慶が千本の刀を取るというのは、ここで1000人殺したら悟りを開くというところの経から来ている。弁慶が1000人目で五条の橋の上でばったり義経に負けて、弁慶が義経の家来になったというあれは経が元になっている。お互いがそれを知っているわけだ。

鎌倉時代だから、それを親鸞聖人は弟子の唯円に「お前、1000人殺してみろ。悟りを開けるぞ」と言ったのだが、そんな神妙な顔して言っているわけではない。お互い多分、にこやかに笑いながら「お前、俺の言う通りできるか」「もちろんです。お師匠さんの言う通りですからやります」と言っている。

親鸞聖人の教えの真意

そこで親鸞聖人が「じゃあ1000人殺せるか」と聞くと、唯円が「とんでもありません。私は1人も殺せません」と言った。これが『歎異抄』に出てくる。お釈迦様は何と言ったかというと、「お前、今俺の言う通りできると言ったのに」と。

「これにて知るべし」と親鸞聖人は言う。お前の心がいいから1000人殺さないのではない。ここで1000人殺すという種まきがされていないので、ここで師匠に「やれ」と言われてもできないのだ。もしここで1000人殺すという種まきがあったら、ここで1人も殺すまいと思っても1000人殺すということが起きるぞ。「去るべき強縁の模様さば、いかなる振る舞いをもすして、それが我々だ」と言っているのだ。

だから何をしでかすかわからない。思うように生きられない。だから私はそういう浄土真宗の教えを聞いているから、「心入れ替えてまともに生きろ」なんて言わないのだ。私自身がダメだもの。心を入れ替えようかと思ったが、入れ替える心がない。大体だから今までこんな、いい加減な人生をずっとだらだら送ってきている。

それはなぜかというと、ここにやっていることはここに影響している。問題はここはもう過ぎてしまったからいいのだ。問題はこれだ。これがいつ終わるかということだ。人間の寿命は決まっているそうだ。誰が決めたのか。仏様ではない。ここでやった行いが人間の寿命を決めているのだ。

五戒

決まっていると言われても、いきなり「あなたは死にます」と言われて「はいそうですか」と納得するわけではない。なんとかしてその日を延ばしたいと思うのが人情であり、これを「煩悩」と呼ぶ。浄土真宗の教えを聞いても、死を受け入れることは難しい。だから「仏様の教えに出会うことで、仏様の世界に入ることができる」という教えがある。仏様の世界を「極楽浄土」と言う。極楽浄土は天国とは異なり、自分の行いで作られる天国とは違うものだ。

天国は自分の行いによって生まれる場所であり、人間に生まれるためには「五戒」を守らなければならない。五戒とは、殺さない、嘘を言わない、盗まない、浮気をしない、酒を飲まないことである。自分は酒飲みなので次は人間に生まれないかもしれないが、酒を飲むことで五戒を破ることになるため、お釈迦様は酒を飲まないように教えている。しかし、大事なのは最初の四つである。

日本人は、死んだら天国に行くと考えがちだが、天国に行くためには人間に生まれるだけの徳を積まなければならない。殺さない、嘘を言わない、盗まない、浮気をしない、悪口を言わないことが求められる。悪口を言わないというのは、人を争わせないことであり、それを「両」と呼ぶ。さらに、怠けない、怒らない、愚痴を言わないことが含まれる。これを守れば天国に行けるが、ほとんどの人は天国に行けない。

もし人間に生まれないと、地獄、餓鬼、畜生の世界が待っている。地獄は自分が作り出す世界であり、人に地獄を味わせた者は自分が地獄に行く。お釈迦様は「殺すな」と教えている。仏様の教えを聞くことでどうなるかというと、阿弥陀様は「任せなさい」と言っている。「南無阿弥陀仏」を唱え、阿弥陀様にお任せすることが信心である。

仏様の教えを聞かなければ、生まれ変わって同じ苦しみの連鎖が続く。それを「生死の苦海」と呼ぶ。親鸞聖人の時代、海は果てのないものと考えられていた。生死の苦海は、生まれて死ぬだけでなく、年を取り、病気になり、苦しみが続くことを指す。インドの言葉で「苦」とは「思うようにならないこと」を意味する。人生は思うようにならないことが多く、それが苦しみである。

お釈迦様は「人生は苦である」と言っている。年を取りたくなくても年を取り、健康でいたくても病気になる。死にたくないと思っても死ぬしかない。死にたくなければ生まれなければよかったのだが、生まれてきてしまったからには死ななければならない。

落ちる飛行機

私たちは皆、落ちる飛行機に乗っているようなものだ。いつ落ちるかわからない。だからこそ、「南無阿弥陀仏」を唱える。南無阿弥陀仏は後生を助ける。臨終のその時に仏の悟りを与えられること、つまり仏様の悟りの世界に生まれ変わることを極楽浄土という。これを聞くことで安心できる。それが後生の一大事の解決である。

浄土宗と浄土真宗の違いは、浄土宗はお念仏を唱えることで仏様の世界に生まれると説く。自分の念仏が必要で、念仏を唱えることで極楽浄土に往生する。一方、浄土真宗では、阿弥陀様が全てを引き受けてくださるため、自分の念仏や行いによって極楽浄土に行くのではない。阿弥陀様が修行を通して私たちを仏にしてくださる。それが他力本願であり、阿弥陀様の修行によって私たちが仏に生まれ変わるということだ。

阿弥陀様が私たちを仏にするために修行をしてくださった。それを南無阿弥陀仏という名号を通じて私たちに伝えている。南無阿弥陀仏は、阿弥陀様が「あなたを仏にする」という呼び声だ。これを信じることで、自分の計らいではなく阿弥陀様の計らいに任せることができる。命が半年しか持たないと言われても、南無阿弥陀仏を信じていれば、安心して死を迎えることができる。これが浄土真宗の教えである。

法然上人は、浄土真宗の教えが「浄土三部経」というお経に基づいていると述べている。三部経とは、「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の三つのお経である。「観無量寿経」は、ある物語に基づいている。マガダ国のビンバシャーラ王とアジャセという息子の物語だ。

ビンバシャーラ王と妃が赤ちゃんが欲しいと願い、修行者に相談したところ、「修行を終えた修行者が亡くなった後に赤ん坊として生まれ変わります」と言われた。しかし、ビンバシャーラ王はその修行者を殺してしまう。修行者は「この恨みを晴らす」と誓って亡くなった。これが因縁となり、アジャセが生まれた。

アジャセが生まれた時、母親が高い塔から赤ん坊を落としたが、奇跡的に助かった。このことは誰にも言わず、秘密にされた。後に、お釈迦様の弟子である提婆達多がアジャセに真実を伝え、父親を殺すようにそそのかした。アジャセは父親を牢獄に閉じ込め、食べ物も飲み物も与えなかった。

アジャセの母親は、麦粉と蜂蜜を体に塗って牢獄に通い、父親に食べ物を届けていた。しかし、アジャセはこれに気付き、母親を殺そうとしたが、家臣に止められた。母親を殺すことは歴代の王でも行わなかったため、アジャセは諦めた。母親は山の上でお釈迦様に救いを求め、お釈迦様はその心を感知して城に向かった。

お釈迦様はビンバシャーラ王に悟りを開かせ、最後のお念仏を唱えるように導いた。この出来事は、過去の行いが現在の状況に影響を与えることを示している。過去の行いを「宿業」と呼び、人間はこれから逃れることはできない。神様が人生を支配しているわけではなく、自分の行いが今の状況を作り出しているのだ。

運命

運命とは、人間以外のものが人生に影響を与えることを指す。例えば、親鸞聖人が信じていた時代には、星が人間の運命に影響を与えると考えられていた。星の動きや配列を見て、お祝い事や葬式の日を決める者を陰陽師と呼ぶ。陰陽師は星を見て一年に一度の暦を制作し、その暦に基づいて日の良し悪しを決めていた。

しかし、お釈迦様はこのような運命論を否定し、人生は自分の行いが作るものであると説いた。これを「宿業」と呼ぶ。例えば、ビンバシャーラが牢獄に閉じ込められたのは、自分の行いの結果であり、これから逃げることはできない。浄土真宗でいう救いとは、「宿業」を受け入れて生きていくことだとされる。

多くの宗教は「宿業」を変えると主張する。例えば、貧乏に生まれた人を金持ちにしたり、夫婦関係が悪い人を良くしたりする。しかし、本当の仏教は智慧を与えるものであり、我々の「宿業」を変えることはできない。お釈迦様は、ビンバシャーラの頭を照らして一切の執着をなくし悟らせたが、彼の「宿業」を変えることはできなかった。

釈迦族はお釈迦様の存命中に滅亡した。名門であった釈迦族は、隣国の王に王族の娘を与える際に、実際は一番地位の低い女性を王族の娘だと偽って与えた。これに怒った瑠璃王子が釈迦族を滅ぼしに来る。お釈迦様は道の真ん中で座禅を組んで止めようとしたが、三度目の攻撃では止められなかった。アナンという弟子が、お釈迦様に釈迦族の名運は尽きたと告げた。

釈迦族の生き残りはネパールにおり、カトマンズのパタンには「シャキ」という苗字の人々が多く、彼らは仏像を作るのを主な仕事としている。ネパールには生神様という存在もおり、これらは釈迦族の出身とされている。

もう一つの例として、1000人を殺すという師匠から教わり実行したアングリマーラがある。彼は仏弟子となり托鉢に出かけるが、村人から恨みを持たれ、石を投げられて血だらけになって帰ってくる。それでも彼は毎日托鉢に出かけ、最終的には牛を盗んだ疑いをかけられて殺される。アングリマーラは安らかな顔で亡くなったと伝えられている。

これは、「業」を受け入れることの大切さを示している。植木等さんが歌った「スーダラ節」にも、「分かっちゃいるけどやめられない」という業の深さが表れている。例えば、タバコをやめられない人も同様で、体に悪いと分かっていてもやめられない。これが業が深いということだ。

ナモ

阿弥陀仏は、我々の「宿業」を変えることはできないが、智慧を与え、南無阿弥陀仏という言葉を通じて救いを告げている。

法蔵菩薩が阿弥陀仏に名前を変えたということは、すでに私たちを仏にする仏が誕生して働いていることを示している。この阿弥陀仏の上に「ナモ」の二文字がついている。「ナモ」は「任せる」という意味で、日本語に訳すと「任せなさい」となる。

だから、諸々の雑行を捨て、一心に我らの後生の一大事を「お助けください」と任せるのが「南無阿弥陀仏」となる。「南無阿弥陀仏」が聞こえるということが、本願が成就した証であり、阿弥陀仏が働いている証拠だと親鸞聖人は言っている。仏様は見えないが、その働きが「南無阿弥陀仏」として現れる。

仏様が働いている証拠が「南無阿弥陀仏」であり、それを聞かせていただくことで、仏様がすでに働いていることを知る。「任せる」ということは、死ぬ問題を自分の受け持ちから阿弥陀様に任せることである。例えば、医者から「あと半年しか生きられない」と告げられた人が、「阿弥陀様に任せる」となれば、もう自分で何かしようとする必要はない。これが「任せる」ということだ。

昔の家庭では、姑から教わった家庭の味を嫁が受け継ぐ。ある日「台所を任せたよ」と言われると、その台所が嫁の世界になるように、阿弥陀様に人生を任せることで、人生が阿弥陀様のものになる。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を聞いて救われる教えを広めた。南無阿弥陀仏は目に見えない仏様の声であり、それを聞いて救われるのが浄土真宗の教えである。

親鸞聖人が教える「南無阿弥陀仏」は、仏様が私を通して救いを告げているものであり、唱えるだけではなく聞くことで助かる。この教えが築地本願寺で聞ける浄土真宗の教えである。親鸞聖人が伝えた「南無阿弥陀仏」は、私たちが何もする必要がないことを示している。

阿弥陀仏の教えを聞き、救いを任せることで、私たちの人生が阿弥陀仏のものになる。阿弥陀仏の救いは、私たちの生き方を問わず、そのまま救ってくれる。これが「南無阿弥陀仏」という教えである。

親様

私が生まれたのは築地本願寺の近くで、そこに職員住宅がありました。築地本願寺は周囲に41の寺院があり、その寺院が本願寺の世話をしていた。戦争で焼けた後、職員住宅が必要になり、私もそこに住んでいた。職員の子供たちと一緒に遊び、夕方になると母親が呼ぶ声を聞いて帰宅する。これは、親の計画の中で生きるということを示している。阿弥陀様に任せるというのは、親のように全てを任せるということだ。

浄土真宗では、阿弥陀様のことを「親様」と呼ぶ。母親は子供の幸せを第一に考えるから母親と呼ばれる。虐待する母親は本当の母親ではない。自分の価値観を子供に押し付ける親も本当の親ではない。親とは、子供の幸せを最優先に考える存在である。阿弥陀様は私たちの幸せを一番に考えてくださる存在であり、その阿弥陀様が「任せなさい」と呼びかけてくださるのが南無阿弥陀仏である。

南無阿弥陀仏は目に見えない仏様の声であり、それを表した姿がこのご絵像である。ご絵像は観無量寿経に出てくる韋提希が救われときに出会った阿弥陀様の姿を表している。韋提希は、自分の行いが原因で悩み苦しんだが、阿弥陀様と出会って救われた。阿弥陀様は、悪人を捨てずに救う存在である。このご絵像は、南無阿弥陀仏という目に見えない仏様を表した姿である。

親鸞聖人は、お念仏が阿弥陀様の声であり、それを聞くことで救われると教えた。お念仏を唱えるのではなく、聞いて救われるのが浄土真宗の教えである。お念仏は阿弥陀様が私を通して救いを告げている声であり、南無阿弥陀仏を聞いて助かる教えが浄土真宗の教えである。

浄土真宗の教えを聞いて、救いを任せることで、私たちの人生が阿弥陀仏のものになる。阿弥陀仏の救いは、私たちの生き方を問わず、そのまま救ってくれる。これが「南無阿弥陀仏」という教えである。お念仏を聞くことで、もう何もする必要がないということになる。

お念仏を聞くことで、仏様の救いを任せることができる。それは、まるで決勝が決まった後の消化試合のように、結果が決まっている状態で試合を行うようなものである。お念仏を聞くことで、もう迷いの命は終わりであり、生まれ変わることはない。これが、阿弥陀仏と出会った者の救いである。

浄土真宗の教えを聞き、南無阿弥陀仏を聞くことで、私たちの命は阿弥陀仏のものとなる。阿弥陀仏の救いは、私たちの生き方を問わず、そのまま救ってくれる。これが「南無阿弥陀仏」という教えである。

消化試合

親鸞聖人が教えた南無阿弥陀仏は、私たちが何かをする必要がないという意味ではない。礼をすることが重要である。仏様に対する感謝の気持ちを示すためには、礼をすることが大切だ。南無阿弥陀仏を聞くことで、私たちの人生はお浄土になり、消化試合のように結果が決まっている状態で生きることができる。

消化試合とは、勝敗が決まった後の試合であり、結果が変わらない状態で試合が行われることを意味する。私たちの人生も、南無阿弥陀仏を聞くことで、迷いの命が終わり、生まれ変わらない人生となる。これは、阿弥陀仏の救いが確定した状態で生きることであり、何も心配する必要がない。

南無阿弥陀仏を聞くことで、私たちは仏様に救われることを確信する。阿弥陀仏の救いは、私たちの生き方を問わず、そのまま救ってくれる。これが「南無阿弥陀仏」という教えであり、浄土真宗の根本である。お念仏を聞くことで、私たちの人生は阿弥陀仏のものとなり、迷いの命は終わり、生まれ変わることはない。

浄土真宗の教えを広めるために、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」を唱え、聞くことの重要性を説いた。お念仏を聞くことで、阿弥陀仏の救いを確信し、私たちの人生が仏様のものとなる。阿弥陀仏の救いは、私たちの生き方を問わず、そのまま救ってくれる。これが「南無阿弥陀仏」という教えであり、浄土真宗の根本である。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いを聞くことで、私たちの命が阿弥陀仏のものとなることを教えた。お念仏を聞くことで、私たちの人生は阿弥陀仏のものとなり、迷いの命は終わり、生まれ変わることはない。これが「南無阿弥陀仏」という教えであり、浄土真宗の根本である。お念仏を聞くことで、阿弥陀仏の救いを確信し、私たちの人生が仏様のものとなる。

これで午前中の話を終えることを許していただきたい。


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