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後生の一大事の解決09/阿部信幾先生2023.10.08【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決09


この度は、後生の一大事の解決というテーマでお話をさせていただくということです。最初から申し上げておりますが、親鸞聖人の教えを聞き始める場合、多くの方は歎異抄からでしょう。歎異抄は非常に普及しており、YouTubeでも「あなたのそばに歎異抄」という番組が放送されています。歎異抄を通して浄土真宗の教えに出会った人も多いと思います。

しかし、歎異抄という書物の性格については注意が必要です。これは実は、法然上人の教えを親鸞聖人が関東の法然上人の弟子たちに頼まれて説いたものです。つまり、何もないところに親鸞聖人が教えを広めに来たわけではありません。

親鸞聖人の研究が進むにつれて、最近では聖人の生涯についてより詳しいことが分かってきました。親鸞聖人は20年間関東にいらっしゃったと言われていますが、その20年間のお説教の内容はどのようなものだったのでしょうか。これについては、親鸞聖人が京都にお帰りになってから関東の弟子とやり取りしたお手紙や、先ほど述べた歎異抄の内容から推測することができます。

親鸞聖人が関東で20年間過ごされた後、晩年に聖人のご長男が関東にやってきて、親鸞聖人の代理として様々な教えを解き始めました。しかし、これが弟子の性信房という人物と対立することになります。

具体的にどのような教えを説いたかについては、まだ十分な資料がないため詳しくは分かりません。ただ、親鸞聖人の関東での教えは「もう少し絞められた花なのだ」という表現があったようです。親鸞聖人から特別な教えを聞いているという主張もあったらしく、これによって弟子たちの間で混乱が生じました。

一番弟子の性信房の言っていることと、ご長男の言っていることが違うということで、弟子たちは直接親鸞聖人に確認する必要があると考えました。そこで関東から京都まで出向いて、弟子たちが直接確認することになったのです。

その時の親鸞聖人の答えは次のようなものでした:「私が皆さん方に説いてきたのは、法然上人がおっしゃった通りのことです。お念仏を申してお浄土に生まれていけよと、そのことを皆さん方にお取り次ぎしてきました。そのことは今も変わりありません。」

つまり、親鸞聖人が関東でお説教なさった内容は、法然上人の教えをそのまま関東の弟子たちに説いたということになります。

法然上人の教えの基となっているのは、観無量寿経という経典です。法然上人は、時代は違いますが中国の唐の時代に生まれた善導大師という方を師匠としていました。しかし、時代が違うため、善導大師の書物を通してお念仏の教えに出会ったのです。

観念仏・称念仏・憶念仏

法然上人がお念仏の教えに出会ったのは、観無量寿経を解説した「観経疏」という善導大師の書物を通してでした。法然上人にとって最大の問題は、なぜお念仏を申すと浄土に往生できるのかということでした。

法然上人の先輩に源信という方がおり、この方が「往生要集」という書物を書いています。この書物によって、日本人は地獄や極楽の概念を知るようになりました。往生要集を元にした「六道輪廻図」という絵があり、時々お寺の虫干しの際に掛けられているのを見ることがあります。

往生要集の冒頭には、阿弥陀様の浄土に生まれる方法が2つあると書かれています:

  1. 座禅を組んで心に阿弥陀様を思い浮かべて浄土に参る方法(観念仏)

  2. 口に南無阿弥陀仏と唱える方法(称念仏)

親鸞聖人は、口に唱えることだけを念仏と言うのではなく、信心も仏を念ずることだと考えました。つまり、念仏には3つの形があるのです:観念仏、称念仏、そして信心としての念仏です。(憶念仏)

往生要集では、「私のような愚か者はお念仏以外に助かる道がないので、お念仏で浄土に参らせていただく」という趣旨のことが書かれています。これが「極重悪人無他方便」、つまり極悪の人間には他の方法はなく、ただお念仏を申して極楽に往生する以外に救われる道はないという教えの根拠となっています。

法然上人は、なぜ念仏で往生できるのか、なぜ念仏で極楽に生まれるのかという根本的な疑問に悩んでいました。43歳の時に善導大師の書物に出会い、その答えを見出しました。

その答えとは、阿弥陀様の本願(48の誓願のうちの第18番目、第18願)に念仏が誓われているということでした。つまり、阿弥陀様が念仏を申すものを浄土に迎えると誓ってくださっているので、その本願を信じて念仏を申すものは間違いなく浄土に生まれるという考えです。これが法然上人の教えの核心です。

親鸞聖人は、浄土真宗のよりどころとなる経典を3つ挙げています:

  1. 無量寿経

  2. 観無量寿経

  3. 阿弥陀経

法然上人はこれらを同等に扱っていましたが、親鸞聖人はこれらを「方便」と「真実」に分けました。真実の教えは無量寿経で、観無量寿経と阿弥陀経は方便の教えだとしています。

「方便」とは、相手に合わせて教えを説くことを意味します。例えば、観無量寿経は我々の考え方に合わせて説かれています。これは、私たちが普段「努力すれば幸せになれる」と信じているような考え方に沿った教えです。

仏教の一般的な考え方では、修行(努力)して悟りを開くという流れがあります。これは私たちの日常的な思考パターンに合っているため、理解しやすいのです。このように、私たちの考え方の延長線上にある教えを「方便」と呼びます。

観無量寿経や阿弥陀経では、念仏という行(修行)が説かれています。観無量寿経には多くの行が説かれているため、どんな行をしてもよいと解釈する人もいました。中国の唐の時代には、様々な修行方法が流行し、何でもよいからお浄土に生まれる行だと思ってやればみな浄土に生まれると考える人もいました。

しかし、善導大師という方が、浄土に往生する行は念仏しかないと主張しました。その理由は、阿弥陀様の本願が念仏を申すものを生まれさせると誓っているからだと説明しました。つまり、念仏して浄土に生まれて悟りを開くという教えです。

真実の教え・方便の教え

この考え方は私たちの一般的な思考パターン(努力して報われる)に合っているように見えますが、実はここに自力の要素が混じっていることに注意が必要です。

親鸞聖人は、これらの経典の中で無量寿経を「真実の教え」とし、他の二つを「方便の教え」としました。真実の教えとは、阿弥陀様の本願を信じ、そのはたらきによって救われるという他力本願の教えです。

この教えは、私たちの日常的な思考パターンとは異なり、自分の力ではなく阿弥陀様の力によって救われるという点で革新的でした。親鸞聖人は、この他力本願の教えこそが浄土真宗の核心であると説きました。

以上が、親鸞聖人の教えと法然上人の教えの関係、そして浄土真宗の根本的な考え方についての概要です。念仏の意味や、方便と真実の教えの区別など、深い洞察が含まれています。

念仏して浄土に往生するという話では、自力か他力かの区別が明確ではない。観無量寿経も阿弥陀経も、自力の心で読めば自力の教えとなり、他力の心で読めば他力の教えとなる。これは二重構造になっているのである。なぜなら、私が修行して悟りを開くという考え方に合わせて説かれているため、理解しやすいのである。

この延長線上にあるのが歎異抄である。歎異抄が分かりやすいのは、お念仏すれば救われると書いてあるからだ。しかし、お念仏すれば救われるという点では、自力の念仏も他力の念仏も区別がつかない。

このような経典が観無量寿経と阿弥陀経であり、これらを方便という。一方、大無量寿経は私たちの考え方を覆すものであり、これが重要なのである。

浄土真宗の教えが理解しづらいのは、我々の常識の延長線上にないからである。
我々の常識では、私が努力しなければ幸せになれないと考えるが、浄土真宗の教えでは、私の努力で悟りを開くのではない。阿弥陀様の努力によって悟りを開くのである。

阿弥陀様が私を救い、仏にするという願いを起こし、修行をされた。その阿弥陀如来の本願、つまり願いが成就し、阿弥陀如来の修行によって、私がお浄土に生まれ、仏になるという教えなのである。これは私の努力ではない。

さらに、お願いしたから阿弥陀様が動くのではない。阿弥陀様はすでに悟りを開き、私を仏にしようと働いておられる。その働きのおかげで、私たちは今ここにお寺に参り、お話を聞かせていただいているのである。

阿弥陀様の働きがなければ、私たちはここに来ることはできない。すでに仏様は働いているのである。阿弥陀様の働きによって仏になるのだが、この働きは目に見えない。働きは見えないものだ。

春が来たというが、春そのものは見えない。しかし、花が咲くことで春の到来を知る。同様に、阿弥陀様の働きは直接見えないが、その影響は感じ取ることができる。

阿弥陀様の三つの誓い

阿弥陀様は四十八願を立てた後、3つの誓いを立てた。「私が悟りを開いてあなたを仏にできる仏になった暁には、それをあなたに知らせる」という誓いである。つまり、「私には私を仏にする仏がいる」ということを知ることが救いとなる。

どのように知らせるかというと、「私は南無阿弥陀仏の名号となってあなたに届けましょう」ということだ。だから、浄土真宗の本尊は南無阿弥陀仏なのである。

目の前の御本尊の仏像は木像だが、これは木像となった南無阿弥陀仏だと考えるべきである。南無阿弥陀仏は働きであり、働きは見えない。しかし、私たちの世界に届くために、まず聞こえる仏となった。聞こえる仏とは、お念仏のことである。

南無阿弥陀仏のお念仏となって私たちのもとに届き、私たちを仏にすることを伝える。だから、親鸞聖人の教えでは、念仏を唱えて救われるというよりも、念仏を聞いて救われるのである。

ただし、「南無阿弥陀仏」という音声を聞くだけでは意味が分からない。南無阿弥陀仏とは、阿弥陀様が私を仏にしようという願いを起こしてくださったことを指す。これを仏願=本願という。

その願いを実現するため、阿弥陀様は修行に入られた。この時点ではまだ阿弥陀仏ではなく、法蔵菩薩という悟りを求める立場であった。その修行はすでに完成し、それを私たちに伝えるために南無阿弥陀仏の名号となって私たちの世界に届いている。これが南無阿弥陀仏の由来である。

南無阿弥陀仏の由来を聞いて救われることを信心という。親鸞聖人の教えでは、信心が肝要である。念仏も唱えるが、他力の信心を持つ者が浄土に往生するのであり、自力の信心では浄土に往生できないと親鸞聖人は説いた。

ただ念仏して浄土に往生するというだけでは、自力か他力かの区別がつかない。親鸞聖人は、法然上人の説いた教えの中で、他力の信心と自力の信心の違いを明らかにした。それが「教行信証」という書物である。

この「教行信証」は、親鸞聖人が執筆した重要な書物である。浄土真宗の僧侶になる際には、黄色い袈裟と「教行信証」をいただくことになっている。黄色い袈裟は本山の許可で着用できる袈裟であり、学問する時に着用する。つまり、僧侶になったからには、この黄色い袈裟を着て生涯「教行信証」を読み続けるよう示されているのである。

喜びの共有

お坊さんは、むやみに人に教えを伝えようとするのではなく、むしろ親鸞聖人の言葉を生涯聞き続けるべきである。そうすることで、親鸞聖人の言葉と出会い、その喜びが自然と人に伝わるようになる。

私は皆さんを教えようとは思っていない。私が頂いた喜びを皆さんと共有し、一緒に喜びたいのである。何を喜びたいかというと、南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は、我々が耳にする言葉の中で最も尊い言葉であり、他に比べるものはない。

南無阿弥陀仏を日本に伝えたのは弘法大師である。弘法大師は真言、つまり仏様の言葉を伝えた。その真実の言葉のひとつとして南無阿弥陀仏を教えたのである。南無阿弥陀仏は仏様の誠の言葉である。

弘法大師は南無阿弥陀仏を教えたが、その下に蓮の絵を書いて御本尊にしたのは親鸞聖人である。仏教の歴史の中で、南無阿弥陀仏を御本尊にした人は親鸞聖人だけである。

我々親鸞聖人の弟子は南無阿弥陀仏を喜ぶ。それはどういうことかというと、本願が成就して働いている姿が南無阿弥陀仏だということである。この御本尊では、目に見えない仏様を木像として表している。つまり、木像となってくださっている南無阿弥陀仏なのである。

絵になった御本尊は、絵として私たちに届いてくださっている南無阿弥陀仏である。お念仏は声となって私たちに届いてくださっている。文字に書くと六字になるので、六字のお名号の掛け軸は文字となってくださった南無阿弥陀仏である。

南無阿弥陀仏は働きであり、その働きが私たちの世界に届いてくださっているのが念仏であり、御本尊であり、お木像である。南無阿弥陀仏と出会うということは、その働きを信じるものになったということである。

遇う

親鸞聖人は「あう」という字を特定の方法で使用する。普通の「会う」は約束して会うことを指すが、親鸞聖人の使う「遇う」は偶然出会うことを意味する。阿弥陀様の南無阿弥陀仏に出会うということは、私たちの側から言えば予定なく出会ったということになる。

阿弥陀様の側から言えば、阿弥陀様の計らいによっていつかはこの南無阿弥陀仏を、これ以上尊い言葉はないと喜ぶものにしようという働きがあるのである。これを光明という。

信心をいただく方法はひとつしかない。それはお聴聞である。しかし、聴聞して信心をいただこうとすること自体が自力になってしまう。これは難しい問題である。

信心をいただこうという気持ちがなければ、信心をいただくことはできない。しかし、信心をいただきたいと思ったら、ただお聴聞、つまりお話を聞く以外に方法はない。そのために築地本願寺のような場所が存在するのであり、ここが最も大事な場所なのである。

信心をいただかなければ、御本尊の意味もない。しかし、信心をいただいていない人も時々来る。そういう人は、ただ煙をかぶりに来ているだけのようなものである。

信心がある人とない人の違いは何か。それは、正面の御本尊が真の仏であることを理解しているかどうかである。見えない仏様が私たちの見える姿となって届いているのだ。だから、木像の仏様を馬鹿にしてはいけない。見えない仏様が木像になって届いてくださっているのである。

木像なら横からでもお参りできる

皆さん方の仏壇の仏様は、皆さん方の家に阿弥陀様が絵像としてお届けくださっているのだ。仏壇は正面からお参りするから絵像なのである。この本堂の阿弥陀様は横からお参りするので、像になっているのだ。

お木像であろうが絵像であろうが、南無阿弥陀仏に間違いない。これは仏様の呼び声なのである。

「聞」「信」これらの言葉を親鸞聖人は全て同じように使う。「聞く」ということは、それを受け入れるということである。何を受け入れるのか。それは、阿弥陀様が働いていることを受け入れるということである。

阿弥陀様が働いていることを受け入れたら、こちらの計らいはいらなくなる。こちらの計らいがなくなったことを「信心をいただいた」というのである。計らいのない世界を「安心」という。

何に対して計らいがなくなるのか。それは死ぬという問題に対してである。

死ぬという問題は、今ここにある問題である。生きているのは今ここだからだ。ローソクの火のように、火がついているから消えるのである。火がついていなければ消えることはない。しかし、火がついた瞬間から、ローソクが消えるという問題が炎の底にあるのだ。

人間の命の始まりは、母親の胎内に宿った時である。その瞬間から命の火がついたのだ。母親が胎内に命が宿ったと知った瞬間から、それを消してはならないと大切にし、十月十日経って生まれてきた。生まれてきても放っておかれたら死んでしまう。だから、周りの人々が一生懸命育ててくれたおかげで、今ここにいるのである。

しかし、いつ命の火が消えるかわからない。死ぬ原因は病気ではない。生まれたから死ぬのである。死ぬという結果の原因は生まれたということだ。病気や事故は縁であり、因(生まれたこと)と縁が出会うと結果(死)が生じる。

死を正面から受け入れる

これは今ここの問題である。これが人間にとっての最大の苦悩である。多くの人はこの問題を隠したり、ごまかしたりして生きている。「人間はいつか死ぬ」と言うと、そんな当たり前のことを言うなと蓋をしてしまう。

また、ごまかす方法として、神社やお寺に参って「無病息災」のお札をもらってくる人もいる。交通安全のお守りを下げる人もいる。しかし、これらは本当に効果があるのだろうか。

これらのごまかしや避けるのではなく、死を正面から受け入れることが大切である。しかし、人間にとってそれはとても難しいことだ。

そこで、阿弥陀様が「任せなさい。私が解決してあげよう」と言っているのだ。どのように解決するかというと、私たちをお浄土に参るものにしてくれるのである。

信心をいただくということは、私が主体で生きてきた人生が、阿弥陀様主体の人生に変わるということである。これが人生の根本的な変化なのだ。

私たちの考えの延長線上では、努力すれば幸せになれる、努力すればお浄土に参れる、努力すれば信心をいただけるという考え方になる。しかし、人生の主体が変わるという考え方は理解しづらい。

知恩報徳

しかし、そんなに難しい話ではない。信心をいただいた人には、当たり前だと思っていたことが当たり前ではなかったという経験がある。例えば、食事をすることは当たり前だと思っているかもしれない。しかし、食事は命を頂くことであり、食べなければ生きていけない。これは当たり前ではないのだ。

食前の言葉は「多くの命と皆様のおかげによりこのご馳走」というが、「命」に変えた方がより分かりやすい。「多くの命と皆様のおかげによりこの命をいただきました。深く感謝し、喜び、ありがたくいただきます」と言うべきだ。その命をいただいて生きているのだ。その命をどう使っているか。

いただいている背景には生き物の命があり、魚なら魚を取る人、売る人がいて、それによって私がそれを手に入れる。魚を食べるということだけにたくさんの感謝があるのだ。それによって今私が生かされていると気づく世界がある。

私が努力したら幸せになるのではなく、周りの人の努力によって今ここに幸せをいただいていると気づく世界がある。

これはどこから出てくるか。私が努力したら仏様になるのではなく、私より先に阿弥陀様が私を仏にするとご修行してくださった。それが先だ。だから南無阿弥陀仏が先で、その南無阿弥陀仏の謂れを聞いた世界というのは、私が努力すれば仏になれる、幸せになれるという話ではなく、仏様の努力によって仏様にしていただくと気づく世界である。

これがチェンジなのだ。そこからどういう話になってくるか。そのご恩に報いていくという話になる。これが働くということだ。

働くとは、人が動くと書く。これは日本でできた漢字だそうだ。中国にはこの漢字はない。人が動くと働く。はたを楽にする、周りを楽にするのだ。これが働くということだ。

私は今こうして話している。これは私が選んだ道だ。お坊さんになるにも色々ある。お勤めをするお坊さんもいれば、お説教するお坊さんもいる。私がこうやって仏様の話をして皆さんを楽にしようというのは、これを選んだわけだ。だから皆さんのおかげによって私はこうやって今生かされているから、そのご恩に報いる行いが今の私のこの話している法話なのだ。

皆さん方それぞれ仕事をしているだろう。何のためにしているのか。仕事をしてお金を手に入れて幸せになろう。これが我々の世界じゃない?。子供の頃からそう教えられているのではないか。一生懸命勉強しなさい、一生懸命勉強しなさい。そんなにやかましく勉強しろというのは、勉強しないと幸せになれないよと教わっているからだ。

この延長線上で仏教を聞くと、どうやったら信心いただけるのかという話になる。いただけないということは、お前の努力が足りないと言われたら、「そうか、じゃあもっと努力して聴聞して信心いただこう」となる。これはどこまでやってもいただけない。なぜか。自力がなくならない。自力がなくなるということは他力と出会うからなくなる。他力と出会うということは南無阿弥陀仏と出会ったからなくなるのだ。

そしたらどういうことになるか。阿弥陀の努力が先だろう?これに気がついたら、今自分がここにこうしていることは当たり前ではなかったと気づくのだ。おかげ様だと気づくのだ。という人生が始まる。これはどこまで生きたって終わらない。だけどいつ終わろうとも、その終わる時が今度はお悟りの仏になる時であるという安心を頂いているから、私たちは毎日毎日を御恩報謝と感謝して生きられる。

阿弥陀様に対する感謝に報いるのは南無阿弥陀仏のお念仏であり、もう一つは周りの人々に感謝しながら「おかげ様で、ありがとう」と生きていく人生をいただく。これが信心いただくという話だよと言っているのだ。

聖人一流章

教行信証を一番読んだのは蓮如上人だ。蓮如上人が教行信証を読んで読んで読み込んで、誰でも分かるお手紙の形にして残してくださったのが、ここに出てくるこの御文章だ。この聖人一流章というのは、教行信証の内容がたった一枚半の紙に書かれているということだ。


後生の一大事の解決シリーズ一覧


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