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後生の一大事の解決08/阿部信幾先生2023.10.08【仏教・浄土真宗】

後生の一大事の解決08


ホトオリケ

仏教とは仏様の教えを意味し、もう一つは仏になるための教えである。仏になるとはただ死ぬことではなく、お悟りを開くことを指し、これを成仏と言う。お悟りを開くことで全ての煩悩の束縛から解放されるため、欲の苦しみから解放されることを意味する。この解放を「ほどける」とかけて「ほとけ」と呼ぶようになった。つまり、仏様とは一切の苦しみから解放された存在を指す。

親鸞聖人は「仏様」という言葉があまり好きではなかった。日本に仏道が伝わった時、天然痘が流行した。そのため、仏様を受け入れたくない人たちが「仏教が原因で日本の神々が怒り、天然痘が流行した」と考えた。疫病のことを「ホトオリケ」と呼び、それが仏様の悪口となったため、親鸞聖人はこの言葉を避けていた。代わりに「ブツ」や「如来」という言葉を使った。

この世界で悟りを開くのを「聖道門」と呼ぶ。「聖道門」とは聖なる道の門であり、出家を意味する。出家とは在家の生活を離れることであり、在家の生活とは主に結婚生活を指す。具体的には、お釈迦様が王位や家族を捨てて修行に入ったようなものを言う。

聖道門の仏教では大悟を開くためにまず出家しなければならない。現代の日本では出家する人は非常に少ない。実は明治時代まで、浄土真宗以外のお坊さんは結婚できなかった。結婚しているのが発覚すると寺社奉行に訴えられた。明治時代に戸籍ができて、浄土真宗以外の僧侶も結婚が許された。その結果、現在ではほとんどの僧侶が結婚している。これは在家生活であり、出家ではない。したがって、在家生活をしている限り、聖道門で悟りを開くことはできない。

在家で悟りを開くことはできない

仏になれないもののためにあるのが浄土真宗である。阿弥陀様が仏になれない者を仏にすると願いを立てた。仏になれない者を放っておかないのが仏様の本質である。

仏様とは本当の幸せを手に入れた人であり、私たちはまだ悟りを開いていないため、その世界がどんなものか分からない。我々に悟りの世界を示すために極楽浄土の話がある。悟りを知らない者にその世界を教える方法である。

例えば、雪を見たことのない南の島の人に雪を説明するのは難しい。まず、白い砂浜に連れて行き、雪の色を説明する。しかし、触っても冷たくないので、山の冷たい泉に連れて行き、雪の冷たさを説明する。こうして、雪を見たことのない人にも雪が想像できるようになる。

同様に、お釈迦様が解いた極楽浄土も我々が見たことのないものだが、我々の世界で説明するしかない。極楽浄土は宝石のように美しいものであり、それが一体となって輝き合い、邪魔し合わない世界だ。これは出会いによって新しい素晴らしい世界が生まれることを象徴している。

ほんとうのさいわい

だから本当の幸せを手に入れた仏様は本当ではない幸せを追い求めない。本当ではない幸せというのは、いつかはなくなってしまう幸せのことを指す。それを追い求めて、手に入れたときは幸せだと言うが、それはいつかまたなくなる。そうすると、次の幸せを求め、また次の幸せを求めていく。次から次へと幸せを手に入れるけれども、それが全てなくなってしまう。

なくなるような幸せは本当の幸せとは言わない。なくならない幸せをあなたに与えましょうというのが仏様の願いだ。だからあなたを仏様にいたしますという願いを起こしてくださったのが阿弥陀様という仏様だ。これが仏説無量寿経というお経に出てくる。

お釈迦様が大悟を開いたある時、普段と違う姿をしていた。すると、アナンという弟子がいつもお釈迦様の姿を見ているから、「今日のお釈迦様はいつもと違いますね」と言う。「なんで今日はお釈迦様の姿が違うんですか?」と。

今日はものすごく神々しい、光輝くお姿で、「今まで私はこんな姿を見たことありません」と言う。なぜこのような姿をしているのか。仏様と仏様が相念じあうというお説教を聞いたことがある。悟りを開いた者同士が相念じあうのだ。今日はお釈迦様がどのような仏様と相念じあっているのかと言ったら、「実は阿弥陀様と私が相念じあっている。もう言えば、そこにいるのはお釈迦様でありながら実は阿弥陀様だ」ということだ。

阿弥陀様がこの世界に現れてくださった。
それが仏説無量寿経のお説教のお釈迦様だ。そこでお釈迦様が言う。「仏様がこの世に出た原因は何か。それは我々に真実の理を――真実の理というのは、もうちょっと丁寧に言ったら、本当のご利益を与えること――本当のご利益を与えるためにお釈迦様はこのような中に誕生くださった」と。この本当のご利益とは何か。この話をちょっとします。

煩悩

お悟りを開けないのは、我々の煩悩が邪魔しているからだという。煩悩というのは108つだけではなく、無数にある。欲から生じる悩みや苦しみだ。

「煩悩」の「煩」は身体があるから出てくる問題。「涼しくなりましたよね。今年は暑かったですね」といったように、体があるから暑さを感じる。体がなければそんな問題は起きない。「悩」は心があるから出てくる問題。心があるというのは、私たちが欲を持つことだ。それが叶えられたら幸せだが、叶えられないと「なんで自分の人生がこんなふうなんだ」と悩む。だから心があるから悩むのだ。体と心の両方を合わせて煩悩と呼ぶ。どちらにしても、私たちの心や体から煩悩がなくなることはない。これが煩悩だ。

これらの煩悩は無数にあるが、それを縮めると「貪瞋癡」の3つになる。「貪慾」はむさぼり、「瞋恚」は怒り、「愚痴」は物事を正しく受け止められないこと、具体的には因果の道理を信じられないことだ。因果の道理とは、我々の人生を誰が作ったかと言えば、自分が作ったものだということ。神様や仏様が作ったのではない。己の行いの結果を自分が受ける。今私が生きているこの人生は、自分の行いの結果を受けているのだ。これから逃げることはできない。

恨みは恨みによって止むことはない

これを受け入れると、どうなるかというと、お釈迦様の有名な言葉に「恨みは恨みによって止むことはない。恨みは恨みを捨てることによって止む」というものがある。私も若い時にこれを聞いて、まあ当たり前だと思った。恨みは恨みによって止まない。恨みを捨てることによって止む。しかし、これには因果の道理がちゃんとある。人からひどい目に遭わされたということは、自分がひどい目に遭わせたことが返ってきたのだ。いや、自分はそんな覚えはないと言っても、それは生まれてからの話だ。仏教では生まれる前の行いも関係している。だから、生まれる前の行いが今の人生を作っている。これが現実だ。

だから、人からひどい目に遭わされたということは、自分が相手にひどい目に遭わせたことが返ってきたのだ。だから、やり返してはいけないという意味なのだ。「恨みは恨みによって止むことはない。恨みは恨みを捨てることによって止む」。捨てるということは、原因は相手にあるのではなく自分にあったのだと受け入れること。それを受け入れると、仕返しをすることはない。そうすると争いが終わる。これをお釈迦様が説いている。

仏教がないところではどうなるか。新聞を見たらまた戦争が始まったと書いてある。戦争がずっと続いているイスラエルとパレスチナ。今回、パレスチナがイスラエルに入って大量の人を殺した。だから、仕返しに今度はイスラエルが空爆する。そうするとまた大量の人が亡くなる。それをまたやり返す。終わらない。なんで終わらないか。仏教がないからだ。やったらやり返していいという考えがある。やり返すと倍返しする。それを繰り返すと終わらない。

これをお釈迦様は禁じた。自分が受けている苦しみや楽しみはすべて自分の行いに原因があると正しく受け止める知恵が必要だ。この知恵がなければ、正常に物事を受け止められない愚痴に陥る。愚痴に陥るとどうなるか。自分の好きなことにはとことん執着する。それがむさぼりだ。むさぼりは悪いことだとみんな分かるだろう。病気の原因になる。もう一つの病気の原因は、思うようにならないこと。思うようにならないのは、過去にそれだけの行いをしていないからだ。親鸞聖人もはっきり言っている。

宿業

親鸞聖人が唯円という弟子に、「お前、俺の言う通りにできるか?」と尋ねたことがある。唯円は『歎異抄』を書いたことで知られているが、この話もその中に出てくる。親鸞聖人は唯円に「お前、俺の言う通りにできるな?」と確認し、唯円は「もちろんです」と答えた。しかし、親鸞聖人が「じゃあ人を1000人殺してみろ」と言うと、唯円は「そんなことはできません」と答えた。親鸞聖人は「お前さっき、俺の言う通りにやると言っただろう」と続けた。

親鸞聖人はこのやり取りから、「お前が人を殺さないのは、お前の心がいいからではない。過去において人を1000人殺すという種まきがされていないからだ。だから今、俺がやれと言ってもできない」と言った。そして逆のこともおっしゃった。「もし過去に1000人殺すという種まきがされていたら、1人も殺すまいと思っても1000人殺すことになるだろう」とも言っている。私たちが今生きている現実は、すべて過去の行いによって縛られているのだという教えだ。

植木等

植木等さんという人はあのお寺の出身で、「スーダラ節」という歌を歌った人物だ。私は子供の頃からこの歌が大好きだった。歌詞は、「ちょいと一杯のつもりで飲んでいつの間にやらハシゴ酒、気がつきゃホームのベンチでゴロ寝、これじゃ体に言い訳はないよ、わかっちゃいるけどやめられない!」というもので、元東京都知事の青島幸男が作ったものだ。

植木等の父親は住職で、非常に立派な人物だった。彼は戦争中に4回も逮捕されている。なぜかというと、戦争に出かける兵隊の前で「人殺しをするな」と言ったからだ。「生きて帰ってこいよ!人を殺すな!生きて帰ってこい!」と訴えたため、警察が飛んできて逮捕された。

そんな父親の前で、「ちょいと一杯のつもりで飲んで……」という歌を歌うのはまずいだろうと考えた植木等は、ラジオで流れる前に父親に直接歌って聞かせることにした。「お父さん、ちょっと聞いてくれ。今度俺が歌うから、どういう歌か聞いてくれ」と言って歌った。

「ちょいと一杯のつもりで飲んで……」と歌ったが、父親は怒らなかった。「これ誰が作ったの?」「青島幸男」「おお、よう知っとる男や、これ浄土真宗だ」と言ったのだ。

思うように生きられないのはなぜかと言えば、過去の行いが原因だ。逆に、タバコをやめたいと思ってもやめられないのは、それだけの「やめる」という種まきが過去になされていないからだ。要するに、すべては自分の行いによって、自分が苦しみを受けたり喜びを受けたりする。だからこそ、正しく物事を見る知恵を手に入れて、むさぼりと怒りの心を離れたら、それが悟りである。

無碍光

だから、正しい智慧を手に入れるには座禅を組むことが重要だというわけだ。

日蓮宗、浄土真宗、浄土宗以外の宗派はみんな座禅を組む。天台宗や真言宗でもそうだし、禅宗なんかはまさに座禅だけを行う。座禅を組む理由は、智慧を得るためであり、煩悩を消滅させるためだ。貪り、怒り、愚痴の心を消すこと、それが修行である。こうして智慧を手に入れ、仏の悟りを開こうとするのだが、浄土真宗では阿弥陀様を「無碍光如来」と呼ぶ。「無碍光」という名前が重要だ。

親鸞聖人は阿弥陀様の名前を12種類示している(十二光)。その中で一番大切にされたのが「無碍光」だ。正信偈にも出てくる
無量光、無辺光、無碍光、無対光、炎王光、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光。」
これは全て阿弥陀様の別名であり、その中でも「無碍光」が大事だ。無碍光の「碍」は邪魔するものや妨げるものを意味する。だから、妨げるものがないということだ。

では、妨げとは何か。それは私と仏の悟りを妨げるものだ。もっと言えば、超日月光とはお天道様や月の光を超えるという意味だ。お天道様や月の光は妨げるものがあったら届かない。地下鉄の中に入れば昼か夜かわからないのは、月の光や日の光が届かないからだ。だが、超日月光は届かない世界がないという意味だ。どこにいても届く、それが「無碍」である。

もうひとつの意味は、貪瞋癡が邪魔にならないということ。私の側の貪りや怒り、愚痴、もっと言えば智慧がない。だから座禅を組んで智慧を手に入れて悟りを開くのではなく、貪り、怒り、愚痴の三毒の煩悩を抱えて一生涯、その心のままで臨終の一念、その時に私を仏の悟りにするという働きを「無碍光如来」という。

したがって、煩悩を捨てる必要はない。これが親鸞聖人が結婚した理由でもある。

出家は、まず貪瞋癡を捨てなければならないから、結婚生活をやめる必要がある。場所も街では誘惑が多すぎるため、修行する男性が山で修行する際、女性は入ってはいけないというのは男性の都合だ。女性が悪いのではなく、座禅を組んでいる時に女性が入ってくると気が散って座禅が組めないからだ。だから、ここから上は女性が来るなと言っている。女性だけの場所もあり、そこには男性が入るなと言われる。

こうして、なるべく煩悩が起きないような環境で、食事も欲が盛んになるニンニクや肉は食べない。そういうものを離れて、山の中でただひたすら修行するのが聖道門である。

そのままの救い

だから我々の浄土真宗は、阿弥陀様の働きが今ここで既に働いている。そして、その働きは私の煩悩を邪魔としない。このことを阿弥陀様の側から「そのまま救う」と言うのだ。
「そのまま」ということは、条件がつかないという意味だ。阿弥陀様の救いには条件がついていない。これは非常に重要だ。通常、宗教というのは何らかの条件が出される。「信じなさい」とか「唱えなさい」とか「これをやりなさい」といった具合に。宗教は色々違うが、神様にしても仏様にしても救われるために「これをしろ」とか「信じろ」とか「唱えろ」といった条件を出す。これは条件付きの救いだ。一つでも条件をつけたら、その条件に合わない者は救われない。だから阿弥陀様は「私は一切条件をつけないで救う仏になります」と誓ったのだ。

これが阿弥陀様の本願だ。阿弥陀様は「救われる者はそのまま置いておいて、私がこの者を仏にする」と自分に条件をつけた。それが四十八願だ。四十八願というのは阿弥陀様が自分につけた条件だ。この四十八願が全部成就しない限り、阿弥陀様は「仏とは名乗りません。悟りを開いたとは言いません」と言い、ご修行に入って行かれた。

ここまでお釈迦様がお説教すると、阿難が質問する。「お釈迦様、その法蔵菩薩はまだご修行中なのか、それともご修行が終わって仏様になっておられるのか?」と。お釈迦様の答えは、「法蔵菩薩は悟りを開いてからもう十劫という時間が経っておる」と言った。浄土真宗以外の仏教は、この点が迷いの原因だとする。だから浄土真宗では、阿弥陀様の力で仏になるのだ。阿弥陀様の力が邪魔としないということは、私が浄土に参れない、悟りを開けない原因は何かと言えば、阿弥陀様を受け入れない自力心というものだ。これで私はずっと迷ってきた。十劫というのは相当昔のことだ。

これが原因だ。この自力心を捨てるというのは、自力を捨てることだ。自力心を取り除く説教をしてくださったのはお釈迦様だ。これが真実の利益だ。浄土真宗では、お釈迦様の教えを聞いて自力がなくなり、浄土に参る。これが浄土宗で言う念仏して浄土に往生するということとは少し違う。聞いて報じをする。聞くことで私の自力心が取られ、そして浄土参りが決まる。これが浄土真宗だ。

歎異抄の教えは《唱えて往生》

親鸞聖人が29歳の時、ただお念仏を申せば阿弥陀様の浄土に生まれることができるという教えに疑問を抱いた。20年間比叡山で修行を積んだ彼にとって、念仏だけで阿弥陀様の浄土に往生できるのかという疑問があったからだ。この疑問を解消するために、親鸞聖人は法然上人と100日間の問答を行った。

最終的に、法然上人は「阿弥陀様の第十八願が、念仏を申す者を浄土に迎えると誓っている」と説明し、阿弥陀様の智慧がそうなっているため、念仏する者は皆浄土に往生すると納得させた。これにより、親鸞聖人は阿弥陀様のご本願に出会い、法然上人の教えを受けて喜んでいた。

法然上人の教えは、たとえ人殺しをしている武士であっても、一生涯武士のままで浄土に生まれることができるというものだった。これが武士にとっての救いとなり、当時多くの武士が関東に住んでいたこともあり、京都に登って法然上人に会いに行った。武士たちは法然上人の教えを聴聞し、そのまま武士を続ける者もいれば、武士を辞める者もいた。

意外にも、念仏を喜んだのは武士であって庶民ではなかった。法然上人の弟子たちに招かれて関東に下った親鸞聖人は、法然上人の教えを説いていた。

親鸞聖人が問題にしたのは、念仏をする人の中に他力の念仏と自力の念仏の人がいることであった。法然上人は他力の念仏の者は浄土に生まれるが、自力の念仏の者は浄土に生まれることができないと述べた。しかし、念仏が自力と他力でどこで別れるのかまでは明示されていなかった。

法然上人の「選択本願念仏集」には、他力と自力の違いを明示することができていないため、法然上人の教えが誤解される可能性があった。実際、法然上人の教えを伝えた六人のうち半分は自力の念仏を唱えていた。

自力の念仏と他力の念仏の違いを明らかにするために、親鸞聖人は「教行信証」という書物を著した。これは信心の自力と他力を明らかにするものであり、他力の信心をいただくことで浄土に往生することができると述べている。

歎異抄を読む際には、一番最後から読むべきであり、二種深信から読み進める。これは善導大師の教えに基づいている。しかし、歎異抄だけを読んでいると、自力と他力の区別がつかない人も少なくない。

歎異抄を読むだけでは、ただお念仏を唱えれば救われるという誤解が生じることがある。そのため、蓮如上人は歎異抄をやたらに見せるなと言ったのである。当時流行していた時宗は一遍上人の教えに基づき、ただ念仏さえすれば浄土に往生できるという教えであった。

蓮如上人の教えは《聞いて往生》

我々は歎異抄だけでなく、御文章から浄土真宗の教えをいただくべきである。御文章には「唱えて往生」とはどこにも書かれていない。

歎異抄では「唱えて往生」と述べられているが、これでは自力と他力が混同されることになる。蓮如上人は「聞いて往生」と教えた。

「聞いて往生」とは、南無阿弥陀仏の謂れを聞くことだ。蓮如上人の教えでは、信心をいただくことで自力心がなくなる。自力とは疑いのことを指す。浄土真宗における疑いは、阿弥陀様が働いていることを疑うことである。阿弥陀様は今この瞬間も私に届いて働いているが、その働きを疑ってしまうと、自分自身の計らいを持ち出さなければ安心できなくなる。無疑心、すなわち計らいのない心が信心である。

何を聞いて計らいがなくなるかというと、南無阿弥陀仏の謂れである。阿弥陀様は「全てのものを救う仏になる」と誓い(第十八願)、それを成就した。この願いを成就するためには、それを私に知らせなければならない。その知らせ方が重誓偈である。

重誓偈は短い経であるが、非常に重要なことが書かれている。四十八願のうち十八願に基づき、「全てのものを仏にする」と誓い、その後に重ねて三つの誓いを立てた。その誓いを知らせるために、阿弥陀様の名号を私たちの世界に届けて知らせる。

お念仏とは、仏様が我々の世界に届いて呼んでいる姿である。世界は私が目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、体で触れて心で受け止めているから存在している。一人一人が異なる世界を持っている。

その異なる世界に阿弥陀様が届くということは、私の世界に阿弥陀様がもう届いているということだ。その阿弥陀様が届いている、聞こえていることが阿弥陀様が働いている証拠である。仏様はどこにでもいるため、目に見えない。

仏様のいない世界は存在しない。無碍光としてどんな世界にも届いて働いているのが阿弥陀様である。どの場所でも阿弥陀様が働いている。

私の心の中にも阿弥陀様が来ている。阿弥陀様が私のお念仏となり働いているのに、そのお念仏を止めているのが自分自身だ。お釈迦様は観無量寿経で「お念仏を申しなさい」と説いた。お念仏を申しなさいと説いたのはお釈迦様だ。そのお説教を聞きながら念仏しない人は、阿弥陀様の働きを跳ねつけている人である。

南無阿弥陀仏の謂れを聞くと、私の自力心が信じられるようになる。これが信心だ。南無阿弥陀仏は阿弥陀様が働いている姿だ。これが信じられたら、何も問題はない。私の唱えている南無阿弥陀仏のお念仏は、仏様が私に呼びかけている呼び声である。お念仏を唱えて救われるというよりも、唱えているお念仏を聞くことによって救われる。これを信心という。聞くということは、耳から聞くだけでなく、向こうから来た香りを受け止めることや、味を聞くことなど、向こうにあるものをそのまま受け入れることを指す。

浄土真宗の本尊は南無阿弥陀仏であり、その働きである。南無阿弥陀仏が働くと、お念仏の声が聞こえる。春が来たら花が咲くように、仏法もただ本を読んだりインターネットを見るだけではわからない。こういう集まりに参加するべきなのは、お念仏の声が聞こえる場所だからだ。仏様の働きの中に自分がいることを味わうためである。

「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」というのは、自力心がなくなり、阿弥陀様にお任せするということだ。これを信心いただくという。浄土真宗は死んでからの問題の解決を唱えているが、死は明日の問題ではなく、今ここにある。生きている今こそが死の問題であり、これを助けることが後生を助けるということだ。南無阿弥陀仏を聞いてお任せすることが助けられることであり、これによって生きることも阿弥陀様の働きの中になる。

自力心が取られるということは、阿弥陀様の働きの中で生きるということであり、信心をいただくということだ。極楽浄土に往生することが間違いないのかと問われれば、自分では答えられず、阿弥陀様に任せるしかない。これが浄土真宗の核心である。


後生の一大事の解決シリーズ一覧




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