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十二因縁説Ⅱ【仏教の基礎知識05】


内的心理器官(アンタッカラーナ)

意思(マナス)
理智(ブッディ)
我執(アハンカーラ)
心素(チッタ)

仏教、とくに縁起説とサーンキヤ=ヨーガとの関係を明らかにした功績は*ヤコービに帰せられる(「サーンキヤ=ヨーガに基づく仏教の起源」)。サーンキヤ=ヨーガを援用することは縁起説を理解するために役立つことが多いであろう。
その際、忘れてはならないことはサーンキヤ学派の根本的前提である精神と物質という二元論そのものが仏教とは無関係であることである(仏教では物質が実在することを絶対に認めない)。従って、同じないしは表面上では対応するような術語にしても、両派のあいだに意味の相違がある。(p116)

[「仏教(下)」ヘルマン・ベック/岩波文庫]

*註釈:ヤコービは、ナースィキヤ派(サーンキヤ派)と関係のない独自の原始ヨーガを、現存の経典および注釈から復元できると主張している。しかし、ヤコービはその出発点において、経典と注釈を無条件に一体視しているという誤謬を犯していることも指摘されている

純粋にこの学派の文献としては、西紀五世紀後半にパタソヂャリによつて編纂されたと伝へられるヨーガ経(Yoga-sutra)を有するのみである。他にも曾つてヨーガの聖典が存在したことは、マハーバーラタ、ヤージュニャブルキャ法典三-一一〇、及びブーツヤーナの正理疏四-二-四六などから明らかであるが、全て散失し現存しない。従つて、一応ヨーガ学説といへば、この経を中心にみざるをえない。ヤコービはナースィキヤと関係のない独自の原始ヨーガを、現存の経及び疏から復原できるとしてゐるけれども、しかし彼はその出発点において経と疏とを無条件に一体視してかかつてゐるといふ誤謬を犯してゐることが、吾が金倉教授によつて指摘された。

ヨーガ哲学に関する二、三の問題- 高木伸元_1959

仏教では、サーンキヤのように、超感性的で微細な質料とは言わず、精神的生起の段階の系列を説くのである。それだから、この系列の最後の支分を “肉体的物質” とか “物質的身体をそなえること” とか言わず、単に “苦悩という精神的概念” とのみ言うのである。われわれが肉体的物質と名づけるもののうちで、仏教にとって本来的に実在するものは、ただ苦悩のみである。もしも、われわれがこのことをありのままに正しく念頭に置くならば、仏教とサーンキヤとを対比させても、誤解を生ずる危険性はもはやありえない。(p120)

仏教では、無明とは、四つの尊い真理について無知である、と説明される(たとえば、「相応部経典」)。サーンキヤの考え方では、展開の系列が質料の凝固する過程であると見る。仏教の無明は、サーンキヤで言うと超感性的な根本質料にあたる。縁起説において無明というのは迷妄の勢力なのであって、個人の中に反映し、苦悩の真理に関する無知として現われるのである。
そこで、無明とは、すでに前の生涯から新しい生涯に持ちこまれた迷妄の胤であるとみなし、そういう迷妄の胤が原因となり、業の法則に従って、必然的にこの新しい生涯がひきおこされた、と考えても差し支えないのである。(p122-124)

ヨーガの学説によれば、現在のいろいろな表象作用は、ひとたび忘却されると、潜在意識の中に沈下し、そこで形成力〔〕として活動を続け、あるいはまた刺激を与えられれば再び意識上の想起を形成するが、それと同じように欲情と妄念とのあらゆる活動(『ヨーガ・スートラ』1・5)も、その痕跡を潜在意識の中に留め、いわば潜在意識となった生涯の回想のようになり、将来の生涯と運命とに対して形成力として作用する(『ヨーガ・スートラ』2・12)。(p124)

行の次に生起するものは〔〕である。これはすでに意識されているが、まだ超個性的な霊的存在である。これはサーンキャで言う宇宙的な覚に対応する。仏教の場合とは異なり、サーンキャにおいては、この覚は質料の最も微細な発展形態、すなわち質料の最初の展開であるとみなされている。次にその識から、個性の仮象と陰影〔名色〕とが展開し、続いて超肉体上の感官〔六入、六処〕が展開する。(p125)

十二因縁の中で、感官がよってきたるところの高度な本質的支分を“名と形”[名色]という。サーンキャの心理学で言えば、“自我意識”[我慢]が対応するが、本来の意味は“我の作者”である。サーンキャでも、この我慢は単なる妄想にすぎないとみなされている。
したがって当然のこととして、仏教ではサーンキャで我慢と名づける原理に対して別の名称を選び、ここで問題となっているのは真実の我ではなくて、人格の仮象ないし幻影にすぎないこと、名称と形態という外面的現象によって、いわばその人格が単一的存在であるかの如き錯覚を起こさせることを表現したのである。(p121)

“六処・触・受・渇愛”というのは、肉体的に組織された個人的ないし人間的な存在者の心のはたらきを言うのではなくて、心霊的存在者の心のはたらきを言うのである。そのような心霊的存在者が受胎の際にはじめて“存在”となり、感性的ないし物質的な現在と結合するのである。この心霊的存在者は現世の受胎以前に存在する人間の超感性的構成部分[五蘊]をそなえ、仏教ではガンダルヴァ[乾闥婆、香陰]と名づけられる。(p118)

“有”とは単に存在というだけの意味であり、つまるところ肉体的ないし現世的存在を意味する。人間は誕生の際にはじめてこの肉体的存在に完全に入るのだが、この肉体的存在のはじまりは受胎である。そこで、われわれはこの意味で、縁起における“”という言葉をまさしく“受胎”と訳してもよかろう(多くの解説者たちも正しくそのように理解していた)。(p117-118)

[「仏教(下)」ヘルマン・ベック/岩波文庫]

サーンキヤ哲学

「インテグラル・ヨーガ」スワミ・サッチダナンダ著、めるくまーる、p74

真我プルシャ
自性プラクリティブッディ我慢アハンカーラ
マナス + インドリヤス(眼・耳・鼻・舌・皮)
 語・手・足・排泄器官・生殖器官
五唯タンマートラ(色・声・香・味・触) → 五大(地・水・火・風・空)

ブッディ我慢アハンカーラマナス 総合してチッタと呼ぶ

サーンキヤ哲学の体系では、対象を視覚的に捉えることが重要視される。科学者が脳を調査する際、脳の働きを科学的に観察するのと似ている。
仏教徒の視点からすると、外部から対象として捉えるものは感覚器官と同様に扱われる。理智、我執、意思、心素(チッタ)などをまとめて内的心理器官(内官)と呼び、感覚器官の延長線上にあるものとして捉える。
しかし、これらは仏教で言う「意識」とは異なる概念である。マナス(意思)は内官、つまり内的心理器官(アンタ―カラナ)の延長線上にあるものであり、仏教での「意識」とは別のものである。この違いを理解することが重要だ。

仏陀が答える、「眼は汝のものであり、……耳は汝のものであり、……(再び前と同じく感覚器官と感覚の対象との長い枚挙が続く)。汝、悪者よ、だが眼……耳……その他が存在しないところに、汝は出入りできない」(ヴィンディシュ「マーラと仏陀」の翻訳による)。マーラは“ナムチ”とも呼ばれるが、それは本来はインドラ神に敗れた“感性に属する悪魔”の名であり、矢をたずさえた“愛の神”として現れる。(p80)

ラマ僧たちは、果実をもぎとる画によって“取”を表現したが、これはいわば“リンゴ(楽園の果実)を口にすること”に相当し、言い得るならば、まさに仏教における“堕罪”である。縁起説が抽象的な概念を羅列して言わんと欲するのは、他の宗教で“堕罪”と名づけるものに相当するのであって、それは“物質への堕落”と名づけてよいとも思われる。ただし、この場合注意しなければならないのは、物質という範疇は仏教には無縁であり、他の宗教の立場から見れば、“罪によって物質に堕すること”と思われるかも知れないが、仏教では、そのことを“迷妄によって苦悩に堕する”という。(p127-128)

“六処・触・受・渇愛”というのは、心霊的存在者の心のはたらきを言うのである。この心霊的存在者は、仏教ではガンダルヴァ[乾闥婆、香陰]と名づけられる。注目すべきことに、「中部経典」第38経は主として縁起を扱っている重要な経典であるが、そこではやはりガンダッバ[香陰]に言及している。そこで説かれていることによると、人間の肉体が成立する際に、父と母との共同社業のみではなく、そのほかに超感性的ないし心霊的存在者が上方の世界から降りてきて参加するという。(p118)

縁起

十二因縁説は縁起というものが元になっている。よくブッダは縁起を悟ったという言い方をするが、では、縁起とは何だろう?

[縁起]
これがあるとき かれがある
これが生ずるから かれが生ずる
これがないとき かれがない
これが滅するから かれが滅する

『サンユッタ・ニカーヤ』12.49.3,5

縁起とは、これらの条件を満たしていることを指し、「これ」と「かれ」が縁起の関係にあるということ。ブッダは、この縁起の関係に基づいて、無明から行が働き、生まれ変わりに至るメカニズムを察知した。そして、これらは連鎖したものと考えた。しかし、この縁起という関係は、通常の意味あいでの理性や論理学に全く適合しない。

四行をよく簡略化して以下のように二行で説明されることがある。
・「これ」があるとき「かれ」がある
・「これ」がないとき「かれ」がない
縁起とは、この二項目を満たすものだという解釈をする例が非常に多い。しかし、ブッダの悟った縁起は、四行が全て成り立たなければならないため、二行に簡略化してはならない。

また、論理学のように解釈して理解しようとする人もいるが、これも全く無意味になってしまう。縁起というのは因果関係のもっと強力なものである。因果関係というのは、「これがあるとき、かれがある」「これが生ずるから、かれが生ずる」これを因果関係と言う。「これ」が時間的に先で「かれ」が時間的に後である。因果関係というのは必ず時間の前後を含んでいるわけで時間の中にあるものだ。
だから、その因果関係の中でさらにきちっとしたもっと強固な関係になっているもので、「これがない時、かれがない」「これが滅するから、かれが滅する」というような状況であるため、生じたり滅したりする時の、直接の因である。「直接の因」になっているもの、それを縁起と言う

単なる因果関係だったら複数の因があってもいい。複数その因を生む何かがあって、それがひとつの果を生む。そうするとその複数の因は全部因果関係の因になる。ところが、縁起の関係というのはひとつである。「これ」が生じると次のが生じ、「これ」が消えると次のが消えるという関係。ほぼ1対1の関係である。これを論理的に解釈するとめちゃめちゃになってしまう。論理学というのは時間というものが全く考慮に入れられていないからだ。

・「これ」があるとき「かれ」がある $${x⇒y}$$
・「これ」がないとき「かれ」がない $${¬x⇒¬y}$$

これを論理学で考えるとまったくおかしなことになる。
 $${¬x⇒¬y}$$の対偶は、$${y⇒x}$$となる。したがって$${x⇔y}$$($${xとy}$$は同値)。

論理学は時間の概念を無視しているから、論理学は、同じ時間、同じ次元でないと成り立たない。縁起というのは論理学の領域を超えてしまっているため、縁起については、数学的な知性や論理的な知性では全く対処ができない。

さらに推し進めると、$${y⇒z}$$、$${¬y⇒¬z}$$も成立することになり、$${x⇒z}$$、$${¬x⇒¬z}$$もまた成立することになる。
これが論理学的な考え方だが、ブッダの説く縁起というのは直接連結してる二項目のことを言うのであって、$${x⇒z}$$ のように、間に$${y}$$が入るような$${xとz}$$の関係のことを縁起と言わない。

縁起というのは、連続する直接力を受け渡す二項でなければならない。「これが生じてかれが生じる」「これが滅するからかれが滅する」という関係にならないと、その生まれ変わりに至る十二の連鎖が成立しない。
これにより、生まれ変わりの過程が説明されるので、最初の因を滅ぼせば生まれ変わりを滅することができる、すなわち解脱できるというブッダの教えが成り立たなくなる。

したがって、「これとかれ」の連続する連鎖によって生まれ変わりのメカニズムを説明する必要がある。この連鎖が四つの項目をすべて満たすものであることが重要である。これが十二の因縁ということになる。

参考文献


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