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後生の一大事の解決01/阿部信幾先生2023.10.05【仏教・浄土真宗】


後生の一大事の解決01

後生の一大事の解決という題でお話をいたします。

後生の一大事というのは、言葉としては古いが、最近では「後生」という言葉はほとんど使わなくなった。この言葉は、昔はお願いするときによく使われていたが、今では時代劇くらいでしか耳にしない。「後生だから」と言ってお願いする場面が多かった。

言うまでもなく、これは仏教用語である。
今、我々が生きてる、これを現生げんしょうという。
生まれる前を前生ぜんしょうという。生きてる、ということでしょうという字を使うが、その場所…場所的に言うと、今生きてるこの世界を現世げんぜ と言う。(人生のこと)
生まれる前の世界を前世ぜんせと言う。そして後世ごせ
前世・現世・後世~これを三世さんぜという。

これを仏教的に説明すると、お釈迦様が説いている。
お釈迦様はさまざまな説教をなさり、その説教がほぼ100年後にアショーカ王という王様の時代に広まった。アショーカ王はインドを統一したが、その過程で相当な殺戮が行われた。しかし、アショーカ王はその悲惨な姿を見て胸を痛め、出家してお釈迦様の弟子となり、仏教を広めることを決意した。

インドでは、書いたものよりも口伝え(口伝)が重んじられる。
なぜなら、書いたものは読んだ人の解釈が入るため、人それぞれで解釈が異なるから。お経も同様、人によって受け取り方が違う。そのため、口伝えが最も正確だとされる。

お釈迦様が亡くなった後、弟子たちは最初に「結集けつじゅう」と呼ばれる会合を開き、お釈迦様の教えを整理した。
リーダーとなったのはアーナンダという弟子で、お釈迦様の一族の一人であり、一生をお釈迦様と共に過ごした。

アーナンダは、お釈迦様のお説教を多く聞いたため、「多聞第一たもんだいいち」と呼ばれた。お釈迦様の弟子たちは、それぞれ特定の能力に秀でており、アーナンダは多くの教えを聞くことに長けていた。

また、アーナンダはお釈迦様が亡くなったときも枕元にいたほど、お釈迦様の近くにいた弟子である。そのため、お釈迦様の教えを最も多く聞いた人物とされ、「多聞第一」と称されている。

お釈迦様の弟子たちには、それぞれニックネームのようなものがあり、例えば座禅が得意な者や神通力に優れた者などがいる。お釈迦様は全ての能力を持っているが、弟子たちはそれぞれ特定の分野に秀でていた。アーナンダはその中でも特にお釈迦様の説教を多く聞いたため、多聞第一と呼ばれた。

お釈迦様が亡くなった後、弟子たちは集まってお釈迦様の教えを整理し、それを後世に伝えるために結集けつじゅうを行った。これが仏教の経典の始まりである。

お釈迦様が亡くなった後、教団をまとめたのはアナンではなく、摩訶迦葉という弟子であった。一般的に、亡くなった後のリーダーは火葬を司る。お釈迦様の火葬においても、摩訶迦葉が戻るまで誰も火をつけることができなかった。これは摩訶迦葉がリーダーであることを象徴する逸話だ。摩訶迦葉が帰ってきて火をつけたことで、火葬が始まった。
摩訶迦葉がリーダーだったが、一番説教を聞いていたのはアナンであり、彼が経典や言葉を整理した。

記憶するためには詩の形が一番適している。散文は記憶しにくいため、詩の形にして韻を踏むことで覚えやすくする。こうして経典を整理し、100年間口伝えで伝えられてきた。その後、アショーカ王が仏教の教えで国を治めようとした際、教えを広めるためにお釈迦様の言葉を文字にすることが重要とされた。これにより経典が作られ、インド全国に広まった。そしてシルクロードを通じて中国や朝鮮に伝わった。その際、インドの言葉で書かれた経典が漢文に訳された。

面白い話があって、中国人には国ごとに特徴があるが、日本人ならインドから直接伝わった経典を宝物として保存するだろうが、中国では翻訳が終わると原本を焼いてしまうことがある。このため、インドの経典は残っていない。なぜそうするのか。中国の学者は適当なことを言うが、それでも理由を聞いたことがある。

私は何度も中国に行ったことがあるが、翻訳した人が大変な仕事をしたので、その努力をもう一度させないように焼いたと言っていた。しかし、これは少し違うと思う。なぜなら、原本を残しておくと勝手に訳されてどれが本当かわからなくなるからだ。

インドから直接経典を持ち帰った玄奘三蔵という人がいた。この人は14年間シルクロードを行き来し、インドのナーランダ大学で教授をしていた。彼がインドの人々に教え、中国に帰ってきて経典を翻訳した。そのため、彼の翻訳には絶大な自信があった。

玄奘三蔵

玄奘三蔵は、中国人でありながらインドで非常に尊敬されていた僧侶だった。彼が運んできた経典が中国で翻訳され、それが日本に伝わった。我々はそのおかげで今でもお経を読むことができる。

お経には、生まれる前や死んだ後についての質問自体が、もう仏教の教えとは言えない。お釈迦様は「ある」と言っているからだ。
お釈迦様の説教は相手に応じて変えるものであり、般若心経もその一つだ。般若心経は菩薩向けであり、一般の人向けのお経ではない。

般若心経が流行した理由

般若心経が流行したのには理由がある。
薬師寺を作った高田好胤という人物がいた。薬師寺には檀家がなく、お葬式もしてはいけない。学問のお寺だからだ。高田好胤が館長を務めていたが、お葬式は西本願寺が行った。そのため檀家もいなかった。
高田好胤は五重塔を再建したかったが、そのための資金がなかった。そこで写経をすすめた。長いお経では人々は写経しないため、最も短い般若心経を選んだ。
薬師寺に行くと、20分ほどの説教がある。高校生でも観光客でも必ず聞くことになる。そして最後に「どうぞ皆さん、写経のセットを買ってお帰りください」となる。写経セットを家に持ち帰り、写経をして薬師寺に送ると、本堂にその写経がずっと残るということで、般若心経が流行した。

しかし、般若心経の説教自体は悟りの一歩手前まで行った人間に向けてのものだ。生まれるものもなければ死ぬものもないと書かれている(不生不滅)。これが分かれば般若心経の意味が分かるということだ。

生まれるものがないと聞いてどう思うか?
「私が生まれてきたんだ」と答えるかもしれないが、「私」とは何かという問いに直面することになる。しかし、般若心経を読むと、生まれるものがないから死ぬものもないということが悟りなのだ。生まれたということがないから、死ぬということもないのだと説かれている。これが悟りであり、死の問題が解決する。

だから、般若心経を写経するだけでは解決しない。内容が自分にぴったり合わないと意味がない。般若心経という説教は菩薩向けであり、凡夫ぼんぶには向かない。我々は凡夫である。

凡夫とは、菩薩との違いは生きる目的にある。大多数の人は悟りを求めて生きていない。これが凡夫である。生まれてきたからには仕事をして、食べていくために働く。ある程度お金が貯まったら家を建てるなど、そうしたことを目標に毎日を過ごす。凡夫は仏様になるために生きているわけではない。ここが違う。

菩薩とは

菩薩とは、ボーディーサットヴァというインドの言葉から来ている。「ボーディー」は悟り、「サットヴァ」は有情、つまり生き物を指す。悟りを求めて生きる人をボーディーサットヴァ、つまり菩薩という。

仏教の教えには菩薩がたくさん出てくる。
例えば、お釈迦様と出会った人が出家をする前は凡夫であった。我々と同じように生活が大事であった人々が、お釈迦様と出会い、あれになりたいと思うようになる。しかし、それは単にお釈迦様になりたいというのではなく、お釈迦様が幸せそうであったからである。

我々は仏様を知らないから、その教えを聞いてどうなるのかと疑問に思うが、当時の人々はお釈迦様を直接見て、その違いを感じ取った。お釈迦様の見ている世界は我々の見ている世界とは違い、それが非常に幸せなものであった。体中から幸せのオーラが出ているような存在であった。

お釈迦様にとって、老病死は問題ではなかった。我々は老いや病気、死を問題とするが、お釈迦様はそれを問題としなかった。これは、そのような現実を受け入れることができるという意味である。この世界をお釈迦様は手に入れたので、幸せであった。

しかし、我々は生まれてきたことを祝い、死んだら葬式をする。医者に余命を宣告されたら悩む。これが我々の生きている世界である。この現実に対して、お釈迦様の教えは適用されるのかという問題がある。

六道輪廻

仏教における生まれ変わりの考え方も、霊界のような他の世界に生まれ変わるというものではない。六道輪廻といい、六つの迷いの世界があるとされる。悪い方の三つは地獄、餓鬼、畜生である。良い方の三つは人間、天、アシュラである。アシュラは戦争の世界を表し、インドラという神様と年中戦争している神である。これが六道輪廻の説明である。

同じ神様の世界でも争いがある。それを修羅場といい、阿修羅がその象徴である。仏教では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六道があり、その中で天上界が天国に相当する。仏教では天国とは言わず、天上界と呼び、神々の世界を示す。その神々の世界は33あると言われている。

仏教では、天上界は善行の結果として生まれる世界である。善行には様々なレベルがあり、そのために33もの天上界が存在する。善行によって生まれる世界は行為によって作られる。行為はインド語でカルマといい、これを漢字で「業」と訳した。カルマは特に深い意味はなく、ただの行いである。私たちの行いが自業であり、それが自分に返ってくる。

自業自得

行いには、身体で行う「身業」、言葉で行う「口業」、意思で行う「意業」の三種類がある。これらの中心は心であり、心で思ったことが言葉や行為に現れる。したがって、心が中心である。自分が行った行いがどうなるかは自得、自分が受けることである。この人生は、ここで私がやった行いの結果であり、生まれていく世界は自分が作った世界である。

地獄は心配する必要はない。地獄に落ちる原因を作らなければ地獄には落ちない。地獄に落ちる原因とは、自分以外の者に地獄を味わわせること。それが自分に返ってくるのだ。仏教では命を平等に見ており、動物も人間も等しいとする。人間に生まれたことは結果であり、原因があるから人間に生まれた。

人間に生まれる行いをやったからこそ、人間の世界に生まれる。自分が作った世界はこれであり、苦も楽も全部自分が原因である。これを他人の原因にするのは愚痴であり、愚痴は知恵が正常に働いていない状態を指す。愚痴の「知」は知恵の「智」が病んでいる状態であり、まともに物事を受け止めていない。

苦しみの原因

自分が今受けている苦しみの原因が周りにあると思っている。例えば、物を盗まれたとき、大切な物を盗まれたら気持ちが収まらない。しかし、それも自分がやったことが返ってきた結果であると考えるべきだ。自分のやったことは全て自分に返る。これが仏教の基本的な考え方であり、これによって人生を理解する。

お釈迦様の教えに「恨みは恨みによってやむことはない。恨みは恨みを捨てることによってやむ。これは永遠の心理である」というものがある。これは普通のことだと思う。恨みを恨みで返しても終わらず、恨みを捨てることで初めて終わるという当たり前のことである。しかし、この教えの背景には「人からされたことは自分がやったことである」という考えがある。だから、やり返してはいけないのだ。

私は半沢直樹が好きだが、あれは「倍返し」でしょ。やられたことが自分がやったことの返りだとしたら、倍返ししても、その倍返しがまた返ってくる。それが争いが終わらない原因だ。だから、仏様の教えがないと争いは終わらない。

(31:00)

仏教では生まれ変わる世界がどこかにあるのではなく、この世界が全てである。仏教は今を重視し、明日のことは言わない。明日が来るかどうか分からないからだ。生きているのは今であり、明日のことを考えるのではなく、今を生きるのだ。

悟りの世界

浄土真宗では、臨終の時に、悟りを開く。
前世が終わり、今の世が始まった。この間の中間状態がある。
中間の状態で《中陰》という。四十九日とはこのことを言っている。
浄土真宗では臨終の時に悟りを開き、その悟りの世界を極楽浄土と言う。
これは天国ではなく、悟りの世界だ。
我々は悟りの世界を見たことがないから説明が難しい。

例えば、雪を見たことのない南の島の人に雪を説明するのは難しい。まず、白い砂浜に連れて行き、雪の色を説明する。しかし、触っても冷たくないので、山の冷たい泉に連れて行き、雪の冷たさを説明する。こうして、雪を見たことのない人にも雪が想像できるようになる。

同様に、お釈迦様が解いた極楽浄土も我々が見たことのないものだが、我々の世界で説明するしかない。極楽浄土は宝石のように美しいものであり、それが一体となって輝き合い、邪魔し合わない世界だ。これは出会いによって新しい素晴らしい世界が生まれることを象徴している。

悟りを開くことを「生まれる」と表現している

臨終の時に悟りを開くことを「そこに生まれる」と表現するのは、我々が「生まれてきた」と祝い、「死んでいく」として葬儀を行う世界に生きているからだ。
つまり、生まれるものも死んでいくものもないと説かれても、我々の現実にはそれが通用しない。生まれて赤飯で祝う、死んで葬式を行う、そんな世界に我々は生きているからこそ、これが問題になるんだ。
では、これが終わる時は、どこで変わるのか?もう四十九日はない。

臨終……
親鸞聖人が最も喜んだのは「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」ということ。
臨終一念の夕べとは、私の臨終のその最後の一瞬を指す。その時に大般涅槃、すなわちお釈迦様が開いた悟りが現れる。だから、阿弥陀様に全てを任せた人は、そういう人に対して、そのことについてお話しましょうということだ。。

信心いただくということは自分の計いがなくなること

信心いただいた人について話す。信心いただくというと、何かをもらうように思う人が多いが、信心いただくということは、自分の計いがなくなるということだ。しかし、時間が限られているので、結論だけを述べて終わりにする。

迷いの世界にいて、四十九日たって、今回は人間に生まれてきた。このことがわからないから、これが死ぬことだとは思っていなかった。
明日のことではない。今ここにしかないのだ。これ以上の例えが思いつかないので、いつもこれで説明する。(火のつかない木で出来たろうそくを指して)偽物ではなく、本物の話である。この木で出来たローソクは、火がつかないからこそ、火が消えない。しかし、ホンモノのローソクは、火をつけた時から消えるという問題がある。

では、生きているというのは今の話であり、死ぬという問題も同時に今ここにあるということ。この問題が解決されるという話だ。

どう解決したらいいかというと、阿弥陀様にお任せするということ。
阿弥陀様が解決してくれる。私が解決できないことを、阿弥陀様が見抜いている。阿弥陀様が南無阿弥陀仏という声をかけている。
名号が絵像になり、お姿となる。名号が現れている姿であり、働きである。名号が聞こえるということは、阿弥陀様が働いている証拠だ。南無阿弥陀仏が声になると、念仏になる。私が唱えたからではなく、阿弥陀様が動いているから私が唱えるのだ。南無阿弥陀仏は働きである。

信心いただく

信心いただくというのは、阿弥陀様にお任せすることである。信心いただく時に往生が始まる。阿弥陀様が聞こえているということが、私が仏になる証拠である。

往生浄土の人生というのは、今までの迷い続けてどこに生まれていくか分からない人生とは違うんだ。信心をいただくというのは、阿弥陀様にお任せする一念のところから始まる。信心をいただくことで、往生浄土の日暮らしを得ることになるんだ。これが信心をいただくという話なんだよ。

死ぬ時に往生するのではなく、信心をいただいた時から往生が始まるんだ。浄土に往生していく日暮らしがそこから始まるんだよ。そして、臨終の一念の時に悟りという花が咲く。その最中に、我々は今いるということなんだ。今、仏様になりつつある真中にいるんだよ。

それをどう言うかというと、南無阿弥陀仏が聞こえていることが、私が仏になる確かな証拠なんだ。

後生の一大事の解決シリーズ一覧


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