見出し画像

後生の一大事の解決02/阿部信幾先生2023.10.05【仏教・浄土真宗】


後生の一大事の解決02

後生の一大事の解決について話をする。
最近では「後生」や「後生の一大事」という言葉をあまり耳にしないが、これは古い言葉であり、蓮如上人の時代にさかのぼる。

蓮如上人は親鸞上人の200年後、室町時代の人物である。
蓮如上人によって浄土真宗が日本に広まったと言っても過言ではない
彼を「中興上人」とも呼び、「御再興」という言い方もある。御再興とは、壊れていたものを再び立て直すことを意味する。

つまり、浄土真宗の教えが本来のものではなくなっていたところに蓮如上人が現れ、浄土真宗を再興したということだ。この「御再興」という言葉が「後生の一大事」という意味を持つ。

亡くなった後に弟子や息子たちが集まり、蓮如上人の言葉や語録を記録したものがある。それを編集してまとめたのが『蓮如上人御一代記聞書』である。

この『蓮如上人御一代記聞書』には、ご再興の言葉がどのように出てくるかというと、親鸞聖人以来「〈弥陀〉をたのめ」と言われている。「頼む」というのはお願いするという意味だが、蓮如上人が使う「頼む」はその意味ではない。

親鸞聖人が最初に「頼む」と言ったのは、阿弥陀様に任せるということを「たのむ」としたからである。その字は「憑依」の「憑」であり、「憑む」と書く。

親鸞聖人が「憑む」を使っており、親鸞聖人以来、代々の文書でずっと「たのむ」と言ってきた。蓮如上人で八代目である。だから「〈弥陀〉をたのめ」、つまり阿弥陀様に任せるということはずっと言われてきた。しかし、任せるということが具体的にどういうことかは言われていなかった。

それを蓮如上人が「後生を助けたまえと一心に弥陀を憑め」という言葉で再興した。

「後生」という言葉について説明すると、仏法は成仏する教えであり、この私が悟りを開いて仏になることを指す。それを自ら悟りを開いて仏の姿を見せてくれたのがお釈迦様である。

仏教は、お釈迦様と出会った人々が「私もあなたのような悟りの仏になりたい」と思ったことから始まる。お釈迦様と一緒に修行した弟子たちが最初はまだ悟りを開く前であった。お釈迦様の修行は他の修行者と比べ物にならないほど激しく、苦行と呼ばれるものであった。断食や自分の肉体を痛めつけることで精神を高めるという考え方であった。

お釈迦様は食べ物を制限し、骨と皮だけの姿になるほどの苦行を行った。その姿は今もパキスタンにある釈迦苦行像に残されている。一緒に修行していた弟子たちは「この人は間違いなく悟りを開くだろう」と考え、5人の修行者が共に修行した。

ある説では、お釈迦様のお父さんが出家したお釈迦様を護衛させるために家来を修行者に仕立て、お釈迦様を守らせたというものがある。5人の修行者と一緒にお釈迦様が修行していた。尼連禅河という川のほとりでお釈迦様が苦行をしていた時、船が登ってきた。その船には音楽を奏でながらインド各地を巡る学士とその子供が乗っていた。親が子供に「弦を強く張りすぎると切れるぞ」「緩めすぎると良い音が出ないぞ」と教えた。この話を聞いたお釈迦様は「悟りとは弦を強く張りすぎず、緩めすぎず、程よい張りを持つことだ」と悟った。

中道の悟り

苦行や快楽を求める生活の両方を離れて、真ん中を取ることが「中道」である。中道とは苦と楽の真ん中を通ることを意味する。

苦行でもなく、快楽でもない。それが真ん中であり、悟りに至る道だ。お釈迦様が悟りを開いたとき、最初に誰に教えようかと考えた。お釈迦様は悟りを開く前に二人のお師匠について修行していた。しかし、二人ともお釈迦様の満足する悟りには達していなかった。

お師匠たちは驚いた。何年もかかって到達した境地に、お釈迦様が数日で到達してしまったのだから。お師匠たちは「これはすごい」と喜び、「私と一緒に弟子たちを指導してくれないか」と頼んだ。しかし、お釈迦様は「これは私の求めている悟りではない」と言って最初のお師匠の元を離れ、二人目のお師匠についた。

二人目のお師匠もまた、お釈迦様の満足する悟りには達していなかったため、再びお師匠の元を離れた。悟りを開いたお釈迦様は、まず最初のお師匠に教えようとしたが、そのお師匠は一週間前に亡くなっていた。次に二人目のお師匠の元へ行ったが、そこでも同じことを言われた。「ついこの間亡くなりました」と。

そこでお釈迦様は、最初に苦行を共にした五人の修行者の元へ向かった。それはベナレスという場所で、ブッダガヤから100km以上離れたところだ。車で行けば一日だが、歩いて向かった。

五人の修行者は、お釈迦様が堕落した者だと思い、知らん顔しようと決めていた。しかし、お釈迦様が近づいてくると、その尊いオーラに圧倒され、一人が立ち上がりお釈迦様の元へ行った。「あなたはどうしたのですか?」と尋ねた。その時、お釈迦様は「悟りを開いた者をあなたと呼んではいけない」と答えた。

「では、悟りを開いたのですね?」と聞くと、お釈迦様は「私は悟りを開きました」と答えた。これが仏教の始まりだ。悟りを開いたお釈迦様と出会った者たちが、「私もその悟りを開きたい」と願い、仏教は本当の幸せに出会う教えとして広まっていった。

臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

しかし、私たちは悟りを開こうと思って生きているわけではない。
親鸞聖人が喜んだのは、臨終の時に悟りを開くということだ。親鸞聖人の「教行信証」にも「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と書かれている。大般涅槃とは、釈迦が80歳で亡くなった際の完全なる悟りを指す。それが自分にも起きることが喜びなのだ。

臨終に悟りを開くことが確実だが、そのことを忘れてもよい。なぜなら、阿弥陀仏の働きによって悟りを開くからだ。浄土真宗の教えは他の仏教と決定的に異なる点がここにある。他の仏教は、自らの行によって悟りを得ると教えている。

お経には様々な行が説かれているが、それはお釈迦様が相手に合わせて説いたからだ。つまり、仏教は一つの教義に基づくものではない。キリスト教やイスラム教とは異なる。

キリスト教は、聖書に書かれているキリストの教えに基づいている。イエス・キリストが十字架にかかった意味は、全人類の罪を背負い、許されたという教えである。しかし、これはイエス・キリストが亡くなった後に弟子たちが考えた教えだ。イエス・キリスト自身は、自分が神の子だとは言っていない。

イスラム教はコーランという神の言葉に基づいている。コーランがなければイスラム教は成立しない。

だから仏教というのは、お釈迦様が説いた聖典があるわけではない。
お釈迦様が人に合わせて説いた教えが言葉になって残されたのが経典である。だから八万四千の法門といわれるが、なぜ八万四千もあるのかというと、八万四千の悩みがあるからだ。我々の側の悩みが八万四千あるから、その八万四千の悩みを解消する教えが八万四千あるというわけだ。相手に応じて教えを説いているから、内容が異なるのである。

浄土宗と浄土真宗の違い

しかも、行を与える。だが、その行によって悟りを開くという部分は同じだ。例えば、浄土宗と浄土真宗では一文字しか違わないが、どこが違うかというと、浄土宗は「念仏は私の行」である。私が「南無阿弥陀仏」と唱えると、そこから先は他力になる。私が「南無阿弥陀仏」と唱えることは「助けてください」という意味であり、助けてくださいというのは、お浄土に生まれさせてくださいとお願いすることだ。だから、「助けたまえ」とお願いするのが浄土宗の念仏である。

この「助けてください」というのは、私が「南無阿弥陀仏」と唱えているのを阿弥陀さまが聞いて助けてくださるからである。助けてくれというところまでは自力であり、そこから先が他力である。だからあくまでも「行が念仏」である。ここが違うのである。

禅の場合は禅であり、真言の場合は真言の三密、加持の行である。護摩を焚いたりする。天台も行が異なる。だから皆行を行い、悟りを開く。行を行い悟りを開く。これが浄土真宗以外の教えである。

浄土真宗以外では「いずれの行も及びがたき身」である。何をやっても仏になれない者が対象のお説教である。これを間違えてはならない。だから何をやっても救われない、何をやっても仏になれない者に対してお釈迦様は何を説いたかである。これをやれとは説いていない。

「いずれの行も及びがたき身」というのは歎異抄に出てくる。「いずれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」という文である。「いずれの行も及びがたき身」というのは、釈迦様が色々な行を説いてくださったが、どれも満足にできない私ということである。だから何をやっても仏になれない者のために説いた経が「仏説無量寿経」である。

仏説無量寿経

「仏説無量寿経」には仏様の行が説かれている。だから仏様の修行によって悟りを開く教えが浄土真宗なのである。私の側にはこれをやれあれをやれという注文がない。これもいつもワンパターンの例えでしか言わないが、夫婦で水を運ぶ例えがある。どういう風にやるかというと、前で奥さんが担ぎ、後ろでご主人が担いで1本の天秤棒を渡して、真ん中に桶を下げて水をギリギリ入れて、いちのにさんで担ぐ。背丈が女同士なら問題ないが、奥さんが背が低いと桶が滑る。水がこぼれるわけだ。

水をこぼさない方法は2つしかない。どうするかというと、奥さんに背伸びさせるか、自分が腰をかがめるかのどちらかである。奥さんに背伸びさせるというのは、背を同じにして担げと奥さんに注文をつけることだ。水はこぼれないが、もう1つの方法は奥さんには一切注文をつけない。つけなければ水がこぼれるので、自分に注文をつける。どういう注文をつけるかというと、前を歩いている奥さんと背丈を同じにせよということで、自分に命令して自分が変わる。阿弥陀さまはどちらの道を取ったのか。

これが今どうなったかってことだ。
今、われわれは南無阿弥陀仏を聞いている。南無阿弥陀仏というのは、元の名前が法蔵菩薩である。法蔵菩薩が48の願いを完全に成就した。だから、自分に課した48の条件がすべて満足しなければ、私は仏とは名乗りませんと誓った法蔵菩薩はまだ悟りを開いていないから菩薩というわけだ。

そもそも菩薩とは、悟りを求めて生きるものという意味である。ボーディサットヴァ。それが名前が変わって阿弥陀仏となった。阿弥陀仏と名前が変わるということは、48の願がすべて成就したということだ。

私が浄土に生まれるのはなぜか。お浄土に生まれるのは本願力によるものである。「願力にあいぬればむなしくすぐるひとぞなき」。本願力とは何か。それは四十八願が働いているという働きである。その48願の働きによって私たちは仏になる。しかし、その48願の本願が成就したということをこの私に告げなければ成立しない。

だからどうやって告げるか。法蔵菩薩が48願成就して、もうあなたを仏にする。仏になりましたとどうやって告げるか。それが名号となってあなたの世界に届くという誓いなのだ。

御恩報謝

御恩報謝とは、阿弥陀様の御恩に報いる読経のことである。死んだ人のために唱えるのではなく、仏様の本願の成就を褒めたたえるもの。仏様のご苦労を褒めたたえるのが読経である。今、「聞く」と言ったって、耳からだけではない。「聞く」というのは、こういうことだ。

御香をやる人は香を聞くと言う。嗅ぐと、聞くはどう違うか。
嗅ぐというのは鼻を近づけて嗅ぐことである。「聞く」というのは、向こうから来る香りを受け止めることである。味を「聞く」というのは味を見ることとは違う。味を見るというのは自分が主体でやることだが、味を「聞く」というのは向こうから味が教えてくれる。例えば、もう少し塩が足りないとか、もう少し胡椒が必要だと教えてくれる。それを聞くのだ。それをそのまま受け入れることを「聞く」という。

闇とは何だろう。闇とは自分がどこにいるかわからないことだ。どこにいるかわからないということは、どこから来たかもわからないということだ。どこに行くかもわからない。だから、生まれてきたと言うが、あなたはどこから来たのかと聞かれて何と答えるだろうか。いや、それはお母さんのお腹の中だと知っているが、私が聞いているのはお母さんのお腹の中に入る前はどこにいたのかということだ。しかし、それがわからない。それがなければ今もない。

平等とは

これが、人間は生まれながらにしてみんな平等であるということ。これに間違いはない。どこで平等を言うか。つまり、みんな阿弥陀様によって仏にされることを目当てにされている。阿弥陀様によって願われているという意味でみんな人間は平等だ。

しかし、人間が生まれてくる時にお金持ちに生まれたり、そうでない所に生まれたりするのはなぜか。前世が関係している。生まれる前の行いが関係している。これが無量寿経という経典に書かれている。だから、前世でお金持ちがケチると次にはお金持ちには生まれない。これは嘘ではない。無量寿経にちゃんと書いてある。

だから、お金持ちはどうしたらいいか。お釈迦様はどう教えたか。お金を持っている人は、その才能があるのだ。功徳がある。だから、人よりも経済的に豊かになる功徳が多い。それだけの収入を得ることができる。だから、恵まれた人は持っていない人に施しなさいと教えている。これが仏教だ。

だから、持てる者は持たない者に施すべきだということを教えている。行いが今生の人間の境涯に関係している。才能がある人もいれば、そうでない人もいる。うちの息子はイチローのように野球がうまいが、なぜうまいのか。それは前世から野球をやっていたからだ。だから、うまい。生まれてからの話だけではない。人間は不平等ではない。才能を持って生まれてくる人もいれば、そうでない人もいる。お金持ちに生まれる人もいれば、そうでない人もいる。みんな不平等だと言うが、実は平等だ。どこで平等を言うか。それは生まれる前の行いが今生の人生を作っている。これを「宿業」という。

宿業

「宿」というのは過去のことであり、生まれる前の出来事を指す。「業」とは行いのことだ。

「これをやらなくてはならない」と思ってもできない、「これをやってはいけない」と思ってもやってしまう。それは生まれる前の行いが関係しているからだ。生まれる前にそのような種まきがなされていなければ、今それをやろうとしてもできないのだ。また、生まれる前にそのような種まきがなされているからこそ、「やってはいけない」と思ってもやってしまうのである。それが自分のところに戻ってきて、結局自分がやってはいけないことをしてしまう。

これが今の私の人生の姿だ。だから自由に生きているようで、実際には自分の過去の行いに縛られている。

ところが、今生きている。問題は生まれてから今日までの行いだ。通常はそのまま継続していく。継続するというのは、死んだら今まで生まれてから今日までやった行いが次の世界を作っていくということだ。それを繰り返しているのが私である。生まれては死に、生まれては死に、それが延々と続く。始まりも終わりもない。ぐるぐると回っているということだ。だから「生死の苦海ほとりなし」。

生まれて死んで生まれて死んで、その繰り返しに終わりはない。それが私の計いで今まで生きてきた結果だ。しかし、本当の幸せには出会っていない。

阿弥陀さまは何と言っているか。「私があなたを仏にするから、我に任せよ」と言っている。これが「後生を助ける」ということだ。後生助かるということは、私の命が終わるその時に仏の悟りを開くことだ。臨終の時に悟りを開く。悟りを開くということは、浄土に生まれるということだ。

だから「浄土往生」と「成仏」と「お悟り」と「涅槃」は同じ意味だ。「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」これはお坊さん向けの言い方だ。大般涅槃とは悟りのことだ。悟りを喜ぶのはお坊さんだ。しかし、一般の凡夫はそんな悟りを求めて生きているわけではない。凡夫にとってありがたいのは、「後生が助かる」という言い方だ。

「後生助かる」というのは、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏が先だ。南無阿弥陀仏が先にあって、阿弥陀さまが「助けてやる」というのが後にくる。浄土真宗の教えでは、私が先に南無阿弥陀仏を唱えるのではなく、阿弥陀さまの「我に任せよ」が先にある。南無阿弥陀仏の仏の呼び声が先にある。

蓮如さんは「後生助くる我に任せよ」と読んだ。だから、後生を助ける我に任せよということは、あなたの臨終の時に仏の悟りを開くということだ。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏が私に届いたのが「助けたまえ」と「一心に弥陀たのむ」という領解の姿だ。これが大事なのだ。

信じるということは、受け持ちが変わることだ。例えば、一流レストランのシェフが後継者に全てを任せるとどうなるか。シェフが変わるということだ。最初のシェフの世界が次の継者のシェフの世界にチェンジする。信じるというのはこういうことだ。私の計いで生きてきた私が阿弥陀さまにお任せするということは、私の人生が阿弥陀の計らいの人生にチェンジするということだ。これを信心いただくというのだ。

今回はここをきちんと話そうと思って来た。人は死を未来に持ってきたがるが、実際には死は今生きているここにある。死の問題が解決されるということは、生きるということも問題として解決されるということだ。阿弥陀仏を南無阿弥陀仏の世界を生きるということが信心いただくということだ。

これが浄土に生まれていく人生をいただくということだ。これが後生の一大事の解決だ。


後生の一大事の解決シリーズ一覧



#仏教 #仏法 #禅 #瞑想 #マインドフルネス #宗教 #哲学 #生き方 #人生 #浄土真宗 #阿部信幾   #後生の一大事の解決 #親鸞聖人 #親鸞上人 #蓮如上人

今後ともご贔屓のほど宜しくお願い申し上げます。