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演劇、演出家というものについて。

上記の記事を読んで違和感を感じた。

ぼくは学生時代に劇団を旗揚げして、アルバイトで新宿紀伊國屋○ザンシアターの裏方(舞台事務室)のバイトをしていた。

舞台事務室にきた小劇場系の招待券は、みんな行かないのでぼくが使わせてもらっていろんなところに観に行った。

紀伊國屋○ールも○ザンシアターも新劇(俳優座、文学座、青年座、円やこまつ座など)が多く、たまに大人計画、クドカンのウーマンリブやナイロン100℃などがやる程度だ、小屋代は200万になる。

ぼく自身のやっていた劇団は、小劇場系で小さかった。だからそれなりにどうすればいいか、演劇の市場はどうなのか? 調べたことがあった。

ぼくが読んだ本は、劇団キャラメルボックスの制作の人が書いた本だった。的を得ているのでここに。

世界広しといえども、大都市に大小の演劇の劇団がごっちゃに存在するのは東京だけだ。少なく見積もって300(3000だったか)以上ある(1999年当時で)。

東京都の人口は1200万人。そのなか、あるいは関東近郊から都内の演劇(劇場)に足を運ぶ人数は決まっている。11万人。

これはパイの分母として決定事項だ。物理的に、劇場のキャパ(席数)がそれ以上ない。事実だ。

当時1999年ごろの最も集客できる劇団は、

「野田地図」の5万人。

「劇団☆新感線」が3万人。

「劇団キャラメルボックス」が1.5万人。

「大人計画」が1万人。

それから

「ナイロン100℃」が5000人といったところか。

劇場は、

「青山劇場」:1200人(コロナのため廃業)。

「シアターコクーン」:500人。

「紀伊國屋ホール」:400人。

「下北本多劇場」:350人。

以下小劇場の、

下北沢の「スズナリ」、「駅前劇場」、「OFFOFFシアター」が200人。

これらの情報がいったいなにを言いたいのかというと、演劇の観客は、テレビや映画と違って、おなじ人物(客)が回遊魚のように、決まった特定の劇場に足を運んでいるだけだ。もっと恐ろしい現実は、そのチケットの大多数は演劇業界、同業者(演出や役者たち)で回っている。悪循環に陥っている。事実だった。


認められる認めてもらえない。と言っているが、それはお門違いなんじゃないかと思う。

みんなおなじ土俵に立っているはずだ。

渡辺謙は渡辺謙の文脈があって、劇団の渡辺謙、ハリウッドスターの「渡辺謙」になっているわけだ。

紀伊國屋のホールで舞台に立つ、大滝秀治、岸田今日子、渡辺謙、西田敏行、橋爪功、内野聖陽、その他みんなギャラは0円だ。小劇場の人間(役者)とまったくおなじだ。(だった。大滝秀治さん、岸田今日子さんご冥福をお祈りします)

それと、銀行や信用金庫が、役者や歌手、小説家、ジャニーズやももクロやキャバ嬢、に金を融資しないのは当たり前だ。

歌手、小説家、役者、アイドル、野球選手やサッカー選手だって(球団との契約以外では)、みな「失業を前提とする職業」だからだ。日銭を稼いでいる。最近になって、過去の問題があってだかで吉本興業が「芸人向けの住宅ローン」の貸付業務を始めたらしい。そういう組合のような組織に入っていない人間が都内のマンションを購入したければ、現金を持っている時に「一括購入」するしかない。上記の職業はそういう職業だ。それは収入の多寡ではない。あるいは担保(土地や株券、証券)があればどんな貧乏作家や役者でもローンは組んでもらえると思うが。

アメリカには役者、劇場の労働組合がある。みんなそれに入って急遽の失業に対応しているはずだ。それを日本でやったのは浅利慶太。

劇団を会社化してただ大学の学生サークルのようになって一緒に「演じる役者」と共にお芝居をやるのではなく、みな会社の「サラリーマン」「社員」として「雇用」し、それぞれを適材適所に「役者部門」「照明部門」「演出部門」「制作部門」「広報・法務」へと分業化させたわけだ。

やろうと思えば自分だってできるはずだ。

たしかに、映画やテレビや動画がなかったころは、古代ギリシャでは演劇自体が「ニュース」の役割を果たし、それ自体が「娯楽」であり「政治報道」だった。演劇(劇場)はそもそもそういう役割だった。いまはその役割を、各メディアに譲り、あるいはすっかり明け渡しつつある。それが今の演劇のポジションになる。斜陽産業は間違いない。それは小説でもまったくおなじことがいえる。

だからといって、演劇は終わりだろうか?

核戦争、細菌戦争があって世界が人類が滅びそうになっているとする。

音楽は滅びるだろうか?

演劇は滅びるだろうか?

世界の書物が燃えてなくなったとて、文学が滅びるだろうか?

否だ。

カメラや劇場がないフィルムがない映画は観られない。

だが音楽は、歌えば、音楽だ。

板の上で、桟橋で、防波堤を舞台にすれば、演劇が始まる。

それが演劇の力だ。

だれかが小説を書き始めればまた、その時点で文学が復興する。

どこかに機材が一つ残っていさえすれば、映画が復興する。

それが人間の力なんじゃないかな。

表現したい。そういう餓え、渇望が、演劇なんだと思うけど。

(ちょっと、熱くなっちゃったけど   ^ ^ )

ぼくは演劇をドロップアウトしてもう四半世紀になる。だが演劇はしたくてうずうずしている。

どんな時代だって自分の脳みそでアイデアを捻りだすのが「演出の仕事」じゃないだろうか? 遊んでいる新人に役をつけるために、池波正太郎は脚本を変えたりしているし、いまのみんなもそうしていると思う。

ぼくの二年前のアイデアはこうだ。

都内の、全国の、喫茶店、カフェ、バーに、食堂に、ぼくの「企画」を売り込む。

例えば、新宿区の2丁目に「BAR月に吠える」があるとする(仮にだ)。

脚本はこうだ。

「BAR、月に吠える殺人事件!」

そこで、

❶マスターに聞き込みをして、マスターの個人の歴史を探る(脚本に盛り込む)。その店、独自の、一点ものの脚本を作りあげる。

❷その「BAR月に吠える」を丸々舞台にする(常連のお客は喜ぶだろう)。

❸YouTubeやニコニコ動画で全国で生放送。

このコンテンツを全国行脚するのだ。

席数は少なければ少ないほど、店が狭ければ狭いほど面白いものにする。

カウンターは指芝居だ。紙芝居だっていい。そこそれエンターテイメントの演出だ。

路上にて、

劇団員が叫ぶ。

「誰かが死んでいる!」

カラン。ドアが開く。

店内の内側から路上に血まみれで死んだ死体にスポットライトが。

おい、マスターじゃないか! おい!マスターが死んでいるぞ!(店内に叫ぶ)

ダンス!(指芝居でも、糸芝居でも、紙芝居でも)

役者が人間の役を演じなければならないことはない。

演出家とは、日常を非日常の空間に変えてしまう職業のことだ。

ただの演技指導じゃない。

なにか他に依存する姿勢が、表現者として違和感を感じた。

演劇も小説もラジオもYouTubeも基本はまったくおなじだ。

自分の非力さを他のせいにしてはいけないと思う。

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