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宮崎駿の芸当はぼくには到底できない / 20240702tue(2741字)


元師匠の有料講座を受けた。
ぼくは「プロットを書いてから原稿を清書する」
その創作過程は出来ない。確信した。

僕は書きながらキャラが見る(触る、驚く)世界を押し広げる。
このような形をするようだ。
プロットの一番の役割は、

物語世界が筆者の勝手で広がらないように制限をかける

これに尽きる。

ぼくはこの訓練をしなければならないかもしれない。

だが、今回「第二部」はそのプロット型の作劇術では「じつはガクトが黒幕だった」この事象は現れなかった。

さらにプロットの訓練を積み重ねていけば「詳細プロットが出来上がった時点でガクトが黒幕だった事象が浮かび上がるのか? 」これは不明だ。


とはいえ、ぼくの現在の物語の書き方は「週間少年マンガの連載形式」だ。
ボス(追いかけるマクガフィン)が次第に巨大になっていく。
■この構想(草稿の)時点で編集(に相当する第三者がいればどうか? )

■この問題を解決するために、ぼくはある手を打った。
最初に世界を規定する。
➡︎日本列島。
最終目的地(敵のアジト)を決める
➡︎首相官邸(アメリカ軍特殊部隊が首相を人質にしている)
■これはワンピース(ひとつなぎの秘宝)とおなじ手法だ。
➡︎これはハッピーエンドにもバッドエンドにもできる

第一部
場所:日本海上〜新潟の浜
人物:十名の北の兵士、海上保安庁(四名)
道具:反物質核爆弾
事件:襲撃、裏切り
結果:キム・スリン一人が新潟の浜に上陸

紆余曲折はあった。
当初は「第二部(上陸者たち)」だけが「本稿」だった。「上陸者」はその「予備稿」だった。本稿の前史だったのだ。文芸賞には提出しない(本稿には加えない捨て)スケッチ原稿だった。

⑴本稿「二部(上陸者たち)」では十名の兵士ぜんいんを日本列島に上陸さるべきか? 悩んだ。

⑵いまのじぶんの腕で「第二部で十名の兵士をいきいきと描けるか? 」これは第一稿で書いていて非常に骨を折った(なお推敲、改稿するたびに腐心している)。

⑶結果、失敗作になった(「第三部」を描き終える年末までに改稿を重ねて修正をかけていくが…… )。
➡︎具体的には、
❶各兵士の生まれ、素性、性格、階級などの書き分けが非常にむずかしかった。
❷参考書「半島を出よ」(村上龍)は十名の北の兵士をうまく描き分けている。だが、ぼくは新人だ。
❸図書館に通ってやっていたつもりだったが、圧倒的な準備不足だった。北朝鮮、自衛隊、武器、日本国の政治や外交姿勢などの知識の不足を身を切って痛感をした。
❹ぼくは判断を下した。「十人を日本に上陸させるわけにはいかない」(いまのじぶんでは描けない)キム・スリン一人が上陸することに。
❺結果的オーライとなった。キムを上陸させるために、二つの劇的なサブプロット(山場)が沸き起こった。
Ⅰ「裏切り疑惑・事件」
副司令官のマ・ギョングは土台人(綿鍋金男)と繋がっている。
Ⅱ「将軍の陰謀論」
作戦は将軍の血を受け継いだ者(キム将軍家一族)を反逆者として殲滅する将軍の陰謀だった。

❻これは筆者の都合だったが「第二部」を書くにあたって肩の荷が降りた。書くのが非常に楽になった。

⑷書けば書く(書き直せば直す)ほど「もっと上手く描ける」と感じて「本稿(第二部)」の足を引っ張ってしまう。

⑸⑷をするには時間がない。
➡︎「三部作」を仕上げる。それがいまの最優先事項(もちろん継続的に修正はかけていく)。


年末の現地取材(北陸、新潟、白馬、安曇野、諏訪湖近辺)を経て、ぼくは「第二部」を書き始める。のだが……。

一応、プロットは書くが、
やはり宮崎駿形式(以下)で書き進める。が、それもぼくには実力不足だということを痛感する。

宮崎駿は博学(超インテリ)だ。歴史、世界史、日本史、文学、植物学、海洋学、工学、航空力学、宗教学、民俗学、社会学、風俗、宇宙論、武器、戦争の地政学、数学、エネルギー理論、物理学、熱力学、理学、医学、かれは、まるで歩く図書館だ。

彼の作品作りは「頭の中にある井戸に、アイデアの種を投げ込んで、蓋を閉める」それだけだ。ぼーっとする。折を見て、蓋をあける。井戸の中にアイデアの芽が出れば、それを摘んで、本編の世界観の一部に加えていく。

宮崎駿の頭のなかに広大にひろがる世界(舞台、世界観)がある。かれはその一部を「二時間の枠」で切り取る。宮崎駿は物語を無から足し算でつくるのではなく、すでにじぶんの知識で作り上がった宮崎駿ワールドの一部を切り取る(引き算をする)ことで宮崎駿の映画を制作しているのだ。
じつはこれは「短編小説」の書き方だ。

たとえば、天空の城ラピュタ(以下、ラピュタ)は、高度に文明が発達した未来人が見捨てられた地球(宇宙へ逃げ出したのかもしれない)が舞台だ。あたかも「観客からみたら数世紀前の中世のヨーロッパ」のような場所だが、それはちがう。僕らが生きる世界とはまるで別の世界(そこが味噌)なのだ。過去か未来か判別しにくいふしぎな世界で、過去と未来でつくられたような架空の空飛ぶ乗り物が同居する奇妙な世界がひろがる。ラピュタにはたしかにストーリーはある。だが、宮崎監督が観客に見せたいのは「ストリーではなく宮崎駿の創造(想像)した、未来人ラピュタに見捨てられた地球の退廃のほんの一部分」なのだ。これは純文学の「短編の書き方」だ。宮崎作品の幻想作品「未来少年コナン」「ナウシカ」「もののけ姫」「紅の豚」はヘミング・ウェイの氷山の一角理論で書かれている。

■□

⑴ラピュタの世界のその幅(文脈の幅、意味のふくみ、メタファー、寓意性)は豊富だ。だから何度見ても新たな発見があるわけだ。かたや、村上龍「半島を出よ」(この段階でも日本で一流の作品だが)「上陸者」(ここにぼくをふくめるのは非常に恥ずかしい限りだが)はその幅は狭い。描かれた世界観には文脈の幅、意味のふくみ、メタファー、寓意性は少ない。

■□

⚠︎注意
上記の太字では「論点のフォーマットがずれている」のに気がついた。「幻想世界」と「ある程度の現実の舞台に基づいた作品」をぼくが話の中で一緒くたにしていた。⑴上記の太字部分は削除しようと思った。だが、読み直して欲しい。誤解なきように読めば、真意は分かると思います。

とはいえ、村上龍作品のすばらしいところは、その読者に伝わるパンチ力(衝撃度・破壊力)の強さだ。彼は小説(話、物語という)幻想のなかでぼくらが見て見ぬふりをしていた現実(リアル)を、主人公が見たまんま生々しく描く。それが彼の作家性だ。作家は十人十色だ。

話が逸れたので宮崎駿にもどす。

「宮崎駿は知識が豊富すぎて普通の作家と書き方が逆転してまっている」

宮崎駿の芸当はいまのぼくには到底できない芸事だ。
ということで、今回は〆る。

短歌:
気晴らしに
書いてはみたが
疲れが出
先を急ごう
本稿かかねば

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