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京都の定宿で綾子と再会。202303310sat263


京都の定宿で、私は遅く起きて座机で仕事をしていた。
しだいに筆が走る。今日は調子がいいと思った。

部屋に仲居が入ってきた。それから座敷の掃除を始めた。いつも仲居はこの時間は私の執筆の邪魔はしないはずだ。私の筆は止まった。
「ザッとでいいですよ。まだ数週間は泊まっていますから」
私は振り返らずに言った。早く部屋から出て行ってもらいたかった。今日の仲居は新人のようだ。
私がイライラしているところ、後ろから肩を叩かれた。
「これ、返したるわ」
綾子だった。綾子は白い小箱を、私の胸に押しつけた。
私は顔を見あげた。
綾子の顔は、三十年前の顔になった。綾子は、私の田舎ではだれよりも美しかった。

高校の卒業式を終えて、その途中だった。
私は三年間、綾子と手を繋いで下校した。
その日、橋の上で私は初めてその握った手を、自分から離した。綾子は足を止めた。彼女はふり向く。彼女の乾いた頬(ほお)に涙の筋が光っていた。私はカバンから白い小箱をとりだした。
「真剣なんだ。これを、僕の気持ちを受けとって欲しいんだ」
そう言って私は、白い小箱を綾子の胸に差しだした。
「それをわたしに渡せばタカちゃんの夢、かなうん?」
綾子は私を見つめて言った。私はだまった。綾子は私の顔を睨(にら)んだ。沈黙はつづいた。綾子の冷たい視線を感じて、私は身体をこわばらせた。
とつぜん綾子は、私の手から白い小箱をとって、川に放りなげた。
「あっ」
私はさけんだ。白い箱は川に流されていった。
「バカッ。あれは僕がバイトでやっとためた婚約指輪なんだぞ!」
「バカッ。ってなんやねん! 『僕』ってなんやねん! 東京にかぶれよって。バカいうんは、いまのアンタのことや!」
私は、綾子に頬(ほお)を張られた。
綾子は坂道を走って消えた。
私が綾子を見たのはそれが最後だった。

私は仲居に戻った綾子の顔を見上げていた。三十年経っていた。なにひとつ変わらない。綾子は美しかった。
「その指輪はあのときのぼくの婚約指輪。だよな」
私は言った。私と綾子のあいだに深い闇のような間が横たわった。それはそれぞれが生きた三十年の間だった。私がどんなに想像をしても、何千何万という原稿を積み上げても、決して埋められない異様な間だった。
「指輪とかとちゃうねん」
「え、なに?」
「タカちゃんの言葉も、わたしのここに伝わらへんねん」
綾子は私の胸にその手を充てて言った。私は綾子の顔をのぞきこむ。すると綾子は笑った。泣いているようだった。
「アンタ、ほんまのアホや…」
「え?」
「…タカちゃん。三十年経ってもまだ、なにひとつわかってへんね」
綾子は、涙を流して両の手のひらを私の頬(ほお)に充てた。私の顔は綾子の両手に包まれた。綾子の手のひらは温かかった。だが私は右の頬は、綾子の左の薬指に冷たいモノがはめられているのを感じとった。

「キミジマさ〜ん。仕事はまだ沢山あるんですよ。すばやくテキパキとよ〜」
部屋の外から、いつもの老仲居の声が聞こえる。
綾子は胸に付けたネームプレートを見せて私に笑って見せる。「君島綾子」と書いてあった。綾子はジンベエの裾で頬(ほお)を拭った。
「いまうちは、君島夫人。そういうことや」
「それじゃあ、こどもは…」
私は口籠った。がもう遅かった。
「当たり前や。何十年経っとるおもうとり、はんの…」
と綾子は言った。
「…はんの、って」
私は笑った。綾子の京都弁を聞くのは、初めてだった。
「タカちゃん。偉ろうなっても中身はちっとも変わらんなあ」
「僕はちっとも偉くなんかなってないよ! 僕は今でもアヤのことを… あの日以来ずっとアヤのことだけを…」
「それ以上言わんといて!」
綾子はどなった。綾子の声は部屋中に響きわたった。
「君島さん、なんかあったん?」
廊下から老仲居の声が聞こえる。
綾子は膝を落として座机に白い箱を置いて部屋を出ていった。
「キミちゃん。遅かったやないの。部屋んなかでなんかあったん?」
廊下から声が聞こえる。噂好きの老仲居の声だ。
「この部屋のお客さん作家さんですの? 私に言い寄って来はって。でもピシッと断りました」
「そうだわよ。はっきり言ってやったほうがいいわよ。男はみんな口だけなんだから」


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