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いつかまたあのオレンジを思い出すのもいいかもしれない。

久しぶりに本を読んだ。最近の休日はというと、仕事で疲れ切った身体を文字通り休めるだけで、私は布団の中にこもりっぱなしで、小さいころから好きだった活字に触れる心身の余裕はなかったのだ。

とにかく掃除、洗濯、食事作りをするだけで精一杯、外に出るだけで生気を吸い取られると感じるくらい疲労困憊な状態だった。


そんな時に、義父の見舞いに行った帰りに立ち寄った書店で、ふと目に入り思わず買ってしまった本がある。もともとは違う本を探しに来たはずだったのだが。

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エッセイなんかは好んでよく読んだが、そういえばこの手の本はしっかり読んだことがない。

キャッチコピーにも惹かれた。ちょうど、在宅医療に興味が出始めていた頃で、看護協会から出される新聞なんかで在宅医療に関する記事を読み漁っている時期でもあったからだ。

タイトルは捻りのないストレートなもので、「がん」とか「看取り」についてメインに書いてあるのだろうということは読まなくてもわかった。
実は私は、そういう類のコンテンツを扱ったメディアはあまり好きではない。(知ったことかい)


それでもこの本を手にレジに並んでしまったのは、表紙裏に記された一文を読んだからだ。

「患者の最期の望みを献身的に叶えていく医師と看護師たち。
最期を迎える人と、それに寄り添う人たちの姿を通して、終末期のあり方を考えるノンフィクション」

終末期のあり方を考える。

それならば読んでみたい、そう思った。
私は終末期のあり方について悩むことがあったからだ。

ひとことに終末期、看取りといっても様々だ。高齢化が進む中で、患者さんを取り巻く背景はより複雑化していき、それに伴い介入も難しくなってくる。

家族や患者さんが終末期というものを受け入れることが出来る前に亡くなってしまう場合、医師の診療方針に疑問がある場合、患者さん本人が認知症のため意思確認が困難な場合。とにかく色々なケースがある。そして、私は毎回お見送りをするたびに悶々と考えてしまう。




数年前にがんの終末期だった患者さんのお看取りをした際に、ベッドサイドで泣きじゃくる娘さんになんと声を掛けていいのか迷ったことがあった。

食欲がなかったので、私がご本人が好きなオレンジを剥いてよく枕元に置いていたことがよくあった。身体の痛みが落ち着いたタイミングで患者さんは横になったままオレンジを食べていたからだ。味覚障害が出て、病院食がおいしくないが、オレンジがしっかり味がわかっておいしいのだと言っていた。

それをふと思い出したので、「オレンジがお好きで、よく食べてありましたよね」と言ってしまった。はあ、と力なく返事をした娘さんの顔を見て、次の言葉はもう出なかった。

なんかもっと気の利いたひとことはなかったのかと、その出来事は今になっても後悔している。



六畳の和室。寝室を兼ねた部屋だが、私は休日の9割をそこで過ごす。といっても、布団とパソコンデスクがあるだけの部屋で、押し入れにはこれまで買った本だったり、CDやDVDが押し込まれている。

全然サイズのあっていないカーテンが10cm近く床にぞろびいてるのも、引っ越して来た当初は「買い替えなきゃな」と思っていたものの、気づけばもうどうでもよくなっている。そんな部屋だ。

その部屋に閉じこもり小さなファンヒーターの前にしゃがみこんで、本を開く。

読み始めてすぐに心臓がぎゅうぎゅうと締め付けられた。頭の中で、これまでの短い看護師人生の中で見送ってきた人たちの顔がぽつぽつと現れて、あの時の言動が表情が、この本に記された登場人物のそれとリンクする。

読み進めていくうちに、色々な患者さんたちを送り出してからもうずいぶんと経つのに今頃になって涙が流れてきた。本の内容が悲しいから、感動したから泣いたのではない。あの時あぁしておけばよかった、なぜしなかったのだという後悔と悔しさからくる涙だ。

以前いた職場で見送る場合は、このノンフィクションのようにはいかないことが大半である。正直、穏やかに、とは言いづらいものがあった。

患者さんの身体はパンパンに浮腫んでしまうし、苦しい苦しいと言われるけども緩和専門の病院ではなかったので、苦痛を和らげることもままならなかった。背中をさすっているうちに、違う病室でコールが鳴ったかと思えば、そちらでオムツを剥いで放尿の最中だったりと、ゆっくりベッドサイドで訴えに耳を傾ける暇なんて正直なかった。

その人にとっては一度きりの人生最後のイベントなのに、そこに満足に寄り添うことが出来なかったことが沸々と思い起こされる。

ふらふらと終末期のあり方に辿り着くことが出来なかった私だったが、それでもこの本のおかげで少しその足元にでも行きつくことが出来た気がする。

そして、「死」をもって「生」を学んだような気がする。この本の中に出てくる人達は確かにもう亡くなっている方ばかりだが、こうしてノンフィクションという媒体を通して筆者を含めた多くの人に影響を与えている=「生きている」のではないかと思わせた。

生きるということは、こういうことだと言われた気がした。終末期のあり方のひとつがここにある。

そして、患者さんを取り巻く医師と看護師も言葉は浅くなるが、すごい。
在宅のプロでも迷わないことはないという。ギリギリの最後までこれでよかったのだろうかと、あの時の判断はあれでよかったのだろうかと悩み続けるそうだ。それでも、医療チーム一丸となって真摯に「終末期」と向き合う姿勢に非常に感銘を受けた。


あぁ、こういうふうな言葉を掛ければよかったのだな、と「正解」ではないがひとつの選択肢が増えたのは私の中で大きかった。もっと早くこの本を読んでおけばよかったが、今更でも読んでおいてよかった。


おおよそ300ページほどあったこの1冊は、暗くなる頃には一気に読み終えてしまった。
さめざめと泣いて内容に満足したせいで読み終えた時、私の頭はすっきりとしていた。



ひとりの人間としてこういうふうに生きていきたい。そしてそれと同時に、医療従事者としてあらゆる背景を持つ人たちが、最期まで満足のいく生き方が選択出来るような在宅支援をしてみたい。


「亡くなりゆく人は、遺される人の人生に影響を与える。彼らは我々の人生が有限でることを教え、どう生きるべきなのかを考えさせてくれる。
死は、遺された者へ幸福に生きるためのヒントを与える。
亡くなりゆく人がこの世に置いていくのは悲嘆だけではない。幸福もまたおきていくのだ」
―本文より。

間接的ではあるが、私もこの影響を与えられたうちの一人である。





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