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向き合い続けている


雨音がゆっくりと激しくなってきた。ゴロゴロと雷の音も絶えず聞こえる。
そろそろ台風がやってくる。雨戸はしっかり閉めたし、飛んでいきそうなものは片付けてもらった。あとはやって来たら、どう過ごすか、だけだ。みなさまも無事に台風を乗り切りますよう。そんな中ですがみなさまお元気ですか。



 こちらはというと、全てにおいて良好、では無い日々を積み重ねていて、それは時々「もう無理だ」と限界が来て、心身もろとも崩れ落ちる。だけども何とか時間をかけて修復、立ち直っては、またちょっと崩れる、を繰り返している。とっても健康とっても元気、なんて日は出産以降なかったような気がする。どこかしらが毎日痛んでいるし、心はなかなか晴れやかな気分を持続できない。息子が笑ってくれたり、健やかに眠ってくれているとホッとする。私の一喜一憂、心身のことなんて全く関係なく、息子はどんどん大きく健やかに成長していく。
 どうにかなってるのは概ね私だけで、生後2ヶ月の息子がなにがどうなったとかはなく、ほんとうに何事もなく育ってくれているのはとても幸せなことであり、ありがたいことだ。ただ、頭の形を綺麗にしたいだの、風邪をひかないかだの、一日の大まかなスケジュールなんてあってないようなものだけれども、やりたい家事をどうこなすかだの、沐浴のタイミング、寝かしつけだので気を揉んでいるのは私だけなのだった。
ここにきて完璧主義なところがまた発芽してきたような気がする。適当でいいや〜が、ちょっとできていない、自覚がある。けれど、どこで頑張るか、頑張らないかの匙加減は、まだわからないのだ。

 息子に関し、「元気だったらそれでいいよ」という言葉は本当にそれに尽きるとは思うし、私への慰めの言葉になるけれども、実際は些細なことですら願いを込めてしまう。呼吸が止まりませんように。まんまる頭になりますように、大きくなりますように、目が悪くありませんように、誰に抱かれても泣かないで、愛想良くいてくれますように、今日は早く眠りますように。掃除はしっかりしているつもりだけれど、ノミやダニに噛まれませんように。ミルクをしっかり飲んで欲しい、うんちも毎日出て欲しい。汗疹や湿疹が出ませんように。たいしたことないことから、私のエゴまで、本当に限りない。願って願って、叶わなくたって願う。叶えようと最大限努める。頑張れば無理なことはないと思ってしまう。まさか、もしかしたら、を考えて不安になる。親というものはそういうものなのかしら。しかしそれらは願いであって、息子に課すものではないとわかっている。私にできることって他に何があるのかしらん、と考える。その時、私の両親ももれなくそうだったのだろうかと考え始める。
 我が子とはこんなにも可愛いものなのか、と驚く。背中の筋が切れそう、とか思ったって抱き続けるし、その抱き方の工夫だって毎日試行錯誤だ。なにがそんなにうれしいの?と思わず聞いちゃうほど満面の笑みを突然向けられる。それだけで疲れが吹っ飛ぶ。なあに、母がわかるの。わたしがわかるの?そう問いかける。それだけで充分、本当に充分なのだった。

 私は母にはなれないと思っていたし、なる資格がないと思っていた。正直、なりたいとは思えなかった。授かったから、なるべくしてなった気がする。子育てにおける不幸の連鎖を生みはしないかと常々考えていた。それは全て、自分の生育歴による影響だった。
 母になれるかもしれないという期待は、母になってはいけないという念には劣っていた。いつだってそうだった。諦める方が早かったし、楽だったから。

 しかし、産んでみて、わかった。可愛いのだ。とてつもなく愛おしいし、日々生きてくれているだけで、ホッとする。こんなに可愛いのか、と思う。息子のために死んでもいいのだ。何かあれば。それが唯一できることなのだとしたら、迷わずそうする。そう思える。母としてできることを精一杯やりたいと思う。傷つけようなんて、カケラも思わない。


だったら、



 だったら、どうして私と母との親子関係は悪くなったのだろう?
きっと、生後しばらくは可愛がってくれていたとは思う。
 でも、私が大きくなるにつれ、歩き始めて、言語を獲得し自分のことを話すようになって、行動範囲も増えて、意思表示もでき始めたら、なんだか少しずつ、違ってきたのかもしれない。何かが気に入らなかったのかもしれない。
 何度ぶっ飛ばされたかわからない。それが愛情だと言われ続けたことに違和感を抱いていても、そのまま、大人になり、そのまま、私は未完全のまま、私は母になっている。母は面倒見の良いばーばになった。


 私はいつどこで、「間違えて」しまうのだろう?と考えてしまう。
 絶対に自分が辛かったことは子どもにはしないぞ、とどれだけ思っていても、そんな意志を簡単に覆してしまうような一瞬が来てしまったら?誰が止めてくれるだろうか。私は私を止められるだろうか。

 母になるということは、自分の母とも向き合い、そして母親とはなにかについてぐるぐる考える必要があるのだと思い知らされている。毎日考えているから。

 ここにきて、私が母に対し、子育てについてあれこれ相談できるまでには修復された母娘関係。フォローしてもらえて助かった〜、と思えるのに、ふと魔が刺すように過去の全ては思い出され、冷静に考えてしまう。痛みは思い出せないけれど、痛かったことは覚えている。物理的にも、内側も。
「私はいつどこで間違えてしまうのだろう?」
 
 ああそうか、愛することって怖いんだね。
 それは失うことが怖いのと同じだとも思う。
 同時に、その原因が自分のせいである可能性も秘めているということもまた、怖い。だからこそ、毎日息子と向き合い、自分の家庭を持つ中で、どう生きていくか。どうありたいか。親として、一人の人間として、息子とどう向き合うか。どう向き合っていきたいかを定めていきたい。

 間違えないように。よりよくあれるように。


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