最近の記事

本を少しずつ読む

数百ページある本を読むとき「時間がない」と読むのを諦めたり、後回しにしたりしていた。 ある時、一気にまとめて読む必要はないのでは?と思った。何か一つ家事ややることが終わったら、1ページでも2ページでも、区切りのいいトピックごとなどでもいいから読み進めてみる。前の内容を忘れてしまうこともあるため、効率はよくないかもしれないが、全く読めないということがなくなった。それに少しずつ読んだとしても、気づくと残り半分、三分の一などだんだん減っていく感覚が楽しい。 大きなタスクも細切れに少

    • 目に見えないものをもったいないと思う

      目に見えないものをもったいないと思うと価値観が変わるかもしれない。 例えば時間。よく言われるのが、10円20円の安さを求めて遠くの店に行くというもの。10分という時間だけでも最低賃金で考えても100円以上の価値がある。 自分の時間をどう使ってもいいではないか、その10円が大事なのだという意見ももっともだけれど、10円の安さを求めるのが趣味という以外は悪手になると思う。本当に経済的な「得」を求めるなら、遠くに行くのはいいとはいえない。その分体を休めたりするほうが、生産性が上がる

      • 失敗と練習

        失敗したくない。 そう思うものの、すぐに何でもうまくいくということはない。 試行錯誤したり練習したり、手探りの状態で望む結果を手に入れようとする。 練習は見方を変えれば失敗を繰り返しているとも言える。 失敗というと抵抗があるが、失敗を成功の練習と考えると少しは気持ちが楽になる気がした。

        • それしか言えない

          ある種の質問やつぶやきに対して、言えることがほとんどないときがある。 「太っちゃった」というのがぱっとおもいつくフレーズで、これに対して「そんなことないよ」ということがほとんどだと思う。中には本当に太っていたら「太ったね」なんて言う人はいるかもしれないけれど、嫌われる可能性は高い。 こういう、答えの選択肢がないということがしばしばある。こういうときは共感するのでいいと思うけれど、一つ未だに腑に落ちていないことがある。 それがテレビのグルメ番組。 「おいしい」と言っている以外な

        本を少しずつ読む

          絶望と感謝の割合

          某感染症が落ち着いてきた今、思うことがある。 感染症真っ只中のときに、大きな地震がこなくてよかった、と。 もし大地震が起こっていたら、世の中により暗い影が落ちて、もっと悲観的になっていたと思う。 実際には起こらなかったわけだから、そのことに対して感謝をしてもいいような気もするがそういう話はほとんど聞かない。起こっていないことに感謝できないとは思うけれど、起こってしまうと感謝どころではなくなってしまう。 これが身近な幸せには気づけないということの一つかもしれない。 何も起こって

          絶望と感謝の割合

          嘘をつくとき

          嘘をつくとき罪悪感を感じて抵抗があるときとそうでもないときがある。 なぜかと考えてみたら、自分のためだけになる嘘をつくときには抵抗があり、他の人のためになるような嘘でその他の人も傷つかないような嘘だと大丈夫だということがわかった。 よく正義の味方が「大事な人のためなら何でもできる。力がわいてくる」というのに似ているのかもしれないと思った。嘘を正当化するわけではないけれど、「他の人のため」という大義名分を掲げることによって嘘へのハードルが低くなっているのを感じた。 大義名分があ

          嘘をつくとき

          ちゃんとする

          ちゃんとしなきゃ、とプレッシャーに感じるとき、誰がどこまで何を求めているのか考えるといいかもしれない。完璧主義の人ほど効果的に楽になる気がする。 ちゃんとしなきゃのハードルを上げているのは自分だけかもしれないということだ。 相手はそれほどのものを求めていない場合がある。もちろん仕事では一定以上のクオリティを求めらることもあるのでケースバイケースにはなるが、完璧を目指す前に相手との認識のすり合わせをしておくといいと思う。 最初から自分が思う完璧にやってしまうと、相手と認識が違っ

          ちゃんとする

          あるものを数える

          いいなあ、羨ましいなぁ、と他の人他のもの他のことをまぶしく思うことがある。隣の芝生は青く見えるということだ。こういう風に羨ましがることや嫉妬話はよくあることだ。 単純に人間とはそういうものだと考えてみたけれど、ふと「持っているものの方が少ないからではないか」と思い浮かんだ。 考えてみると、自分が持っているもの与えられているものは、限られているのだ。顔は一つしかないし、身長もいくつもある人はいない(数センチの増減は一日によっておこることもあるが)。能力などは複数持っている人もい

          あるものを数える

          絶望しかみえないときは

          これとあれとこれがあるから、これとあれとこれがないから絶望しかできないということがあるとする。 けれど考えてみてほしい。世の中のことをすべて知っていないとその絶望は正しくないということに。希望が見えないだけで、目の前にある絶望に埋まっているだけかもしれない。反対に、数え上げている絶望よりもっと絶望的なことがあるかもしれない。 何かの思いにとらわれすぎているときに、別の見方をしてみることは大切だ。あらゆる角度から観察してみれば、絶望以外のものがたくさんあるはずだ。 自分は旬の果

          絶望しかみえないときは

          失礼なこと

          何が失礼なことになるかは人によっても違うし、時代によって変わってきたりもする。 時が経てば自分の価値観にも変化がある。 最近自分の中で変わってきたことは、人と会っているときのスマホ類の使用についての価値観だ。 スマホが出て数年は人と会っているときにスマホをいじるのはマナー違反と考えていた。約束した日時に会っているのにスマホをずっといじられたらたまらない。同じように自分もすればいいのだろうけれど、そうすると何のために会っているのかわからなくなる。そういう風に思っていたから、自分

          失礼なこと

          詮索なのかもしれない

          話を聞くというのは難しい。 どちらかというとお節介な性分なので、人の話を聞いているとあれこれと質問をしてしまう。お金の話などいわゆるデリケートな話はしないようにしているけれど、その他の話題に対しては結構細かく聞いてしまうことがある。そして自分が役に立てるようであればアドバイスまではいかないまでもちょこちょこ提案をしたりしている。 話を聞くのは役に立ちたいという思いからだが、客観的に見るとあれこれ聞きだしてしまっている。これは詮索していることになるのでは、と最近気が付いた。話を

          詮索なのかもしれない

          公表する意味はある

          昔から芸能人のプライベートな公表はする意味があるのか、疑問に思っていた。知名度の低い人が発表していたときは、売名行為と叩かれているのを見たこともある。 他人の不幸は蜜の味、のような娯楽的要素でメディアにかぎつかれる前に公表してしまったほうが対応がしやすいからなのかなぁと勝手に想像していた。 確かにそういう部分もあるだろうが、最近思ったのは芸能人は特殊な職業の人だからというのがあるのではないだろうか。特殊というのは仕事の内容だけでなく、気の使われ方が通常の仕事とは全く違うという

          公表する意味はある

          絶対はありうるか

          絶対100%なことはない、というのは正しいだろうか。 自分としては正しい、と思う。 人々の共通認識において限りなく100%に近いことはある、とは思っている。 なぜなら言葉の定義や意味が人や国によって解釈が違っている可能性があるからだ。 人や生物の宿命として「死」はついて回るものだから、これは絶対ではないかと思う反面、何を持って「死」とするか?から考えると、想像通りの生き方ではないかも知れないが、「死なない」可能性もある。 死をもって人間とする、と人間の定義が「死」ありきの場

          絶対はありうるか

          有休がとれないなんて

          会社に勤めている人が「有休がとれない」と言っているのをよく聞く。 権利なんだから使えばいいと思うけれど、周りの人の目や負担が気になったり、そもそも上司にとるなと暗に言われていたりする場合がある。 ここでものすごく言いたいのは、有休が取れないのは上司や会社が無能の証ではないか?ということだ。 周りの人の目や負担が気になることに対しては、上司のマネジメントの問題になる。上司や会社に有休をとるなプレッシャーがある場合は、そもそも会社として法律に沿った運用がされていないということに他

          有休がとれないなんて

          カテゴライズ

          カテゴライズにはいい面と悪い面がある。 いい面は属せることで、世間で認知されるようになることだ。例えばつらい症状が出ているときに、自分がどんな病気か?と病名がわからないもしくは病名がないと対処するのも難しくなるし、周囲の人間にも説明するのが難しくなる。仕事を休みたいけれど、症状を伝えるだけだと「大したことない」という印象になる可能性だってある。病名の付いたれっきとした病気です、というカテゴリーができることによって未知だったものよりは、安心することができる。 悪い面はある種のレ

          カテゴライズ

          傲慢な自転車乗りたち

          自転車のマナーが悪いと最近浸透してきたおかげか、前よりは少しだけ自転車のマナーがよくなってきた気がしている。 以前は、歩道を歩いているとき自転車が避ける素振りすら見せず通ろうとするので仕方なく避けていたことが多かった。 印象深かったのか、歩道で止まって店の惣菜を見ていたら、自転車に乗った人に「危ないよ」と上から目線で怒鳴られたことがあった。その時は自分も止まっていたので「悪かったな」と思っていたけれど、自転車の交通ルールを知った今では、こちらが反省する必要はあっただろうか?と

          傲慢な自転車乗りたち