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夢は友であり指導者でもある(夢の学び43)

■夢は「関わりたくない」現象か?

今回は、私が夢学の論文執筆に使った文献のうち、次の3冊について話題にしよう。

○ロザリンド・カートライト他著『夢の心理学』土田光義他訳(白揚社1997)
○マーク・サーストン著『夢の世界へ』住友進訳(中央アート出版社1994)
○ジェレミー・テイラー著『ドリームワーク』板谷いさ子他訳(バベルプレス2012)

「私にとって、夢はかけがえのない友人であり、ときに厳しいけれども頼りがいのある指導者でもあります」
初対面の人が、このように自己紹介したら、あなたはどう思うだろう。
もし、あなたにとって夢とは、あまりに現実離れしていて、とりとめがなく、荒唐無稽で、それに何かしらの意味があるように感じたとしても、夢があなたにとってあまりによそよそしいものなら、できれば関わりたくない、と思っても仕方ないかもしれない。
そういう夢を友とし、ときに自分を導く存在とみなすような人間がいるとしたら、それはあなたにとってあまりに常識外れだろうか。
ときに「変人」「異端者」「へそ曲がり」と呼ばれる人が、正論を吐かないとも限らない。「狂気とは何か。そこからの回復とは何か」を知りたいなら、まず自分の中の狂気に注目するしかない。外側からの観察だけで「おかしさ」を語るなら、その「おかしさ」の中にある秩序や「正気」との関連性には気づき得ない。

精神分析や夢分析の歴史がフロイトやユングから始まったとするなら、それは確かに「精神を病んだ人間をどう治療するか」という命題からのスタートということになるだろう。それはあくまでマイノリティを対象にした学問領域であり、マジョリティが関わる必要もない、という認識になるかもしれない。
しかし、世界全体を巻き込むような大きな戦争を二度経験した人類にとって、一般市民を巻き込むかたちの「集団的狂気」とも呼ぶべきものも存在する、ということを忘れるわけにはいかないだろう。

■ベトナム帰還兵の悪夢に対処するプログラム

「ドリームワーク(夢の意味の読み解き)」が注目されるきっかけになったひとつに、1960年代、ベトナム帰還兵の多くがPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症し、毎晩のように戦場の悪夢に悩まされるという事態があった。
悪夢に悩まされるそうした戦闘経験者たちのために、悪夢の取り扱いに関する特別なグループ・セラピーのプログラムが開発され、成果を挙げたようだ。
これも、本来は夢が持つ治癒力や問題解決能力を証明する事例として、もっと取り上げられて然るべきだが、私が知る限りこのベトナム帰還兵の治療例を比較的詳しく紹介している文献は『夢の心理学』だけである。
同書によると、このプログラムでは、集まったグループで、まずお互いの夢を報告する。その後、次のような手順で夢を探索するという。(※の部分は私のコメント)

1.夢をみた本人が、その夢に関係がありそうな日中の残滓や引き金となったものを特定する。
※ここで注意が必要なのは、夢学について何も知らないか、あるいは偏った認識しか持たない治療者が悪夢に対処しようとすると、この「引き金」を特定したところで、夢の意味の読み解きを終えてしまいがちになる、ということである。「あなたが戦場の夢をみるのは、実際に戦場で怖い目に遭ったからです」で済ましてしまう、ということだ。その夢をみる「引き金」になった現実の出来事(この場合は「戦闘体験」が第一だが、それだけとは限らない)は、あくまで「引き金」にすぎない。銃の引き金が人を傷つけるわけではない。その引き金によって引き起こされた「弾丸」が人を傷つけるのである。そこを勘違いしてはならない。夢も同じで、悪夢がその人にとってどのような「弾丸」になっているかを突き止める必要がある。もちろん悪夢という弾丸は、銃の弾丸とは意味合いがまったく異なる。夢は人を傷つける目的で「悪夢」という弾丸を発射するわけではない。その弾丸がどこを狙ったものなのか、それによって意図されている効果とは何なのか、といったことが肝心なのだ。

2.グループ全員の協力で、夢をみていた間とみた後に感じた感情を特定する。
※その悪夢が、本人にとってどのような感情を引き起こすものなのかを本人にフィードバックすることは、夢の文脈と現実の文脈をつなげる重要な「橋渡し」となる。弾丸に当たったら痛い。まずはその痛みから目を背けないことが肝要だ。次にその肉体的な苦痛に感情が伴うはずだ。悪夢に対する感情は、必ずしも「恐怖」とは限らない。漠然とした不安かもしれないし、後悔や罪悪感かもしれないし、ときに怒りかもしれない。
夢(特に悪夢)が、単に非現実的なよそよそしい現象という認識のままなら、「夢は自分の無意識が何かの意図で(たとえば治癒のために)作り出している」という認識にはなり得ないだろうし、その認識のままでは夢の意図にはたどりつけない。もしその人が心の奥底に何かを押し込めて蓋をしているなら、現実の出来事も夢の出来事も、それに対して自分が何を感じているかを改めて意識することは、その抑圧を解放する第一歩となるはずである。
特に戦場という特殊な環境で、敵とはいえ人を殺したり、味方が目の前で無残に殺されるのを目撃したり、自分も死にそうな目に遭ったり、という経験をした場合、「自分だけが生き残ってしまった」という消し難い罪悪感(いわゆる「サバイバーズギルト」)だったり、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」といったやり場のない怒りだったりを秘かに抱いたとしても何ら不思議ではない。それを克服するためには、中途半端な発想の転換では役に立たない。一段階上の視点を獲得する必要があるのだ。それは並大抵のことではない。解放できていない抑圧された感情に注意を向けることは、間違いなくそのための第一歩である。

3.過去・現在・未来に注意しながら、その夢の考えられる意味についてアイデアを出し合うブレインストーミングを行なう。
※もし悪夢という恐怖体験に蓋をしているなら、本人が単独でその悪夢の意図にたどりつくことは難しいだろう。しかも、夢の意味は単一のものとは限らない。なるべく多角的な読み解きが必要になる。グループ・セラピーが効果的なのは、そこに理由があるだろう。

以上3つのステップは、集団によるドリームワークのもっとも基本的な構成要素と言ってもいいかもしれない。
「できれば怖い夢はみたくない」という気持ちもわからなくはない。しかし、みない方がいい夢などただのひとつも存在しない。あらゆる夢は必要があって作られ、夢の源から送り出されてくるのだ。たとえそれが強烈な悪夢で、冷や汗をかきながら飛び起き、それがきっかけで不眠症になったとしても、「みない方がよかった」とはならないはずなのだ。
悪夢に悩まされ、不眠症になっている患者に睡眠薬を処方して、夢をみないようにする専門家がいることを、私は知っている。不眠症に対処することが悪いわけではない。ただし、薬で夢を止めて終わりにするなら、それは警報機を切って「これで静かになりますから、もう安心です」と言っているのに等しい。それは「夢とは何か」をまったく知らない素人のやることだ。それは、夢(あるいは夢を送り出してくる源)に対する冒瀆でしかない。どんなにみたくない夢であったとしても、どんなに強い薬の影響下にあったとしても、必要な夢は作られ続ける。
悪夢であればあるほど、「変わる」ための恩寵なのだ。夢が本人に恐怖を感じさせるシチュエーションを用意するのには、それなりの「意図」がある。しかも、やっかいなことには、もし悪夢の意図を読み解かずに放っておくと、夢の恐怖はエスカレートする場合さえある。薬でいったん警報機のスイッチを切れたとしても、永遠に止められるわけではなく、次に鳴るときには音量がアップするだろう。夢はそれだけ本人に重要なことを伝えたいのだ。その伝達作業に、手抜きはいっさいない。緊急性が高ければ高いほど、夢はそれだけインパクトの強い内容になる傾向さえある。そういう意味で、悪夢は手厳しいけれども熱心な指導者の役割なのだ。夢が本人に伝えたいことが込み入っていればいるほど、もちろんその意図も込み入ったものになる。その複雑さを丹念に解きほぐしていく必要がある。

上記の1から3のステップでは、おそらく様々な可能性が提示されるだろう。この3つのステップだけでも、参加者はある気づきに至るかもしれない。しかしこのプログラムでは、多くの場合4つ目のステップが試されるという。それは、夢をみた本人がその状況を克服するのに役立つような、新たな「結末」を考え出す、というステップだという。
しかし、この手法はそれほど珍しいものではなく、特に悪夢の克服法としては常套手段だ。
まず第一に、自分で夢のシナリオを書き換えることは、夢が自分の外側で起きていることではなく、内側で起きていることであるという事実を認識するのに大いに役立つだろう。現実離れしていて、とりとめがなく、荒唐無稽で、よそよそしく感じるものが、自分の内側の出来事であると認めることは容易ではないかもしれない。しかしセオリーからすれば、そこがドリームワークの出発点であることは間違いない。自分が勝手に無意識の中に抑圧した何かは、当然のように現実離れしていて、とりとめがなく、荒唐無稽で、よそよそしく感じるものである。

ただし、好き勝手に夢の結末を書き換えればいいかというと、そうではない。仮に夢全体の物語が「起承転結」という構成になっていて、その「結」の部分が欠けていると感じるなら、もちろん「起承転」を踏まえたうえで「結」を新たに考える必要がある。しかも、ある意味自分だけではなく、他者もそれに賛同するような結末を導き出すなら、その夢のシナリオはとたんに公共性を帯び、集団的な癒しを演出することにもなる。そこにグループ・ワークの意義もあるわけで、さらに先行する3つのステップの重要さもこれでわかるはずだ。
実は、このプログラムはここで終わりではなく、5つ目のステップがある。
自分が導き出した新たな夢の結末の通りに、現実の生活にもシナリオの変換をもたらすのである。これによって、一回り成長したかたちでの「生まれ変わり」を経験することにもなる。完全に生まれ変わってこそ、初めて人は一段階上の視点を獲得できるのだ。
PTSDの発症は、もちろん戦闘体験に限ったことではない。耐え難い災厄などに巻き込まれたり、近しい人の死を目の当たりにしたり、といったことでも発症し、それに連日の悪夢が伴ったりする。つまり、普通の人が普通に生活していても見舞われる可能性のある特殊な事態、ということだ。そうしたもの全般に、このプログラムは応用できるだろう。
このプログラムを開発したフェニックス復員軍人庁医療センターの精神科医スティーヴン・ブロックウェイは、こう述べているという。

「以前は敵とみなされていた悪夢は、メッセンジャーとなり、そして最終的には夢は友人となる」

夢の心理学

■夢による「謎かけ」

ときにたったひとつの言葉やイメージが、人生全体の指針になることがある。その言葉やイメージは、折に触れ、道に迷ったり、葛藤を抱えたりしたときに思い出され、それが選択の決め手になったりする。
夢でもそうした言葉やイメージが提示される場合がある。そんなとき夢は謎かけや言葉遊びを仕掛けてきたりする。
『夢の世界へ』には、こうした言葉遊びの例がいくつか載っている。
36歳のある女性がこんな夢をみた。
「丸い石の端っこギリギリのところに立ち、川を見下ろしているが、突然その石が崩れ、川に落ちてずぶ濡れになる。石が自分に当たりそうになるが、うまくよけ、友人が川から引き上げてくれたので助かった」
「端に行く(go right to the edge)」は「自分の限界を試す」というスラングで、「ずぶ濡れ(all wet)は「ひどい勘違い」という意味になる。
そこで、この夢は「自分の生活の状況を限界までもっていくことは、ひどい勘違いである」という意味だとわかったという。
27歳の男性は、「軍服を着た首のない兵士が通り過ぎる」という夢をみた。この夢を読み解いてみると、「首なし(headless)」とは「取り乱す(lose your head)の意味だろうと解釈できたという。
40代になりたてのある企業幹部は、作家のパール・バックに関する夢をみたとだけ覚えていた。パール・バックの代表作である「大地」がすぐに連想された。この連想から「大地と再び触れ合い、生活のバランスを取るように」との暗示であることがわかったという。

このような例は、夢が象徴するものと、通常の私たちの「言い回し」との、わりと単純な連想で読み解くことができるかもしれないが、前後の脈絡も何も示されずに、それだけでは何を意味するのかわからないような、文字の羅列だったり、数字だったり、記号だったりが提示されるような場合すらある。まるでそれは、夢が仕掛ける壮大な錬金術の最後の処方箋のようでもある。「この最後の謎が解けるなら、卑金属から貴金属が生成できる」とでも言わんばかりだ。
夢はある重要な事柄を本人に知らせようとするとき、言葉遊びや謎かけがいちばん伝わりやすいと判断したらそうする、ということだろうか。そうとしか考えられないし、そう考えることで、謎に挑戦するのが楽しみになる。夢による「粋な計らい」といったところか。「夢はとりとめのない荒唐無稽なもの」と思っているうちは、こうした謎にチャレンジしようという気にはなれないだろう。
だからこれは、単なる「言葉遊び」というよりは、夢による創造性の発揮や問題解決というテーマに近づいていくかもしれない。それこそ、有名なところでは、化学者のメンデレーエフが元素の周期表を夢でみたとか、発明家のエリアス・ハウが、槍の穂先に穴があいている夢をみて、針の頭ではなく先端に穴を開けるアイデアを思いついてミシンを発明した、といった類の話だ。偉大な発見や発明に至る最後の一押しや、思い切った発想の転換を促す役目を夢が果たしてくれた、という話である。こうしたことは、本人が現実の問題に真剣に向き合っているときに、往々にして起きる。そんなとき人は無意識の海に深く竿を下ろしているのである。まさに、努力に対する夢からの報酬といったところだ。
ただし、メンデレーエフやハウの事例のように「そのものズバリ」ではなく、回りくどい「謎かけ」の場合もあるので、そこが困りものだ。
夢はなぜそのような回りくどい仕掛けをするのか?
私の考えでは、「回りくどい」「意味がわからない」と思っているのは、夢をみた側の勝手なとらえ方で、夢の側にしてみれば、「これ以上明確な伝え方はない」と思っているのかもしれないのだ。

ちょっと想像してみていただきたい。
ある人がある問題を抱えていて、その答えを模索しているとする。あなたはその問題の答えを知っているとする。しかしその答えは、たった一言、あるいはたったひとつのイメージで表現できる場合もあれば、本一冊分の膨大な説明を要する場合もある。もし後者なら、そしてもしその本があなたの手許にあるなら、その本をその相手に渡せばいい。夢がそれをやろうとするとき、その本のタイトルを暗示する何かを本人に伝えればすむはずだが、それが複数の文献にまたがっているような内容だったり、あるいはその本自体がまだ出版されておらず、ただまとまっていない概念だけが存在する、といった場合はどうしたらいいか。
世はまさにインターネット時代である。そこへAIも絡むようになってきた。曖昧なキーワード検索でも、何とか目的の情報にたどりつけるようにもなっている。では、その目的の情報にたどりつくための「キーワード」だけが提示されたとしたら・・・。

実は、私もこの手の「夢による謎かけ」を過去に何度も経験している。謎が簡単に解ける場合もあるし、何十年も前に提示された謎がいまだに解けない場合もある。
ひとつの例を示そう。
あれは私がまだ30代の頃だったと記憶している。ある強烈な印象を残す夢をみた。それは、わが一族の100年にもわたる家族史(しかも隠された秘密)を、たったひとつの場面で象徴的に見せられたような内容だった。もし、わが一族の歴史がひとつの大河小説になったとしたら、その小説のクライマックスになりそうな場面である。それから30年近く経った後で、我が一族の隠された秘密が、母の重い口から語られた。それを聞いているうちに、あの夢の意味が、私の腑に落ちたのである。もちろん実際に起こったことと、夢の中でのシチュエーションはまるきり同じではない。むしろ夢は、事実の裏に隠れている「真実」を象徴化したものだったのである。もし私がその夢をみていなかったら、闇に葬られていたかもしれない(ある意味母さえも知り得ない)真実だったのだ。

今年に入ってからも、すでに二度ほどこの「夢謎かけ」に遭遇した。この二度はどちらも、まさに脈絡のないたったひとつのキーワードだった。しかも日本語ですらなかった。夢で示された「キーワード」をネット検索してみたところ、夢が何を伝えようとしているのか、ピンとくる情報に行きついたのである。もちろん、そのキーワードの意味を、私があらかじめ知っていたわけではない。どちらも私にとってはチンプンカンプンの単なる「暗号」だった。検索して初めて意味を知り得たのである。もちろん、それが正解かどうかはわからない。ただ、私自身が「ピンときた」という点が、現時点においては重要なポイントだろう。つまり、この「ピンとくる」が、わけのわからない単なる記号を、利用価値のある情報に変えるわけである。
それと同時に、「なるほど確かにこのような複雑な内容を、夢が私に丸ごと知らせようとするなら、くどくどしいストーリー展開を組み立てるよりは、たったひとつのキーワードを提示して、あとは本人にネット検索させる方が手っ取り早いな」ということが、検索してみて初めてわかるのである。
このことは、夢の発信源がどこにあるのか、という「謎」の答えも暗示していないだろうか。現代の夢は、インターネットの膨大な情報群を起源にしている? 夢は、人間にもともと備わったAI機能か?
夢の起源については、そうとう深いテーマなので、ここではこれ以上触れない。興味のある向きは、私の「インテグラル夢学」(有料マガジン)をぜひご一読いただきたい。
https://note.com/anthonyk/m/ma605569f7fc3
https://note.com/anthonyk/m/m6b91eb0c1ad7

夢が何気なく壮大な謎かけを仕掛けてくる裏には、「問題を解くには、思い切った発想の転換も必要だ」ということを知らしめる意図もあるのかもしれない。

■夢はあらゆる関係者の「変容」を促す

さて、私たちはPTSDを患ったベトナム帰還兵の悪夢に対処するプログラムを見てきた。夢が込み入った内容を伝えようとするときに仕掛ける大がかりな「謎かけ」も見てきた。
この記事の最後に、原点に戻りたいと思う。私たちはなぜ、何のために夢のメッセージの意味を読み解こうとするのだろうか。夢は私たちに何を仕掛けているのだろうか。
PTSDやトラウマからの回復だったり、行き詰っている問題を解決するための最後の一押しだったり、という裏にある共通の「夢の意図」とは何かを言うなら、それは「変容」ということではないだろうか。思い切った発想の転換とは、意識が変容を遂げる瞬間でもある。夢は私たちに「変容」を仕掛けている。人生に行き詰っているなら、発想を換えて突破口を開くことを夢が促す。ある問題に突き当たって解決できないでいるなら、夢が最後のハードルを越える後押しをしてくれる。
その場合、夢による後押しは、自分の夢とは限らない。他人の夢もそれに大いに役立つ場合さえある。
壁を突破したり、問題を解決したり、悩みを克服したりした後に訪れるのは、以前とは違う自分への「変容」である。「もはや私は、以前の私ではない」という「生まれ変わり」の感覚だろう。しかもこの「変容」は、それに立ち会っているドリームワーカーやドリームカウンセラーといった専門家にも訪れる場合がある。
そこで最後に、次の言葉を引用しておきたい。夢の研究に関する世界的組織「国際夢研究協会」の創立メンバーのひとりであり、40年以上夢の研究に携わるジェレミー・テイラーの言葉である。(『ドリームワーク』より)

「もっとも重い障害を持っている人や内向的な人に対応する場合にも、ドリームワークは、内面的な感情や意欲、それに外面的な言動を変化させるうえで、非常に効果的な方法である。この15年以上、私は教会や学校、病院、刑務所、精神障害者施設など異なる環境で、個人やグループを対象に、さまざまなドリームワークを実施してきた。どの事例でも、性格やパーソナリティの奥深い側面で劇的な変容を目撃した。そればかりか、私自身の人生も発展し変化を遂げた。夢には物事を変容させる力が備わっている。この力は、意識的に夢に注意を向け、夢を研究することで、培い、発展させ、劇的に高めることができるのである。」

ドリームワーク


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