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向田邦子のエッセイを読んだら、自分を認めてあげられるようになった

2021年の半ば、私は、仕事で疲れ果てていた。真夜中を過ぎる帰宅時間。長時間のデスクワークでばきばきの肩。ミスだらけのエクセル。本当に辛かった時期は、よく帰りのタクシーの中で泣いていた。帰路のタクシーの窓からは朝日が差し込んでいた。

自分がとても恵まれているのはよーくわかっていた。コロナで仕事を失うこともなく、仕事の周りの人はいい人が多くて、ぼろぼろの私を丁寧にサポートしてくれた。たまたまプロジェクトが忙しかっただけで、もう少し頑張れば休めるタイミングだった。一人暮らしのアパートに帰れば暖房がつけっ放しになっているため暖かく、ベッドもふかふかだった。仕事のために揃えた小ぎれいなブラウスやらスカートやらを脱ぎ捨てて、そのまま何も考える暇もなくベッドに倒れ込んでいた。

それでも、恵まれていても、辛いものは辛いし、もっと自分にあった生活を夢見たいと、傲慢かもしれないけれど、本当に傲慢なんだけれど、そう思っていた。

そんな時に見つけたのが、向田邦子さんのエッセイだった。

今年で没後40年となる向田邦子さんは、テレビドラマの脚本家としてだけではなく、小説家・エッセイストとしても有名で、多才な人だった。国語の教科書に載っていた「父の詫び状」の著者として知っている人も多いのではないだろうか。

たまたまネットで彼女のエッセイの一つ「手袋をさがす」が紹介されている記事を読んで、「これは今まさに私が読みたいものだ」と思った私は、早速彼女のベストエッセイ集を買って読んだ。期待の通りだった。

「手袋をさがす」は、向田さんが22歳の時、気に入った手袋が見つからず一冬を手袋なしで過ごしたことをきっかけに、その後の自分の生き方についてしたとある決心について語っている。

 私は若く健康でした。親兄弟にも恵まれ、暮しにも事欠いた事はありません。...
 にもかかわらず、私は毎日が本当にたのしくありませんでした。
 私は何をしたいのか。
 私は何に向いているのか。
 なにをどうしたらいいのか、どうしたらさしあたって不満は消えるのか、それさえもはっきりしないままに、ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりこない、と身に過ぎる見果てぬ夢と、爪先き立ちしてもなお手のとどかない現実に腹を立てていたのです。たしかに手袋は手袋だけのことではありませんでした。
 我ながら、何というイヤな性格だろうと思いました。

出典:向田邦子ベストエッセイ、2020年出版

この一節を読んで、そう、私もそうだ、と頷いた。エッセイに向田さんが書いているように、私も幼い頃から自分の気に入ったものでないと納得がいかず、とことんわがままで、良くいえば自分の理想を追求したがる、悪くいえばなかなか満足できない性格だった。もちろん、私には向田さんの才能はないし、彼女のようなセンスがあると言いたいわけでも全くなく、ただ、自分の幼い悪あがきに苦しんでいた頃に、彼女の本当に素直で率直な文章に、そしてそこにほんの少しでも自分の境遇と重なる部分があることに、救われたのだった。

向田さんは、その後、自分の性格に想いを巡らせ、えい、と、反省するふりをするのをやめ、いっそのこと居直って、自分の性格に正直に生きていこうと決める。

 結局のところ私は、このままゆこう。そう決めたのです。
 無い物ねだりの高望みが私のイヤな性格なら、とことん、そのイヤなところとつきあってみよう。そう決めたのです。
....
 今、ここで妥協をして、手頃な手袋で我慢をしたところで、結局は気に入らなければはめないのです。

そしてこの決心をもとに人生を大きく方向転換した彼女は、最後に、こう振り返る。

 自分の気性から考えて、あの時ーー二十二歳のあの晩、かりそめに妥協していたら、やはりその私は自分の生き方に不平不満をもったのではないかーー。

エッセイでは、22歳の晩からの彼女の歩みが生き生きと描かれていて、食い入るように読んだ私は、自分に素直になってもいいんだと、そして、素直にならない方が後悔を招くのだとしたら、早く素直にならないといけない、と、背中を押される思いになったのだった。そしてもっと素直になろうとした私は、向田さんにならい勇気を出した末に、アメリカまで来てしまった。

自分のわがままに向き合い、天を知らない欲を満たそうとすることには、責任が伴う。人生にアクシデントはつきものだし、何かを望むからといってそれが手に入るとは限らない。それでも、その責任を引き受け、自分の性格を受け入れて生きていくことには意義があると、そう信じている。今の私は弱っちいけれど、でも、まだ諦めたくない。

今、ハドソン川と遠くに対岸の灯りが見える窓の外を眺めながら、まだまだ私の人生は始まったばかりだと思う。手元には「向田邦子ベストエッセイ」があり、困った時にはいつも灯火となってくれる文章が側にある。


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