「あったること物語」 8 不動明王
不動明王
うちの母が、こんな話もしてくれました。
亡くなった育ての母、おとら婆ぁさは 不動明王様を信仰していたそうです。
『お不動さん』の愛称でも親しまれているのですが、背中に燃えさかる炎を背負った、怖い顔をした神さまです。
お願い事を聞いてくれる神様だけれど、真っ当な心根で修行を続けないと、罰をお与えになることもあるという 強い神さまなのだと、母はおとら婆ぁさに教わったといいます。
日本各地の修行場や、滝の水を浴びて行をする滝壺などに、不動明王の尊像が祀られているのを よく見かけます。
強い浄化力を持ち、不浄のものを断ち切ると言われるからです。
滝行とは、更紗の白装束に身を包み、足場の悪い岩だらけの滝壺に裸足で入ってご祈祷をすることです。
激しい水飛沫に肩や頭を打ち砕かれながら、なんとか滝の真下まで這うように進みます。
思わず膝をついてしまいそうになる 恐ろしいほどの水圧。
水の勢いや冷たさに晒されて、手足の感覚も無くなり 気は薄れ、けれど世のため 人のため、そして自分のために立ち上がり、つららの下がった 真冬の滝にも入り、身を切られる氷水の中で祈りを捧げるのです。
それらが無事に、何事も無く終わるのを見守って下さるのも お不動さまなのでした。
お滝の行者さん達は 先ず、必ず お不動さまの尊像に 滝行が無事に行われることを願い、塩やお酒、お米で身を清め 祈りを捧げてから水の中へと入っていきます。
そして 終わると、感謝の祈りをまた捧げるのです。
子供の頃から 農閑期になると、列車に乗せられ、母はおとら婆ぁさに不動明王の祀ってある 山の上の小さな修験場へと連れて行かれたそうです。
延々と見上げる 狭くて長い山の石段を登り切ると、そこは昼なお暗い、うっそうとした森。木々に囲まれた山頂には、木造の小さな古いお社が ポツンとたたずんでいたそうです。
どなたが石段を積み、どなたが建てたもうか。
信仰の集まる いにしえの場所。
大きな お不動さんの祀られるお社の中は、十二畳ほどの板間。
板壁のすき間から漏れ入る陽のひかりで その雄々しいお顔がうかがえます。
不動明王を信仰する人々が 各地からたくさん集まってきて、知らぬ者同士がその場で雑魚寝をしながら何日も泊まり込むのだそうです。
米や味噌なども各自で持参するので、修行中は下界との関わりを一切断ちます。
そして おのおのが 滝行や、読経しながら山々を巡る回峰行などを行なっていたそうです。
なにも分からぬまま 養母に手を引かれ、幼い頃から この行場で滝行をしていた母。
「モー、モー、モー……。」
母達が 修行をしていると、夜な夜な どこからともなく牛の鳴き声が聞こえたと言います。
こんな深山に 牛などいるはずもないのに。
「しっ!ほらほら、楽しそうな音が誘ってるよ……!」
暗闇の中で、誰かが声を引きつらせます。
「ピーヒャラ、トン、トン!」調子の良い、祭囃子の笛の音や 太鼓を叩く音が、丑三つ時に 響きます。
「ついて行ってはだめ!」
「扉を閉めて!かんぬきを掛けて!」
押し殺した大人たちの声が 闇に吸い込まれます。
背中に冷や水を浴びるような いくつもの体験を、その場にいた誰もがしたと聞きました。
「怖い、怖い、音がする。誰かが、お社の周りを歩き回ってる、たくさんの人が囲んで歩いてる!」
いっそう暗い 夜明け前、布団の中で怯える母。
「大丈夫。お不動さまが おらるっから、心配せんで良かばい。」
穏やかな おとら婆ぁさの声が暗闇に沁みます。
白白と夜が明けると、それらのことは、まるでなかったことのように 大人たちは、それぞれ支度をして、おのおのの道へ向かいます。
『自分は神さまの声を聞いた、不思議な体験をした。』などと、人間達が安易に勘違いしないように、神さまが色々な音を聞かせては 心を試しているのだと おとら婆ぁさは言ったそうです。
家族の健康と繁栄を願って、信心深く 日々の修行を怠らない おとら婆ぁさ。予知夢を見るのは、この修行の賜物だと話していたそうです。
そしてもうひとつ、婆ぁさが よく語ったこと。
「おいは、家族のことしかみらん、他の人のことまでは、面倒見きらん……。」
不思議な予知能力を持ち、家族のことだけを守る おとら婆ぁさ。
母はよく、修行場を後にするときに 注意されたそうです。
「お滝の行の行われる修験場に、よく観光客がやってくるやろ?お滝の水に入ったり触ったりして、水遊びして帰るやろう?その人たちに近づいたらいかんよ。」
母の周りで、一段と水音が高くなり、おとら婆ぁさの声がかき消えそうです。
「修験者達が お滝の水で清め落とした、さまざまな業や、不浄のものを、知らず知らず 我が身に背負って帰りよんさっからね、その人達は。」
お滝場とその水の流れには、決して触れてはならない。
母はそう きつく言われたそうです。
©︎2023.Anju
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