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奥歯で飴を噛んだ時の方が、私が何者なのか分かる気がする

私が何者なのか
分かっているようで分かっていない
分かっていないようで分かっている
正しいと思って進んだとて必ず失敗や後悔をする
そして、その時に間違いに気づく
それでもその時に正しいと思ったことを
間違っているとまでは思わないことが多い

私が何者なのか
分かっているようで分かっていない
分かっていないようで分かっている
どうしてそう思うのかと言えば
他者から見えた私との食い違いがあるから
それは、確かに気づかなかった私自身だ、
と思うこともあれば
誰かの目のフィルタによって作られた
私ではない私自身だ、
と思うこともあるからだ
そのいずれによっても驚きと発見
(そして時に憤り)があり、
それを目の当たりにするたびに
私は惑い、迷い、立ち止まり、向き合い、考える
そうしてまた、私は何者なのか、を修正する

どうしてそう思うのか
正しいと思って進んだとて必ず失敗や後悔をする
ことになるのか
それは他者のなかにいて、
それは他者とで作るせかいのなかにいて
物事は変容するし、また他者それぞれが持つ目が
それぞれに「正しさ」を持っているからで
さらに言えば正しいことは必ずしも多数決で
決められることでもないからなのだろう

川の流れのような潮流のなかで少しずつ変容し
気づかないうちに、私は深淵を覗かれぬように
屈曲して身をかがめ、無益な諍いを避けるように
何かに迎合したり、受容した「ふり」をする
そうして下流に行きついて、あるいは水べりに
打ち上げられて年月を経て、丸くなったものは
目ざわりが良く、風景に溶け込むことが出来る
のかもしれないけれど、

私は何者なのか
と問うた時に、それは私ではあるけれど
私ではないという違和感のようなものを
飲み下すことが出来ない
それは自分に対して抱く過度の期待
のようなものかもしれないけれど、
同時に丸くなったふりをして
本当は尖った部分を内に収めているだけであって
それがまるで自分についた「嘘」
のような感じがして、それがまるで自分を
傷つけるだけの「痛み」
のような感じがするのではないか、とも思う

型にハマっている時の安心感
自分が多数派であることの安堵
自分にしかないものが欲しいと思うくせに
それが受け入れられないもので
自分がメインフレームから外れると不安になる
なんて如何にもナンセンスだと頭では
みんな思うだろうに、その実多くの人は
似たような思考で惑い、迷う
みんな同じように惑い、迷うのに
まるで自分だけが何もないように感じたり
まるで自分だけが悩んだり、
苦しんでいるように感じたりする
でも、それこそが私が何者か、の本質
なのだろうな

ほとんど同じ、は全く同じではないから
ほんの少しの違い、が私だけの何かなのだもの

何度も同じことを考えながら
私はまた思う…「少し尖ろう」と
何度も同じように言い聞かせているのに
いつの間にか丸くなろうとする
ううん、別にそれを否定しているのではない
その柔軟性もまた私、没個性なのもまた私
感受性が強すぎて、見えないものも見え過ぎるから
自己防衛で丸くならざるを得ないのも
私は知っている

けれど、暴力的あるいは狂気と言っても良いような
尖ったものがあるのも私は知っている

行ったり来たりを繰り返して
丸くなった金平糖を崩して再構築をしたい
急にそんなことを思ったんだ

きっとまた変わるし、きっとまた同じことを
思うのだろうけれどね
私が何者かを知っているようで知らない
私は何者かを知らないようで知っている
と思うのは、こういうことなのだ


たんなるにっき(その56)

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