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クラシックコンサートで隣の席が〇〇な人だったら、どうする?

「えらいすんまへんなぁ~、コレが杖替わりですねん」

開演間近のコンサート会場に響くしゃがれ声。

ガタガタとショッピングカートを引きずりながら、高齢の男性がよろよろ通路を歩いてくる。どうやらわたしと同じ座席列らしい。


そう思った瞬間、

「よいしょっっ!」

わたしの左隣の座席にショッピングカート(スーパーなどで買ったものを入れて引っ張るタイヤ付きの小型押し車)が、乱暴に押し込まれた。

グラグラしてこちらへ倒れそうになる。

わたしは

「おっと!」

と手で受け止めた。
男性は自分の座席へたどり着くのに必死だ。


開演時間が近いとあって、ホールの座席には既にみんな座っている。男性は端から順に

「すんまへん、すんまへん」

と上体を揺らしながら、わたしの隣の座席へたどり着いた。どうやら、歩くのも大変そうだ。

「どっこいしょっ」

彼はドカッ!と大きな音を立てて着席すると、かぶっていたキャップを取って膝へ置いた。

作業着のようなジャージのスラックスにスニーカー、ベージュのシャツとベストのいでたち。
失礼ながらクラシックのコンサートというより、アウトドアの釣り、労働現場から直行したかのようなカジュアルさ。乱れた白髪頭はかなり高齢に見える。くたびれたカーキ色のキャップも、ガサゴソと音を立ててカートへ詰め込んだ。


会場入り口で渡されたパンフレットやチラシの束から、アンケート用紙を抜き出した。何やら記入しようとしている様子だが、その手元も高齢だからか、いまひとつおぼつかない。


観察していると、チラシを束ねているクリップペンシル(ゴルフのスコアを書くタイプで先端に鉛筆の芯だけが付いている小さなクリップ)がうまく使えないらしい。
何度も床へ落としては拾うを繰り返した。カートの中に手を突っ込み、ガサゴソと音を立てて携帯電話(ガラケー)を取り出す。

ガラケーのカレンダーでスケジュールを確認している。どうやら、チケット申し込み用紙に枚数を記入したいようだ。

あまりにも不自然で不器用な動き。

ん?

最初は左利きだと思ったが、彼は左手だけを使っているのだ。なぜ右手を使わないのだろう……。


==========

コンサートが始まった。優美なピアノの音が会場中に響きわたる。
演奏に集中したいが、彼のことが気になった。

気付かれないように、そっと彼の右手に視線を落とす。


「あ……」


彼の右手は義手だった。

少し黄みを帯びた色合いと、ゴツゴツとして皺を刻んだ労働者を思わせるような握りこぶし。色形や風合いは、とても精巧にできている。薄暗いコンサートホールでは、一見すると義手だとわからないくらいだ。

1曲目の演奏が終わり、会場に拍手が湧き起こった。
彼は握りこぶし状の義手と左手で静かに拍手を送っている。
当然だがパチパチという音は、出ない。

長袖のシャツを着ているので、どこからが義手なのかは不明だった。なので具体的にどう不自由なのかは察しがつかない。だが、なんとなく左右のバランスを取るのも大変なようだ。時折、肩や腕、足を不規則に動かしている。


演奏中、彼の上体がわたしの方へ傾いてきた。膝を揃えて座っているのも辛いのだろうか。膝が、どんどんわたしのほうへ寄ってくる。

コンサートホールの座席は、お世辞にも広いとは言えなかった。肩と膝が接触しているのは正直言って、つらい。

もし、彼が高齢でもなく義手でもなかったなら、


「もう少し、ご自分のシートのほうへ足と身体を寄せていただけませんか」

とお願いしていただろう。

だが、彼の右手が義手であることを知ってしまった以上、そう言うことはできなかった。

クラシック音楽が大好きで、今日のコンサートを楽しみにしていたからこそ、不自由な身体を押して会場まで来たのだろうか……。身体のコントロールができなくなってしまうほど、音楽に引き込まれてしまったのか。いや、そもそも身体感覚的に「他者に触れているということが認識できない」のだとしたら……。
ここは彼よりも年齢が下で体力もある自分が「善処」するのがいいかもしれない。


わたしは、ギリギリまでシートの右側へ寄ることにした。幸い右隣は空席だ。その向こう側の客が荷物と上着を置いていたが、誰も座っていない。空間は十分あった。左足を組んで右へ流し、首と肩を大きく右側へ傾けると男性と膝や肩が接触することはなくなった。


==========

休憩時間になると、周りの人たちが次々と席を立った。わたしもロビーに出たかったが、男性は席を立つ気配がない。立つのも座るのも大変そうな彼に負担を掛けるのは気が引ける。わたしは席を立つと、彼の座るシートとは反対の右側から列を出た。

休憩時間が終わり、開演前に戻る際も、座席列には右側から入って自分のシートへ着席した。左側通路から入るより、多くの人の膝を乗り越えねばならない。気は使うが「立ち上がるのもままならない彼とカートをまたぐ」よりは、いくぶんか気が楽なように感じた。

後半の演奏が始まり、しばらくすると彼は咳き込み始めた。しゃがれた咳がホールに響く。あたふたしながらカートの中に左手を突っ込み、ガサガサと音を立てている。どうやら、アメをなめようと包装を開ける音をさせているようだ。

「ゲホゲホ」
「ガサガサ」

明らかなノイズが、なめらかなピアノの音に混じって目立っている。

鈴木敦史著『クラシック悪魔の辞典』に、クラシックコンサート中に聞こえてくる咳や咳払いというのは、ある意味、生演奏(ライブ)ならではのBGMやお約束というような事が書かれていた記憶がある。

実際、人間は咳を我慢しようとすればするほど、むせてしまいがちなもの。クラシックのコンサートに慣れている人なら、なるべく開演前にのどを潤したり、取り出しやすいポケットに音のしづらいアメを忍ばせたりしているものだ。


彼はやがて、アメを取り出すとマスクをずらして口に投げ入れた。だが今度は口の中でアメを転がすカリカリという音や、かみ砕く音(咀嚼・そしゃく音?)が聞こえてくる……。残念ながら、彼がアメを食べている間は演奏に集中できなかった。

==========


ステージラストの曲もアンコールの時も、彼は身体を大きく揺らしながら、右の握ったこぶし状の義手と左手で精一杯の拍手を送っていた。パチパチという拍手の音は出ていなくても、割れんばかりの拍手が聞こえるようだ。のけぞり傾いた身体から時折、思わず発してしまうのであろう「ええなぁ」「すごいなぁ」という声からも、感動が十分に伝わってきた。


ピアノ独奏がメインのクラシックコンサートで、印象派の穏やかな曲調が多かったからだろうか。正直、はじめはどうなることかと思ったが、コンサートが終盤に近付くにつれ、清らかなピアノの音色に沈静させられた気がした。音楽とは、こうも人の思考と感情を正常に整え、優しく作用するものなのかと。


終演後は、彼が席を立つまでシートに腰掛けたまま、待っていようと思った。

アンケート用紙や渡されたチラシの束を眺めていると、わたしの右隣りに座っていた男性が彼のシートまで来た。

「これ、ちょっとどけてくれません?」

男性は少しけげんな表情で、そう言った。

「あー、すんまへんな!」

彼は身体を大きく揺らしながら、カートを左手で押さえて目いっぱいのスペースを作った。

すかさず彼の左隣の席に座っていたマダムが

「あんねぇ~ これ(カート)が、もう杖替わりなんやってね~。通らはるん?行けそ?」

と助け船を出す。

いいぞ!これこそが関西マダムのエレガンス。男性は無言で彼のカートをまたぐようにして前を通り、列の端へ抜けていった。

彼はガサゴソと、またもや大きな音を立てて帰り支度をする。カートからキャップを出してかぶると

「よっこらしょっと!」

勢いを付けて立ち上がった。

「ほな。えらいすんまへんでしたな」

ちらりとこちらを見て、彼は言った。

「いえいえ大丈夫……です」

わたしが言えたのはそれだけだった。



再びガタガタとショッピングカートを引きずりながら、壁づたいに上体を揺らして、彼はホール出口へ向かって歩いて行った。

==========


チラシとクリップペンシル、拾ってあげたらよかったかな。
あの時に「何かお手伝いできることは?」
の一言が掛けられたら、よかったのかな。


演奏中のガサゴソや足や肩が触れるのを、わたしがちょっと不愉快に思ってたこと、気付いてたのかな。


ひょっとして、わたしに迷惑かけていると思ったのかな、謝らなくてもよかったのにな。

さまざまな思いが湧き上がってきた。
……わたしは優しくなかったかもしれない。

なんだか、彼に対して少し申し訳ないような、複雑な気持ちになった。
彼が高齢でなければ、右手が義手だと気付かなければ……きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。

彼がどんな人物か、どんな事情で右手が義手になったのかは、わからない。ひょっとして右手があったころは、ピアノを弾いていたのかもしれない。そんなことを想像してみたりもした。握ったこぶし状の義手で渾身の拍手を送る姿を思い出して、なんだかちょっぴり切なくなった。



コンサートでのマナーは、服装から拍手のタイミング、演奏中の咳払い音、コロナ以前は「ブラボー」の掛けどころまで、色々うるさく言われることもある。だが、演奏者はそんなマナーうんぬんより、心から音楽を楽しんでもらえるのが何よりの喜びだろう。きっと今日のピアニストや歌い手も、そう思っているに違いない。

ちょっとお騒がせだったけれど、義手の彼には、これからもずっと、誰にも遠慮することなく好きな音楽を楽しんでほしいと思った。

もし、また今度、同じような場面に出くわしたら……

わたしはどうするだろう。


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