願う世界にたどり着くまでに私が歩んだプロセス、今ここ
この世界の光と闇
人生はいつもシーソーのようだと思う。
右に行ったかと思えば左に寄って、落ちたかと思えば昇って。
本当は右も左も、上も下もなくって、ただ、そうやってこの三次元の空間を余すことなく味わっているのだと思う。
特にわたしは自分の中に両極が存在するのを強く感じるが、きっと実際にはすべての人がそうなのだろう。
小さいころからわりと明るい子どもだった。
友達もたくさんいたし、いつも笑っているねと言われていた。
同時に闇ばかり気になる人間だった。
キラキラ光るものよりも暗いものの奥に何があるのかの方が興味があった。
闇というのはすなわち、人が見たくない部分であり隠されている部分でありでもきっと探せばすべてのものに裏打ちされている。
そして光が産まれる場所。
生い立ちを少しだけ
宗教を生業とする家庭に生まれ落ち、たくさんの愛情とサバイバルな環境が与えられたことで心身ともに逞しく育った。
小さい頃からこの世の原理原則や生まれてきた意味を教えられ、それらを吸収していたので、よい成績をとったり人間関係を築いたりすることは比較的スムーズにできた。
なぜか私には、自分以外のすべての人間にも、そういった原則が通用するのかこの目で確かめたいという欲求があった。いわゆるプラシーボ効果のように思えばそんな気がするとかいう範囲ではなく、誰もを平等に支配するような強力な原理原則が実際にあるのかどうか知りたかった。
だからこの社会のことと人間のことを丸ごと知りたくて、死ぬほど勉強して一番専門性が高そうだと思った仕事に就いた。そこで20代はあらゆるものを吸収しようと動き回り、いろんなことが実現して本当に面白かった。
同時にこのとき、徹底的に闇と向き合い続けた。
社会とか心理学とか現場とか、そういうところに答えがあると思って必死に探していたけれど、どこまでいっても手応えみたいなものはなく、何をしていてもまだまだ十分じゃないと感じていた。
転機のおこりかた
様々な出逢いの中で、ふと、社会とか家族とか生れ落ちた環境に自分を嵌めようとし続けて生きていることに気付いてしまった。いわゆるよい成績や、よい人間関係みたいな枠組みから全く自由になれていないことにも。
誰が作ったものでもない、でも自分があると思い込んでいるその枠組を観察するうち、それがいかにつまらないものか段々わかってきた。そしてその中に押しとどめているのは他の誰でもなく自分の内なる声だということにも。
そこから解放されるには、瞑想とヨガがとても役に立った。
最初は補助輪をつけるようにして、だんだんと自走できる感覚が掴めてきたころ、私は思い切って仕事を辞め、ひとりインドへ旅立った。
不思議な縁で導かれたアシュラムには、世界中から探求者が集まっていて、そこで過ごした2か月あまりは人生にとって珠玉のような時間で、心の底から満たされた。たくさん恋もした。どこまでも深く自分の内に入っていき、そしてこの世界に生まれることを決めた自分と繋がっていく感覚があった。
転機その後
よし、あとは創るだけだ。
自分が創りたいと願っている世界を。
しかしそう思って日本に戻ると、以前から自分に染み付いた癖が噴出した。どうしてもあたらしいものを創るためにとろうとする行動が、古い感覚で汚染されたものになってしまう。思考の声も再び襲ってくる。
このエゴと徹底的に向き合うために必要なのは、仲間だった。ひとりでは気付けなかったし、気付けない仕組みになっているのだと思う。いつも格好をつけたがる自分が最も見たくない嫌な部分を徹底して指摘してくる、エゴを焼き合った仲間たちとの合流は、どう考えても人生で一番の幸運だった。
そして宗教というものにも自分なりに徹底的に向き合った。とにかく思い込みのフィルターを外してありとあらゆる神仏に会いに行った。開放しているところにはくまなく飛び込み、すごい量の書籍を読んだ。そうして日本に順に降りた経綸の流れや地球の次元上昇の流れが理解できるようになった頃、もう一度生まれ変わるとしても、私の魂はこの家にこの時期に生まれることを選ぶのだろうなという確信と感謝が湧いてきた。
そして、これから
一番よかったのは立ち止まったことだと思う。
それができたのは、2020年というこの素晴らしいタイミングだったからだ。
すべてを辞めて、すべてを止めて、蛹になることができた。
丁寧に、ただ生きるために生活をする、ということを除いて。
その中で、なぜか見えないものが視える人たちとの強烈な出逢いが続いた。結局自分は未だ見えないけれど、それが在るということは確信を持たざるを得ないほどの強烈さであり、また冷静に見分ける力が付くほどの量だった。
そして現実創造は、まずは見えない部分を先行して始めることで、三次元的に見えるものは後から付随するのだと徐々にわかってきた。
そうなると、これまで全く思いつかなかったような、今あるふつうでは理解されないような、そういうものをやっていくことでしか、あたらしいものが生まれないということがわかってきた。
これからの時代には、これまでの成功パターンも経験則も全く通用しない。
むしろそれらをどれだけ捨てられるかどうかにかかっていると言える。
誰にどう思われても、誰も理解できないようなことをやったもん勝ちなのがこれからなのだ。
それから導かれるようにして、自分の担当は現実を創っていくことだと思い知った。感覚で受け取ったものを言葉にして表現し、あたらしく創ること。
そうやって創りたいのは、すべての生命の循環とともに在る世界。
そしてそれは子どもたちを真ん中に置くコミュニティ。
既にそんな場があちこちに出現し始めている。
そして必要なピースが集まってきている。
流れの中でそれに立ち会う奇跡をたくさん体験させていただいている。
すべてのことが、喜びしかない。
いつまで経ってもこれが答えとかこれが終わりというものはやって来ないということが、ようやく骨身に沁みてわかってきた。
これから、はじめる。
そして、はじめ続ける。
どんどん軽く、あたらしく、次々に。
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