見出し画像

君は古文なんか読まない(あいみょん風)

古典学習は必要か問題

学生時代の友人から「ツベ様(国際基督教大学教授・ツベタナ先生)がabemaTVでてるよ」と連絡が来た。

古文・漢文学習は必要かという、取るに足らない議論だったので流しながらみたが、ツベタナ先生の場面だけはしっかり拝見させていただいた。生きていくうえでの、古文を学ぶ必要性を真っ向から熱く訴えるツベタナ先生は相変わらず格好よくて痺れた。

恩師との出会い

ツベタナ先生に出会ったのはICUの学生だった頃。ブルガリア出身の色白で赤髪でグリーンの瞳が印象的な情熱に溢れる先生だった。若かりし頃、彼女はモスクワでの学生時代に『とはずがたり』に出会ってしまい、日本の大学院へ留学する。その後、日本古典文学のブルガリア語翻訳等を経て、現在は日本で日本の古典文学の研究者としてご活躍されている。日本の古典文学に魅せられたブルガリア人の女性。彼女のことを思い出すとき、つくづく数奇な人生だなぁと思う。

豪快でチャーミングなのに品のあるツベタナ先生が教室で「もののーあはーれー」と熱量高く叫んでる姿は今でも脳裏に焼き付いている。当時の私は文化人類学専攻で日本文学は卒業単位に必須ではなかったのだが、彼女の授業が特別好きで片っ端から取っていた。古文という媒体を通して、私は日本人であるということとは、美意識とは、生きることとは等本質的な問いを繰り返し学んだ。

文化的教養とは

テレビでは古文が"必要性"とかいう資本主義的文脈に回収されようとしていることに腹が立った。生産性に寄与するものだけが学問ではない。古文をはじめとする文化的教養は日常の解像度をあげて、人生を精神的に豊かに生きるためにある。道に迷ったとき、くじけそうになったとき人生を支える杖となったのはいつでも文学や音楽や芸術だった。少なくともそうやって私は生きのびてきた。テレビでもツベタナ先生は同じような見解を述べていて、やはり私は彼女の学徒であるということに安心した。

ICUの同窓誌「ALUMUNI NEWS vol.118 NOV2012」においても、彼女は文学メジャーの役割を以下のように語っている。

ICU のリベラルアーツにおける文学メジャーの最大の役割は、学生たちが幅広い学びから得た知識を活かす場面が訪れたとき、人間性、つまり心を失わないように導くことだと思います。現代社会ではプラクティカルな知識をもてはやす風潮が強まっていますが、「役に立つか立たないか」、「 お金になるかならないか 」 という評価基準が絶対的なものとなってしまうのは非常に危険なことです。しかし文学を学んでいれば、より多様な価値観や感性に触れることができる。古今東西の文学の中で、人はなぜ生きるのか、生きる上で大切なものは何なのかというテーマを扱わないものは一つもありません。損得を超えて本当に大切なものを見極める心を育てることで、ICUで培われた知識が真に有意義なことに使われるよう働きかけてゆくことが、ICU の文学メジャーの大きな使命です。

久しぶりにツベタナ先生のインタビューを読み返して、彼女の元で学んだ時間は、私の人生にとっての財産であり礎となっていると改めて思った。

失恋と赤いリップ

ツベタナ先生との忘れられない個人的なエピソードがひとつだけある。私が大学3年生の頃。私は初めての破局・失恋というものを経験した。バカ山(ICUのキャンパスの芝生の通称)で友達といつものように寝っ転がってだべっていたら、ツベタナ先生が偶然通りかかった。

「あら、あなた失恋したわね」と先生に急に声を掛けられた。どうしてわかったのかと驚いて尋ねると、「赤いリップ。失恋した女の子は強くなろうとするからね」と言った。「それに、憂いを帯びた女の顔は美しい」とチャーミングに付け加えた。この人の感受性・観察眼には一生敵わないと思った。

▽このエピソードに着想を得て書いた短編小説


ICUで学ぶということ

ICUでリベラルアーツを学んで良かったことは、どの分野においても批判的思考をベースに本質を追求できる環境と仲間ができたことだ。

最近は大学なんて…勉強なんて…という風潮もあるがそれはプラクティカルな表面上だけの学問に限ると私は思っている。本質的な学問、すなわち人生の真理を追求していくことは心から面白いし、自分の人生や社会を豊かにする。

私はいま一度アカデミックな世界から巣立って、小さくても自分が見てみたい世界を実際につくってみる実験の途上にある。そこでまた問いにぶつかったら、また大学院に戻る可能性もあるなと思ってもいる。

プレーヤーでいるか、学問の世界に戻るか、どう転ぶかはわからないけれど、いずれにせよ感受性と批判的な思考を駆使しながら人生を続けていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?