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私の学び直しー仕事・子育て真っただ中でも大学院で学びたかった理由

「私たちはなぜ学ぶのか」は、私の大きな関心事の一つである。最近新聞で読んだ記事の中で強く印象に残った言葉がある。文化人類学者、今福龍太氏の言葉である(2022年6月12日付 朝日新聞「いま、『知識』ではなく『知性』を」):

(要約)
「役に立つ」知識=情報は、その社会に有用か否かの基準で判断され、実利的な目的のために使われ、体制に組み込まれ、それを支える力となるだけである。そのような「知識」では、人間の命や自然の摂理については学ぶことはできない。

「知」は、我々の社会を創造していく真の力であるが、その時の「知」とは「知識」(knowledge)ではなく、「知性」(intelligence)である

だから「リスキリング」とは、「実利的な目的のために使われ、体制に組み込まれて、支える」ことを目的とした学びだと思う。国の呼びかけに、官民が一斉にその方向に向かう。そんな今の状況の中で、「私たちはなぜ学ぶのか」を自分に問いながらこの文を書いた。

今福氏の視点に立ったら、かつて私が大学院に入った理由は不純だったと思う。引きずってきた過去に決着をつけることが目的だったのだから。

その時、娘3人をアメリカンスクールに入れ、35年の住宅ローンを抱え、バブル崩壊の後遺症で夫の会社が傾きボーナスも出ないような状態だった。私は娘の学費を稼ぐために私立学校の法人部門で窒息しそうな思いで働いていた。

アメリカンスクールに入れたことは、私の信条・信念があってのことだから絶対やり抜くと決心していた。私が稼いだ収入はアメリカンスクールの学費にほぼ消えた。子供には自由な学校を提供する代わりに、あれほど嫌っていた閉鎖的で同調圧力の強い日本の学校で、私が働くことになったのは皮肉なことである。

その当時も今のようにRecurrent 教育とか生涯学習などということがかまびすしく言われ、大学は社会人目当てに大学院への募集を行っていた。学部学生が減少する中、起死回生の策だったことは明白だったけど、今の自分の気分を変えられるのならと応募することにした(現在また「リスキリング」などと名を変えて、似たようなことを喧伝している。変わらないなあ、日本は!)

引きずっている過去とは:
大学時代、大して勉強することもせず、卒論を書くこともなく、卒業式に出ることもなく私は卒業した。ちゃっかり教員免許まで取って。

その後、マレーシア在住中にオーストラリアの大学院に入った。しかも二人の幼児連れで。分かってはいたことだが、挫折した。でもやらないで後悔するよりやって後悔した方がいいと勢いでやってしまった(でも、無駄な経験ではなかったと思っている)だから、この再々挑戦は、そんな思いに決着をつけることだった。

「修士論文を書くこと」で。

用意周到に準備した。事前に自分の選んだゼミの先生と会って話をした。日本人の先生ではなく、外国の教育システムで教えていた外国人の先生から学びたかった。彼は日本語で議論することはできたが、読むことには限界があった。だから論文は英語で書くことにした。

評判通りの厳しい先生であった。ミシェル・フーコーやハーバマスに学んだ人で、日本の前はカナダの大学で教えていた。また世界中の学会や研究に加わるインターナショナルな学者でもあった。

私はタンザニアでのボランティア経験とマレーシア在住10年の体験をもとに、日本のODAについて修論を書くつもりであった。トピックを煮詰めて行って最終的に、戦後、アメリカ主導の経済圏を東南アジアに構築するために、ODAの前身となった日本の戦後賠償政策が果たした役割についての論文を書いた。

修士論文をを製本し、口頭試問を受け、無事修士号を授与された。卒業式も夫と共に出席し、積年の思いを果たせた気分だった。修論の出来は不満足だったけど、もう私の限界だったとも思う。娘たちを総動員して、パソコン入力を手伝わせたりもした。しばらくの間、本を見るのも嫌だった。

先生からは、「日本の戦後賠償政策についての多くの先行研究は、日本の戦争犯罪に対する懲罰的なアプローチが多い中で、アメリカの視点から政治経済的なアプローチで分析した論文は斬新である」と評された。

この先生のもとで学んだことは私の人生に大きな影響を与えた。論文を書くにあたって、先生からは、哲学書を始めとするいろいろなジャンルの本を読むように言われた。そんな時間などない私に何故遠回りさせるのかと思ったが、「心の升を大きくすれば、より多くのものがすくえます。それは論文に表れます」と言われた。納得!

さらに「あなたの論文を支える理論を学びなさい」とも言われた。先生は理論を重視する人である(曰く、理論は論文を終始一貫して突き抜ける心棒のようなもので、それがないものは、パッチワークでしかないと。う〜ん。戦後のアメリカ中心の世界体制を考えれば「ヘゲモニー理論」ということになるか) また、「ゼミでは大いに議論をしなさい。議論を通して自分の考えの弱いところが見えてきます」とも言われた。納得!

学ぶ意味はいろいろあるだろうが、日本社会が実利的な知識の習得に終始している限り、日本の未来は創造されないのではないかと危惧する。



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