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再び日本の学校教育について〜人生で必要なことは、ほとんど家庭で教えられる❗️


この記事は、上記の記事の続編です。

私は人生で必要なことは、ほとんど家庭で教えることができると思っている。
家庭で教えられないのは、他者との関係だけだと思う。これは、本人が体験を通して学び取らないといけない。


でも基本は自分自身だと思う。寄って立つ「個」を持たないと、他者にも対峙できない。個を確立するための基礎は、家庭で十分に築いてあげたい。子供が親許を離れるまでに、親としてできる一番重要なことだと思う。「我が子は一人でやっていける」と思えるまで。

私は、我が子の教育を全て学校に委ねたいとは思わない。そんな大切なことを学校任せになどしたくない。私にとって学校教育とは、子供が生きるための知恵やスキルを学ぶための選択肢の一つである。それ故、むしろ精神形成の過程で、学校教育から受ける悪影響や一方的な意識の刷り込みを恐れる。

それは、子供の年齢が低ければ低いほど、その刷り込みは容易に子供の心に定着するからだ。古くは、戦中の軍国少年少女たちだった人たちの言葉「学校で教わることは信じて疑わなかった」し、大人達だって「大東亜共栄圏、正義の戦いに日本が勝つ」と信じていた。

直近では他国を侵略した国家がその正統性を国民に説いて信じ込ませている状況。選択肢や言論の自由がない状況下では容易にそんなことが起きる。そして、一度信じ込むとその思い込みから解放するのが大変だ。ああ、繰り返される歴史!

道徳的、情緒的なアプローチで国民の精神的風土を同質に作り上げる(国語の教科書に掲載されている定番教材が最もいい例だ。ごんぎつねしかり、ちいちゃんのかげおくりしかり、スーホの白い馬しかり、火垂るの墓しかり…) 。


国民には選択の自由を与えない。裁量権は、国民にゆだねない。国民は、学ぶものを国から提示されたものの中からしか選べない(アメリカなどのように教師の裁量に任されていない)


学習指導要領に固執し、教育内容や指導方法を周知徹底させ、教科書を検閲して公教育を統制している状況、おかしくないですか?(教科書検定ーある教科書は合格となり、あるものは失格。でもその理由について納得のいく説明がなされないという現状。教科書出版界が混乱し、困惑しているようだ)これが日本の公教育の実態だ。

こんな画一的で硬直した教育をしていたら、教育のダイナミズムが失われ、多様な人間など育たないと思う。子供達は知らず知らずに、その教育内容を刷り込まれ、同質化され、同調圧力がますます強化される。


でも、それが国家の狙いではないかと勘ぐっている(こんな政策、徐々に国の衰退につながる、と思う。いやもう始まっているかも?世の中の若者が元気に見えない、将来に展望が持てないと言うこの閉塞感。私の思い過ごしだろうか?)


ブレイディみかこさんの本に書かれているイギリスの公教育や我が娘達が受けたアメリカの教育(後で触れるドイツの教育も)と日本の教育を比べるにつけ、彼我の違いを感じずにはいられない。それは私立だろうが公立だろうが大きな違いはないと思う。


公教育に対する考え方が彼我では根本から違うからではないかと思っている。日本の教育の根幹は、明治近代化の時代の教育思想(国民皆学)にあり、その精神は現代に至るまでそのまま継承されていると感じている(日本の戦前戦中の愛国教育を担った多くの人が、戦後も教育界に横滑りしたらしいーおそらくほとんどが男性だろう。あの時代、女子供に意見を言うチャンスは少なかっただろうから)


いまだに近現代史をきちんと教えない。市民として社会で自立して生きていくための教育(人権意識や政治意識、憲法や法律、お金の問題など生活に直結する知識の授与)が軽視されてきた。

結果、naiveナイーブな日本国民が出来上がる(ここで言うナイーブは、英語のネイティブスピーカーが意味する「幼稚、無知、未熟、稚拙、世間知らず」である)。だから物事を批判的に考えたり、議論したりすることがとっても苦手。

日本の学校教育では政治を語るのはタブーだ。でも政治は我々の生活そのものなのに。その関係を教えない。だから海外のメディアに日本の表現の自由度は低いなどと言われてしまう。


ブレイディさんの「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 1、2」や「他者の靴を履く」で交わされるお母さんと息子さんの会話が素敵だ。「本当に中学生なの」と思ってしまうほど彼の考えは深くて豊かなのだ。


Citizenship市民教育という授業の試験問題で「Empathy(日本語には対応する言葉がない。他者の感情や経験を理解する能力、だそうだ)とは何か?」と問われた時、彼が答えたのは、

「他人の靴をはいてみること」!!!

  *ちなみに、日本語には「共感」という言葉があるが、これに相当する英語は
   Sympathyである。共感は自分と同じ感情を持つ人への同調の感情だ。
   Empathyは例え嫌な奴でも立場の違う人でも、その人の感情や経験を理解
   する能力らしい

この彼の思考の深さ豊かさは、学校の自由で斬新な教育(ブレイディさん曰く、「底辺校だったのに、今では脱却している」とか)もさることながら、日々のお母さんとの会話で養われたものだと思う。

また、もう一つの例では、学生委員といういわゆるリーダーのポジションに立候補する際に、出された面接の質問「リーダーに必要な資質とは何だと思うか」では、息子さんは以下のように回答したらしい(お母さんが見つけたメモから)。


一つ目 “Lead by example” 「言葉だけで指示するのではなく、自分がまずやってみせる事が大事」
二つ目 「導く(Lead)ということは、前から引っ張るということだけではなく、ときには一番後ろに立ち、後部が離れてしまわないように押し上げる(Push up)こと」

二つ目の回答は、彼女が貧困地区の保育園で働いていた時の師にあたる人の言葉だそうだ。その人がよく語っていたそうで、その理念が息子さんに引き継がれていたことを知って、感慨を深くされている。そして、続けて以下のように書いている。

「教育とは、教え導くことではなく授けることであり、授けられ、そして委ねられることなのかもしれないと思った」


子供への関わり方次第でこんなにも違いがでるのだと、自分の子育てを省みてしまった。

さて、私たちはこの息子さんに何故驚きを感じるのか?それは、中学生という生物学的年齢で判断しているからだろう。しかし、彼の心の年齢はずっとずっと上に違いない。このことに関連して、オードリー・タンさんの「自由への手紙」に興味深い一説があるー「年齢から自由になる」

タンさんは、14歳で中学を自主退学するまでに、いろいろな小学校を転々としたそうだ。その中で、ドイツの学校での経験に大きな影響を受けたという。

タンさんは11歳でそこの一級下のクラスに入った。だから同級生は全員年下のはず。でも、そこの子供たちは、台湾の同年代の子供たちより大人びていて、15〜16歳くらいに見えたそうだ。「ドイツの子供たちは、自分たちでスケジュールを決め、自分たちでクラスを選び、自分の主張を的確に伝えること」ができたそうだ。なぜだろうか?

タンさんが出した答えは、「ピグマリオン効果」ということだ。

「大人が子供に対して、大人のように振る舞うことを期待していると、子供は期待に沿うべく育ちます。反対に、大人が子供を赤ちゃん扱いすると、相手もその期待を満たす行動をとるようになる」

「生物学上の年齢で人を区別してはいけない」
「その人の生き方や社会的期待に働きかけるべきだ」

このことは、同著でタンさんが日本人に向けたメッセージの一つである、生物学的年齢から自由になろう、と❣️


他の国々の公教育がこのようになされている時、日本では小学校の正式な教科と
して道徳が導入されたそうだ。その内容は、学習指導要綱によれば「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」「家族愛、家庭生活の充実」「節度・節約」「規則の尊重」「勤労、公共の精神」など22項目があげられているとか(「不道徳お母さん講座」堀越英美著から引用)


なんだか大昔に見たことがあるような言葉が並んでいる、と感じたのは私だけ?この教育内容、どうやって提示するのだろう。一歩間違うと国の考えの刷り込みになる危険性がありそうに思えるのだが。

個々の項目には生徒の数だけアイデアがありそうだし、大体この教科どうやって試験して、評価するんだろうか。正解はあるのだろうかとふっと思ってしまう。

この教育の目的は、「(国に)期待される人間像」を学ぶこと?ー遠い昔にこんなスローガンがあったよなあ!


日本の公教育からは、トップダウンで国民を統制しておこうとの意図を強く感じる。ここには、国民を信用していない、国民の自由意思を尊重しない昔ながらの国家観(お上とそれに従順に従う庶民による国家)が依然として存在している、と私には感じられてしまう。

                 *****

ブレイディさんは、ある日息子さんから「でもライフって、そんなもんでしょ…..」という言葉が出た時、母親として息子さんの成長を感じたようだ。

「ライフ」という言葉を口にするようになったのだと。「ぼくはイエローで・・・2」は「ネバーエンディング・ストーリー」というタイトルの章で締めくくられている。子供はどんどん成長し続ける、そして人生は続くと!!!


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