追憶
妹が産まれるころ。4歳の私は、父方の祖母に預けられた。お能の先生をしていた祖母は生徒さんたちが来ると私を追い出し、家の外の庭みたいなところの砂利で私一人を遊ばせた。私は正直とても寂しく、つまらなかった。
そんなある日、母が私を迎えに来て「かなちゃん!迎えにきたよ!」という声が母に背を向けていた私の脳に響き私は震えが来るほど嬉しくて、泣きながら母のもとにかけつけ、抱きついた。
母は優しかった。母自身30代にして最愛の母(母方の祖母)を失いまもなくして父親も旅立ち両親を失くした。実の親という支えを失くした母が、私達幼い姉妹を育てるのがいかに苦しく大変なものであったか。今は想像できる。
そんな母は寂しさからか私が中学生の時から高校生の間パチンコ依存症になってしまった。
朝起きたら母はいない。テーブルに置き手紙が、おいてあって、「今日はどこどこのスーパーへ行ってきます。」と書いてあった。そのほとんどは偽りであって、パチンコ屋が閉まって、行くところがなくなり、今日もお金がなくなった。時には金融機関から借金してしまった。と恐怖の電話が自宅の父親宛にかかってきた。
そういう手紙が置いてあるのを見た私は、動悸がするようになり原付の音が家の側の道路から聞こえると、もしかして母親が帰ってきたのかもしれない。と期待してテーブルの上に立って出窓から道路を眺めては母でないことを確認すると深い絶望に陥っていた。
しかし、私が浪人生活になると母は次第にパチンコ生活をやめてくれ普通の優しい母に戻っていった。
母は祖母譲りの料理上手で中学生の部活の時には、仲良しグループの友人から「かなちゃんのお弁当すごーい!」と絶賛された。晩ごはんのおかずはいつもとても美味しくて白ご飯とは別に4品は出てきたものであった。
私が大学生の頃、家が貧しくて旅行一つ行けなかった母を北海道のバスツアーに私のおごりだから。と誘うと目を丸くして「本当にいいの?」といった。飛行機を待っている間の初めて飛行機を見る母の驚きに満ちた顔や目は忘れられない。
他にも妹と3人で今度は金沢へのバスツアーに連れて行ったりもした。
しかしその時の私がとった写真が数年もしないうちに母の遺影となった。母は私達娘よりも、父を深く愛しており、結婚30周年を1年前に控えたある日、乳がんの末期宣告をされた。最初に行った病院で余命宣告どころか手術もしてもらえない。と言われた母は、泣き崩れた。その後病気を知らないふりをして行った大阪の遠くの病院が治療をしてくれることになり、母はそこで亡くなった。
後で聞いた話だが、母は自分の病気に気づいていたが、あまりの家の貧困による医療費の心配や当時官僚試験を控えていた妹に対して悪いという気持ちがあり、わかっていて病院には行けなかったという。私はこの話を聞いたときどれだけ家庭の事情や気づかなかった自分をどれだけ責めたかわからないほど悔しかった。
手術から2ヶ月程の入院のあいだ、私は奈良からその大阪からの病院まで毎日通い、差し入れをしたり、初めて抗がん剤を打たれて涙を一粒垂らした母を見守った。
しかし、日に日に弱っていく母を見ていられなくなり、今度は試験を終えた妹が自宅でほとんど介護した。そのことで私は後に父や妹から責められることとなったがもう私は形骸化していて、何もできなかった。
母は本当に優しかった。28歳にして最愛の母を失った私は、どうしようもなかった。訃報をきいた友人から「お母さんがいなくなるなんて私には考えられない。」と非情なことを言われて深く傷ついたり、料理もできない、コンビニもない環境の私は食べるにも困るようになった。
母は父との30周年旅行の悲願を果たせずどれだけ悔しい思いだったろうか。と考えると切ない気持ちが溢れ出す。
最期の方まで、母はしっかりした妹ではなく、芯の弱い私のことを心配しながら亡くなっていったと、後からきいた。そんな自分が情けなかったが今の私は、「大丈夫お母さん、私は幸せだよ」といってあげられる自分になったと思う。
だからもう天国から心配しなくていいよって母に夢の中でも逢えたら伝えたい。
今頃、お父さんと一緒にまた仲良く暮らしてるよね、本当にありがとう。
私もまた再会できるように頑張るよ。だからそっと見守っていてね。
最愛なるお母さんへ。
#創作大賞2024
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