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「犠牲になるべき人はだれ?」人工呼吸器を使用するアジア系アメリカ人の障がい者による、ゆたかさへの問い

「これからのゆたかさ」は、障がい者のコミュニティからはどう見える?
脊髄性筋萎縮症を持って生まれ、日常生活に人工呼吸器を使用するアリス・ウォンは、障がい者の人権活動家。彼女たちにとって「コロナ後の世界」はなく、「まったなし」の今がせまっている。コロナ禍での訪問医療への移行や、トリアージにおける「生活の質(QOL)」規準の適用は、障がい者のコミュニティ全体への脅威となる。ウォン氏は自らの体験や、全米で議論されているトリアージについての議論をふまえ、社会をどうふくよかにしていくかを問いかけている。

この記事には、米国の障がい者運動に馴染みのない人も、今までの障がい者をめぐる状況や議論を学べるようにリンクが沢山盛り込まれている。注意して「バリバラ」でも見ない限り、なかなか日本のメディアには出てこないFirst-person(生の声)として、翻訳をした。
(原文は2020年4月4日のVox紙に掲載

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自動ドアをひじで開けるときは障がい者運動にも敬礼を!

アジア系アメリカ人で
障がい者で
しかも人工呼吸器の使用者で…
このご時世で、そんな私が生きていることは奇妙に感じられる。

個人単位でも、団体や施設などの機構の単位でも、米国でのパンデミックは不安定で、混乱を呼んでいる。私のような障がい者、病人、免疫に不安を抱えるものにとっては、これ自体は新しいことではない。

私たちは常に不確実性の中で生きてきた。そもそも世の中のつくりは敵意をはらんだもので、私たちは、その過酷な状況に適応することに長けている。

扉を開けるときに、手でドアノブを触れたくないなら、ADA(障害をもつアメリカ人法)に感謝してほしい。ひじで押せる自動開閉のボタンは、障がい者が勝ち取ったからこそ浸透してきたものだ。

私が神なら、ただれるような真実を述べ伝えるべくして、ここにいる。技術、アクセシビリティ、そして死にもの狂いで生きてやるという頑固な意思があって、私はサイボーグの信託みたいに見えるはずだ。電動車椅子と、そのバッテリーに固定された非侵襲的人工呼吸器、そのチューブとつながって鼻の上を覆うマスク、私の背骨に固定された金属棒など…私を生きながらえさせるためだけに、これだけ大掛かりな仕掛けが要る。私が声を出し、動き、何かを見る様子は、公共の場では多くの人に同情を抱かせたり、不快感を与える。これが私にとっての「ノーマル」だ。

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コロナ禍で「死ぬべき人」はだれ?それを決めるのはだれ?

すでに3週間、家族とともにサンフランシスコの自宅に避難している。医療崩壊と物不足によって、病院は訪問治療の開始を検討中だとニュースで聞いた。これが、いまの私の悩みの種だ。

すでにアラバマやワシントンなど他州では、医療優先順位(トリアージ)によって障がい者を差別することを勧告している。現地の障がい者の権利団体は、このことに苦情を寄せている。これを受けて連邦保健局の公民権事務局では、感染拡大の局面で起きる差別について速報を発表した。それでも私はまだ心配をつづける。現存の訪問医療における倫理観では、往々にして、私のような人間の優先順位が一番低くなるからだ。

生命倫理学や哲学者を論じる学者たちは、障がい者を「なくす」ことについて言及する。たとえば障がい者コミュニティでは悪名高いピーター・シンガーは、危機の際に誰が生き、誰が死ぬべきかの議論や思想形成を冷静に合理的かつエレガントに展開してきた。

このような議論を世界規模で行う際に、その場に障がいを持つ医師、生命倫理学者、哲学者はいるのだろうか?

トリアージとコロナウィルスについて、サンディエゴ州立大学のジョセフ・A・ストラモンド博士はAmerican Journal of Bioethics紙の公式ブログにこう書いている:

健常者の視点から評価する障がい者の「生活の質(QOL)」と、障がい者自身の自己評価とは大きくかけ離れているという実証的証拠は多い。著名な生命倫理学者の中にはこれを「障がいのパラドックス(矛盾)」と呼ぶ人さえもいる。健常者は、ステレオタイプや偏見に基づいて評価を行う。私は、障がい者が自分自身の評価を重んじることに矛盾は感じない。逆説的な矛盾として概念化することは、障がいは幸福度を必然的に減少させるという間違った仮定あってのことだ。

優生学は第二次世界大戦の遺物ではない。私たちの文化、政策、日々の行いに組み込まれている。専門家と意思決定者がとりわけ心にとめるべくは、医学的人種差別、年齢差別、健常者至上主義の影響を受けているコミュニティを議論に含め、協力しあうことだ。

医療行為をしても、利益のでない人たち

訪問医療に関する議論があきらかにしたのは、私たちの社会ではどのように弱い人々を切り捨てていくのか、ということだ。様々な州の政治や医療制度から策定されたガイドラインでは、若い健常者とそうでない人が比較される。「そうでない人」とは、認知症、がん、知的障害、およびその他の既存疾患を有する人々のことだ。彼らに治療行為を施しても利益を得られない、という意味である。

カリフォルニア州のミッション・ビエホのプロヴィデンス・ミッション病院のER医師であるジェームス・キーニーは、最近ロサンゼルス・タイムズ紙でこのような発言をした:

米国の現状に照らし合わせて考えほしい。家族が「できる限りのことをしてほしい」と願えば、90歳を超えていて、オムツをしていて、重度の認知症でも、人工呼吸器をつけることになるだろう。でも多くの国ではそれが医療過誤だと判断される。その人の命をとりたてて救う理由は?

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医師は私と目を合わせるより先に、私のカルテを読む

すべてが私にとって、とても身近な個人的なものであり、同時に政治的なものだ。私の周りには認知・発達障害をもつ人々がいる。私自身も、必要に応じて使い捨ての紙パンツを使い、食事、着替え、入浴のすべてに介助を必要とする。

もし私がコロナにかかったら、おそらく医師はまず私のカルテを読むだろう。それから私を見やって、彼らの努力や貴重な資源を使うのは無駄だと思うかもしれない。私に使う予定だった人工呼吸器を、私よりも生存率の高い患者に回すかもしれない。

医師がこのような難しい選択をしなければならないのは、「救命価値のある人たち」ではなく、社会でもっとも脆弱な人々についてだ。誰が決断し、誰がその選択の矢面に立つのか。この不平等や差別とせめぎ合う人たちとは別に、つねに守られている階層の人々もいるのだ。

未来は、私ひとりのものではない。
私たちのものであると信じたい。

「生活の質(QOL)」が、あたかも測定可能な規準であるという概念は、一体なに依拠するのか。「良い」健康的な生活とは、障がい、痛み、苦しみのないものであるという仮定に基づくものだ。

私は今3人と親しく同居しているが、経験と人間関係に支えられている。生きてきて、今が一番充実した時間だ。

脆弱な「リスクの高い」人々とは、実は一番強い人たちのことだ。私たちはお互いに依存し、助け合い、何かあっても回復する力強さに満ちている。政治権力の大きな格差の前では、私達は取り残されるかもしれない。それでもどうにかお互いのために、消えてしまわずに、必要ならば顔を出し合うすべを知っている。

障がい者、クィア、有色人種のコミュニティは、もともと相互扶助でじたばたもがいて生きのびて来た。セーフティネットには大きな穴が沢山あいている。国家は、私たちがもれ落ちないように都合はしてくれない。それをわかっているからこそ、なにか豊かにあるもの、知恵、喜び、そして愛をたぐり寄せながら、自分たちを救おうとするのだ。

パンデミックにおいて、副次的被害を受ける人々、犠牲となって当然な存在として扱われることを、私たちは許容しない。未来は、私ひとりのものでなく、私たちのものであると信じたい。割れ目から誰かがもれ落ちるとき、私たち全員が苦しみ、何かを失うのだ。

時間と人工呼吸器の数は限られている。でも創造性、倫理的な思考と行動をする勇気、そして私たちのための場、空間を作るために力を合わせて世界を形作ることはできるだろう。

訳者あとがき
著者のアリス・ウォン氏が、後半でふれているゆたかさは、必ずしも「これまで」を否定するものではない。障がい者による自立運動を知らなくても、自動ドア導入のように、声を上げてきたマイノリティたちによって、歴史が動いてきたゆえの「ゆたかさ」の証の中に、私たちはすでに暮らしている。

あらためて日本のことを考えてみると、圧倒的にFirst-Person(生の声)を発信できるマイノリティは、障がい者も含めて少ない。noteやYouTubeなどのSNSなり、要望書なりで声を上げないかぎり、可視化されない。

政府が5月27日に提出した、新型コロナウイルス対策の第2次補正予算案には、介護の現場に関わる事業所等が「マスク等」を追加購入した場合の金銭的援助が含まれている。まず、障がい者や高齢者当事者も含め、マスク以外の感染予防装備(プラスチック手袋、 ガウン、キャップ、ゴーグル、シューズカバー、消毒衛生用品など)と感染防止体制(デジタル機器や通信体制の整備)の構築が必要だ。しかし、費用面でそれらを整えられる当事者や事業所は多くない。

このままだと「高齢者・障がい者」カテゴリーのままに端っこに追いやられそうだ。しかし、マスク2枚では済まされないものを求めた「そうでない」私たちの声の中に、「ほかの誰か」とつながっていく契機があるにちがいない。

ウォン氏の記事でもう一つ身近に感じられるものでは、プラスチックフリーに対する問いかけが日本語訳されているので、ぜひ読むことをおすすめする。
「プラスチック製ストローの廃止に反対する声も。「必要な人もいる」と障がい者支援活動家ら」

ウォン氏は、障がい者が自己決定によって発信するメディアとしてDisability Visibilityを主催しており、2020年6月30日にはVintage BooksからDisability Visibility: First-Person Stories from the Twenty-First Centuryを出版予定。

社会的マイノリティの視点や歴史の中から、なにか共通項を探し、切り捨てるのではなく「これからのゆたかさ」を学び合うような社会が作れたらいい。「ふんわりと、なんとなくいい感じ」ではなく、泥くさくとも、ウォン氏の言うように「じたばたともがいて」声を出すことで「未来は、私ひとりのものでなく、私たちのものである」と信じられるかもしれない。
ウォン氏が紹介してくれた記事の中から、これからなにか訳すものを探そうと思う。

写真クレジット
・ヘッダー:Eddie Hernandez Photography
・2枚目:ADA(障害をもつアメリカ人法)制定25周年を記念して、リモートでオバマ元大統領による招聘を受け、リモートでホワイトハウスを訪問するウォン氏(英語のWikipediaより)
・3枚目/ 4枚目:ウォン氏の立ち上げたメディアDisability Visibilityより


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