夏野雨 Natsuno Ame詩人。詩集「明け方の狙撃手」(2018年・思潮社)で福岡市文学賞・福岡県詩人賞受賞。「じゃんけんをしながら渡る歩道橋がいちばん好きだ」(2022年・私家版)で第73回H氏賞候補。ポエトリーフェス「福岡ポエイチ」主宰(2012年-2017年)。電子書籍出版レーベル「惑星と口笛ブックス」によるエッセイアンソロジー「コドモクロニクル」等に参加。合唱譜「くまのはなし」作詩(2021年・カワイ出版)。お仕事の依頼はintherain0@gmail.comま
石橋文化センター アートフェスティバル2023で展示を行います 2023.11.3(金・祝)-11.19(日) 10:00-17:00 石橋文化センター園内全域 ※入場無料 福岡県久留米市野中町1015 夏に子どもたちと石橋文化センター内を散策し、植物や生き物などを観察して、感じたことを「ことば」にし、それをつなげて詩をつくるワークショップを行いました。展示にあたっては、白鳥の羽根をモチーフに、季節をつなぐ天体の「はくちょう座」をイメージして配置しています。 ワークショッ
小学生(3~6年生)対象 詩のワークショップ ※参加者募集終了 講師 夏野雨 野島智司 中川たくま 開催日 2023年8月2日(水) 〜 2023年8月3日(木) 開催時間 午前9時半~正午、午後1時半~4時 全4回 開催場所 久留米市美術館1階(制作場所) 福岡県久留米市野中町1015 3人のアーティストと一緒に、石橋文化センター内を散策し、植物や生き物などを観察して、感じたことを「ことば」にし、その言葉をつなげて「詩」をつくるワークショップです。 作った
曲がり角に 木があり 建物があって人がすれ違う バスの群れが進む道の先に それぞれの家はある 山のなかの虫 家のなかの猫 車のなかの人 歩いている コートのなかの体が 少しずつ冷えていくのは 建物のなかから出て ひとりずつになったせいだろうし またあたたまってくるのは ひとりずつになった体のなかで 透明に光る細胞が 水を燃やしているせいだ きみの王国のなかには 誰にも所有されないひとつの森があって 湿った喉をくぐりぬける 白い息も 燃えている 生きている というこ
BBC制作のドラマ「SHERLOCK」にはまってしまい、シーズン1からシーズン4、劇場版まで立て続けに視聴する。二年くらい前、高校以来の友人につよくすすめられて、スマホのメモにタイトルを書いたものの、すっかり忘れていたのだが、機会があって1話を観てしまったのが運のつき。止まらなかった。教えてくれた友人、ありがとう。 ベーカー街221Bには、実は行ったことがある。大学の卒業記念に一人でイギリスを旅行したとき、立ち寄ったのだ。ベーカー街221Bというのは、言わずと知れた名探偵、
音楽が鳴り続けている間 しゃべり続けることにして どこまでも続く午後のひざしのなかを 歩いていった 右足左足 舗装された7月の道を 歩き出すには 走りだすには 雨に濡れた空白が必要で うまれるまえから きこえるまえから はかられつづける 心拍数と心臓の音 波のかたちをえがくには どこまでも空白が必要で こんにちはとポストにとどけられる 宅急便の不在通知にさえも いくつもの波が交差していて ひとつの名前をにぎりしめて 暗いドアをひらくとき 名前のかわりにさしださ
八月が終わる。オリンピックは延期のまま、首相は辞任し、マスクのねだんは上下を繰り返しながらもいちおうの水平線をみつけたように思える。そんな夏を、ほとんど溺れるようなかんじで泳いでいる。Spotifyでよく知らない音楽を聴きながら考えることは、たとえば、トビウオだったらいいのに。怒涛のニュースや日々の暮らしや仕事やあれこれを波として、ヒュッとそれを俯瞰してみたい。 どこに出すあてもないのに風景や気になったものの写真を撮ったり、遠くに住む作家のことが気になってひたすらその人の書
くるくる寿司、という言葉がある。正式な言葉かは知らないが、うちの父がたまに使う。たとえば電話がかかってきて「久しぶりやけん、食べに行こうっち言いよーとよ。くるくる寿司」こんなかんじである。ちなみにこれを訳すと、「久しぶりだから回転寿司を食べに行こうと言っている」となる。 さらに言うなら「食べに行こうっち言いよーとよ。」の部分は、他に同行するであろう人(たとえば母とか弟など)がいれば「こちらで相談したところ食べに行こうという話になっている」ということになり、もしいなければyo
夏が来た。ついきのうまで、冬が終わらないとか、春のしっぽはつかまったのかとか、ぶつぶつ言っていたけれど、いきなり夏が来た。起きたら、日差しが違うのだ。空気がくっきりして、明るい。もうぜったいに上着はいらない。セーターもいらない。炬燵もたぶんいらないだろう。こうなると、ふらふらと散歩にでも出かけたくなる。とはいえこのご時世、おいそれと外に出るのは憚られる。というわけで、写真フォルダ内の散歩に出かけることにした。 2004年5月2日の写真。ちょうど16年前の今日だ。どこか海の近
お風呂につかって、外の景色を見るのが好きだ。建物に挟まれて、すこしだけしか見えない空にも、その時間、そのお天気、その季節ならではの、独自の色がある。そして多くの場合、その色にはそのときの気分が混ざり込んでいる。 世界、窓、自分。お風呂に入るときはだいたい裸なので、ぼんやりと外を見ていると、世界と自分が同じぐらいの重さであるような気がする。または、世界の示す圧倒的な景色にやられて、自分のほうが一新されてしまう。 桜と紅葉の谷間の露天風呂。真夏の海水浴場の、海の家で浴びる生ぬ
こんにちは。夏野雨です。noteを始めます。どうぞよろしくお願いします。 コンセプトといえるかどうかわかりませんが、ここでは、何の役にも立たない話をします。読んでいて、もしかして役に立つのではと感じることもあるかもしれませんが、それは錯覚です。 しかし、まあ、ときには錯覚が有用な働きをすることもあります。たとえば、錯視の効果を利用したイメージハンプと呼ばれる道路標識は、路面に描かれた平面的な図形にすぎないのに、走行している車からはあたかも立体物であるかのように見え、今日も