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トビウオの八月、誰かの光

八月が終わる。オリンピックは延期のまま、首相は辞任し、マスクのねだんは上下を繰り返しながらもいちおうの水平線をみつけたように思える。そんな夏を、ほとんど溺れるようなかんじで泳いでいる。Spotifyでよく知らない音楽を聴きながら考えることは、たとえば、トビウオだったらいいのに。怒涛のニュースや日々の暮らしや仕事やあれこれを波として、ヒュッとそれを俯瞰してみたい。

どこに出すあてもないのに風景や気になったものの写真を撮ったり、遠くに住む作家のことが気になってひたすらその人の書いた小説を読んだり、なぞの石を拾ってきたり、ひとつの予定もないのに何かをたすけるような気持ちで香水を買ったりしていた。これらはすべて個人的なことだ。

イベントや食事の約束は先延ばしになり、ぜんぜん人と会っていない。ごく少ない友人と、すこし増えたメッセージのやりとりのなかで、くだらないことを言い合うぐらい。朗読会やなにやらでしか会わない人というのがいて、そういう人にはぜんぜん会えない。また、そういうところにいる自分というのもいて、そういう自分にもぜんぜん会えない。こころってものがあるなら、私のこころのそういう部分は、そういうところに生息していたんだなあ、とおもう。

夏が過ぎて、もうすこし時間が経って、また人と会うような予定がたてられるのか、よくわからない。嵐が来て岩場のかたちが変わるように、何かは永遠に失われ、べつの何かは留まっているだろう。そしてぜんぜん知らない何かが、新しくそこに住んでいるだろう。それに会うのが、楽しみなような、すこしこわいような。その前に、そんな日がほんとうに来るのだろうか? そんなことを思いつつ、夜の海岸を歩いていたら、水平線に知らない人たちの住むマンションの光がうつって、ぜんぜん私と関係なくて、とてもきれいだった。


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