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ベーカー街221Bの話

BBC制作のドラマ「SHERLOCK」にはまってしまい、シーズン1からシーズン4、劇場版まで立て続けに視聴する。二年くらい前、高校以来の友人につよくすすめられて、スマホのメモにタイトルを書いたものの、すっかり忘れていたのだが、機会があって1話を観てしまったのが運のつき。止まらなかった。教えてくれた友人、ありがとう。

ベーカー街221Bには、実は行ったことがある。大学の卒業記念に一人でイギリスを旅行したとき、立ち寄ったのだ。ベーカー街221Bというのは、言わずと知れた名探偵、シャーロック・ホームズが事務所兼自宅を構えたとされる場所である。コナン・ドイルが作品を世に発表したときには存在しなかった地番なのだが、その後ロンドンの区画整理により、実在することになった。そしてなんと、現在その場所には、シャーロック・ホームズ博物館なるものが存在している。

そのことを知ったとき、これは行かねば、と思った。小学校の図書室でシリーズをよみふけっていたときは思いもかけなかったが、架空の人物の住んでいる住所が後から誕生したからといって、博物館をつくってしまう、その、なんというか大人の本気を見てみたい、的なことを思ったような気がする。卒業旅行の目的は、それだけではなかったけれど。

タワーブリッジ

タワーブリッジの写真を撮ったとき、これはロンドン橋だと思っていた。なんならロンドン橋の歌まで唄っていた。ちなみに本物のロンドン橋の写真は撮っていない。

ベーカー街221B

そんなわけで、ベーカー街221Bである。門前には門番が立ち、写真撮影にも応じてくれる。内部は当時の私の想像よりずっと細長く、階段のつきあたりに大きな窓のある部屋があった。一度その階段を登ったことがあるせいか、ドラマ「SHERLOCK」を初めて観たとき、シャーロックやジョンの暮らす部屋が、行ったことのある場所のように感じられた。階段の急さ、窓のあかるさ、向こうの部屋へとつながる短い廊下。

とても不思議な感覚だ。ドラマの撮影された部屋は私の訪れたシャーロック・ホームズ博物館ではないし、彼らは架空の人物だ。それなのに、その映像作品を観ているときはほんとうにその人物がいるように感じるし、実際ロンドンのその地番には今もホームズの部屋があり、世界中から観光客が集まっている。

シャーロック・ホームズ博物館の階段を登り、驚いたのは、窓辺の卓と暖炉上の燭台に、本物の炎が揺れていたことだ。そしてさらに驚いたことに、ごたごたとしたホームズたちの私物(たくさんの紙、絵、パイプ、バイオリンなど)に埋もれるように置かれたソファの上で、メイド服姿の女性がゆったりと本を読んでいたのだった。

「Ms.ハドスン?」
ゆっくりと記憶を思い出しながら、私は訊ねた。この服を着てこの部屋にいるこの女性を前にして、他に言葉が出てこなかった。

「もちろんそうよ。本物じゃないけど」
その人は答えた。どうも博物館の人らしかった。
私の想像の中のハドスン婦人より、その人はだいぶ若かった。もしかしたら当時の私とあまり変わらなかったかもしれない。

ハドスン婦人のいる部屋を後にして、いくつかの部屋を見学する。吹き矢、実験道具、仕込み杖、蝋人形、写真、調度品、などなど、などなど。これでもかというぐらいホームズたちの部屋だった。なんだか笑ってしまった。

架空の人物の部屋を、ここまで整えてしまえる、ホームズとその作品を愛する人たちの本気というかもはや執念に拍手だった。

さて、そんなシャーロック・ホームズ博物館は、19世紀のホームズたちの部屋を今も展示しているが、BBCのドラマ「SHERLOCK」は現代の設定で、携帯電話もめちゃめちゃ出てくる。GPSとか、現代の機器を使った捜査と推理、そこがまた新鮮で面白いのだが、一番の見どころはやっぱり、登場人物たちの関係性なんじゃないかと思う。ホームズとワトソン——シャーロックとジョンのバディ感、宿敵モリアーティとの奇妙なシンパシー。観ているうちにシャーロックがものすごくかわいく見えてくる。全く不思議なことに。

住宅街。駐車場のない時代の住宅がそのまま使われているので、皆路駐していた。

存在しなかった地番が存在するようになり、存在しなかった部屋が存在するようになる。19世紀を生きるホームズの私物が集められ、手入れされ、燭台には火が灯される。ハドスン婦人は今日もソファに座る。21世紀のホームズはシャーロックと呼ばれ、携帯電話を駆使して犯人と対峙する。相棒がいつもそばにいる。私はそれを画面の向こうから観る。演じているのは現代を生きる俳優だ。現代劇らしく、役とリアリティの間を台詞が行き来する。小説は演劇に変わり、演劇の手法も変わる。そして物語は続いていくのだ。そのことは、直接的には今の私の生活とは何の関係もないけれど、見知った誰かの本気みたいに、今の私をつよく励ます。


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